警戒を強めなければならない、福島に限る「特例法」

2016-09-27 08:32:44 | 日記

   警戒を強めなければならない、福島に限る「特例法」

 

  「福島第2原発で特例法検討・施行後3年で廃炉も―地元同意義務付け」これが福島県の地方紙「福島民報9月24日の1面トップ」の見出しである。

   「政府は東京電力福島第2原発(福島県楢葉町、富岡町)について、再稼働申請の条件を地元自治体の同意を義務付ける特例法の制定を検討していることが23日明らかになった。施行後3年間で地元同意を得られなければ廃炉にすることを盛り込む。原子炉等規制法の『特例措置』として早ければ26日召集の臨時国会に法案を提出する方針」と報じている。

     これに先立ち世耕弘成経済産業相は、8月19日福島県庁を訪れ就任後初めて内堀雅雄知事と会談をしている。その中で内堀福島県知事は東京電力福島第2原発の廃炉を求めたことに対し、世耕大臣は「一義的には東電が判断するものだ」としつつも、「福島県民の心情を察すると新規制基準への適合審査を申請している他の原発と同列に扱うことは難しい」との認識を明らかにしたとも報じられている。(福島民報8月20日)

    これらを踏まえ、紙の記事は「福島第2原発については、今もって東京電力は明確な対応方針を示していない。福島県や同県議会は廃炉を求めている。政府が地元の意向を尊重することを法律で定めることにより、再稼働は一段とハードルが高くなり、廃炉の可能性が高まりそうだ」と解説をしているが、果たしてそうなるだろうか。

     そこで、この二つの記事を重ね合わせて考えてみたい。

    政府は、規制委員会の「新規制基準」を世界最高の厳しいレベルのものであり、その「適合審査」により安全と判断されたものから再稼働をすすめるという方針である。また原発を日本の重要な電源であることを公言し、さらに「安全原発輸出」を国策として強めている。そこで特例法の内容であるが、福島第2については「他と異なる」。よって規制委員会に申請をする前に「地元住民の同意」が必要と定めるとしているのだが、同意を必要とする「地元」の対象を明らかにしていない。前記を見ても明らかなように「第2原発の立地自治体である楢葉、富岡」と両町名を明らかにしている。さらに両町は、他に比べ低線量地区であったこともありいち早く住民帰還が取り組まれた地区である。そこで特例法成立3年後の町は、そして住民の生活実態はどうなっているか。その先が見えないことは確かである。

  世耕大臣が述べている。「福島の場合は特別で、住民感情を考慮しなければならない」と。ではその住民を第2原発から30キロ、あるいは60キロ離れた「地域の住民の感情を無視できない」となるのか。そのことはすでに取り組まれた再稼働地域の実態からも甘いものではないことが明らかである。

    しかし、政府も電力会社も再稼動の原点は「経済」である。そこには「住民感情」なるものを差し挟む余地はない。さらに無視できないものとして「福島第2の他県の原発への波及効果」がある。

   その中での「特例法制定」とはいったいどういう風の吹き回しだろうかと訝るのは私だけであろうか。

   さらに指摘をしたいものがある。経済問題であれば当然にして廃炉費用を含む補償問題も絡んでくる。「特別立法」により住民の同意が得られなかった。その場合、東電は「国が定めた法律に従い廃炉を決定した」という受け身の立場に立つ。よって「廃炉は国の規定によって決めた事、廃炉を含む一切の費用は政府(国会)が負担すべき」という論法が出てきても不思議ではない。現に、第1原発にからむ費用の負担を「未踏の分野」を理由に東電は政府に負担を要求し「世耕有識者会議」でその実現が準備をされている。そこに消すことのできない「東電の責任」は霧散してしまうことは確かである。負担と責任は国(政府・国会)に移り、強いては国民となる。

   よって 政府は(電力会社)あらゆる分断政策をはかるだろう。それに対抗するものとして福島住民の意志が、全国民の意志となるための「総がかりの運動」が展開されなければならない。しかし、「言うはやすし、行うは難し」である。

  ここまで書くと、それでは貴方は「特例法の制定に反対か」との反論を予測する。しかし、この間、政府や・電力会社が進めてきた事実を知る。そして沖縄における米軍基地の建設を強行する政府の姿勢がある。それは、いずれも「対立と分断攻勢」である。「反対しにくい、そこには亀裂が生まれる」という対立と分断の攻勢をもった歴史を幾度も経験をしてきた。そのことを鏡にして「警戒を強めなければならない特例法」であることを強調したいと思う。

 

 


空港は無くならない。原発もまた無くさないという。それってどこか一致していない?

2016-09-21 13:58:43 | 日記

 空港は無くならない。原発もまた無くさないという。それってどこか一致していない?

 

    「東電の福島第1原発事故の賠償には、国の認可法人『原子力損害賠償・廃炉等支援機構』から必要な資金の交付を受けている。同機構には大手電力が負担金を納付している。しかし、ここにきて東電の數土会長が『未踏の分野である。しかも膨大な費用が伴う廃炉の費用、及び賠償金は背負いきれない』として政府に検討を申し入れを行った」のが9月の上旬であった。

  ここにきて政府の対応が示された。あたかも「待っていたかのような素早い姿勢」である。

     その内容は次の通りである。「政府は、東京電力福島第1原発の廃炉費用の支援などを検討する有識者委員会の初会合を来週にも開くことが16日明らかになった。複数の財界人らが加わる方向で調整している。そして東京電力ホールディングスの経営改革も併せて議論し、費用負担の在り方について年内に一定の結論を出す方針だ。委員会は経済産業省と東電、原子力損害賠償・廃炉等支援機構のほか有識者らで構成。費用の担によっては電気を利用する国民の負担増につながるため、オールジャパン体制で検討する。安易な救済策にならないよう、東電にも厳しい経営改革を求める」というものである。(時事通信9月17日)

     しかも、想定される有識者と称するメンバーは、経団連会長・日本商工業会長をはじめとする大企業のトップの顔ぶれとなっている。しかもオブザーバーとして東電の広瀬社長が参加をするということも報じられている。

     政府に、財政的支援を求めということは国民に負担を求めることである。また「新電力会社」に応分の負担を求めるということは電気料金への跳ね返りが生まれる。いずれ国民に負担を強いる事にある。そうであれば「国民の意志が反映されることが筋」であろう。共通の「大きな財布」を持つ仲間の総意によって決められるものではない。まずもって有識者会議なるもの構成メンバーを含めて疑問を呈したい。

  そこで、どうしてこのようなことになるのだろうかということを考えてみた。そこで思い当たるものがあった。それは「日本の航空料金は何故高いか」というテーマと結びつく。

     現在国内の空港は97、成田、羽田、大阪伊丹をはじめとする国の管理と地方自治体それなどであるが、同時にすべての空港は国の設置、及び管理下に置かれている。そこに「空港整備特別会計」がある。その帳簿には、全国すべての空港における「空港使用料、燃料税、着陸料、停留料、保安料、施設使用料など」が歳入として計上される。つまり儲け頭の羽田や大阪伊丹などの膨大な収益が全国の赤字空港に流れ補填される。そして維持される。

     地方の軌道やバスの赤字路線は、地域住民の存続要求があっても廃止に追い込まれることが多い。しかし、空港は安泰である。地方自治体が設置した空港を、廃港させる行政の方針が出たとか、議会が決議したというケースも聞かない。それだけではない市民からの声も上がらない。仮に「県の空港は赤字だ。県税からの持ち出しが必要」だとなっても、県民は果たして「わが県の空港を廃港しても良い」となるだろうか。

  国策として政府は空港を維持する。自治体もまた市民も「赤字」を黙認する。経営上成り立たなくとも「空港は残る」。そして、そのツケは「高い飛行機代」となる。それでも国民は利用をしていく。

     国策として進められ、それにあやかった大手電力企業が、資本を繰り出して参画、拡大をしていった「原発」である。そこで「採算が取れない、やっていけない」として政府に資金援助を求める。これってどこか「空港整備特別会計」に似ていないだろうか。そこには「無くすことができないもの」ということで一致する。

    「無くすことのできない原発の政治的意図は何か」。それは「燃やし続けるしかないプルトニュームの存在か」。では「無くすことの出来ない空港の意図は」。それは「軍事的基地としての国内温存」と考えたらどうだろう。

     右も左もわからない一市民の感覚であるが、そうなると辻褄があっているような気がする。いかがだろうか。


要介護者の「認定率下げれば交付金を」・それって筋違いでない?

2016-09-18 14:14:03 | 日記

  要介護者の「認定率下げれば交付金を」・それって筋違いでない?

 

    「認定率下がれば財政支援=介護費抑制で自治体に―厚労省」(時事通信・9月17日)という記事を見る。報道によれば次のようになっている。「厚生労働省は16日、高齢者らの自立支援に取り組み介護サービスを受けるのに必要な「要介護認定」を受けた人の割合(認定率)を下げた都道府県と市区町村には財政支援する方針を固めた」と。

  その背景には、膨らみ続ける介護費の抑制と地域間格差の是正に狙いがあり、23日の社会保障審議会(厚労相の諮問機関)の介護保険部会に示し、年末にまとめ2018年度介護保険制度改正案に盛り込む」という解説が報じられている。

     いわゆる2025年度を前にした「大介護時代」を予測してのものであることは否定できない。ましてや要介護度の認定率の低下をもって財政支援をするということは「お手柄に対する報奨金」ということである。そのようなことが許されて良いのだろうか。

    そこで記憶をたどり、それに関係することがらを探した。パソコンはいろいろな情報を提供してくれる便利なものである。ここに滋賀県の「民間主要介護制度改善交付事業」の事例がある。その方針には「高齢者の要介護度を改善し住み慣れた地域で自立をした生活ができるよう。そのための一定の成果に対し交付金を支給する」とし、その対象事業はディケア及び認知症ディであり、届け出た事業所のうち「要介護度の改善率が高い事業所に対しては定員1名あたり月1万円の交付金を支給する。それは平成24年度から始まり、平成26年の実績では102の事業所と、その交付額は32.300千円である」と報告されている。そして取り組みの一事例を次に紹介している。

  1.利用者の身体機能や生活をリハビリ専門職(PT.ST)が中心に多職種で評価し利用者個々のプログラムを作成し、機能訓練や自主トレーニングを行っている。

  2.必要に応じ、自宅を訪問し環境調整や生活動作の指導を行っている。

  3.いきいき百歳体操を個々の能力にあった重鐘を使用し行っている。

  4.有酸素運動(エアロバイク)が9割をこえる利用者に対して20分以上行っている。

    さらに東京品川区の事例がある。要介護度1の改善(2から1に改善された)に対して月2万円、以下順次、介護度の改善に対しては4万円、6万円、8万円との奨励金の支給を示している。そして、これら改善事業の推進によって「これまで以上に利用者に関心をもって向かい合うようになった」「声掛けや見守りが充実した」「自立支援に向けて離床が進み、規則正しい生活ができるようになった」などの現場改善も進んでいるという総括がなされている。

   「要介護度が軽くなる」ということは、例えば病状が軽くなると同じように本人にとっては喜ばしいことである。しかし、介護と医療の違いをそのような譬えをもって語られるのだろうか。もちろんリハビリによる身体機能の回復という面は医療の分野であろう。では介護認定者の訪問をにこやかに迎えて普通に振る舞う老婆の姿がある。しかし、認定者が帰った途端に元に戻り粗相もするということがある。いわゆるこの「瞬間的健常」の状態は決して少なくないと言われている。この実態をどう見るかもあるだろう。

  また、要介護度の回復ということをもって介護士の人員が削減されることはないか。例えば、改善の取り組みの結果深夜の呼び出しが少なくなったという報道を見たことがある。そのことによって深夜の人員削減がなされた。しかし、呼び出しはいつ発生するかはわからない。介護度が改善されたからと言ってそれがいつもそうであるかの保証はない。緊急の対策を必要としたとき対応ができるのだろうか。これらのリスクも考慮されなければならないだろう。

  そこで考えたい。「要介護度の改善は本人に対するものなのか、それとも介護費用を削減するためのものなのか」。まずここから出発したいと思う。報奨金や交付金は得てしていわゆる「山吹色」に代わる。要介護者本人や介護士本人のためではなく事業所経営に利するものとなり、政府の社会保障に利するものとなりはしないか。

  ここでもう一つの事例を報告したい。特老施設のボランテァに参加をした。施設内の清掃や洗濯のお手伝いである。ところが施設が採用をしていた介護士や用務員がいなくなっていく。ボランテァのお手伝いは本務者の介護業務の充実に役立つもでなければならない。にもかかわらずそのことによって本務者が削減されるという筋違いの事例が発生する。今般の制度改定にその本質が隠されていないか。そこを見抜かなければならないだろう。


「高齢者の『公共の足』を確保する」・「他にまなび・そして追いつこう」の実践を

2016-09-13 05:33:49 | 日記

 「高齢者の『公共の足』を確保する」

      「他にまなび・そして追いつこう」の実践を

 

     高齢者の運転事故と「免許証返上」について再度述べたいことがある。

     地方においては一家に車が2台、3台という状態は珍しくない。父の乗る車、そして母。そして子どもの成長に従いさらに増える。そこに駐車場の問題が発生する。うまくできているもので近くの高齢者宅が空き家となりとり壊される。そこに新居を構える遺族は少ない。むしろ無いに近い。そこが「車庫証明」としての駐車場によみがえる。やがて独立をした子どもの車はそこから姿を消す。「空き駐車場あり」の看板が立ち始める。

    さて、免許証を返上した親の足を子どもが支えるかと言えばそうはならない。その時には子どもはいない。そこで頼りにしなければならないものに「公的機関であるバス」の利用がある。場合によってはタクシーの利用もあるだろう。

    よくよく考えてみる。自動車の購入費はともかく、その車を維持するための費用はどのくらいかかかるだろうか。自動車税、年齢に応じて高くなる保険料(私などは年間8万余円)、さまざまであるがガソリン代があり、車検料などもある。場合によっては駐車料もある。それらを考えると自動車を運転することによる支出は決して小さくはない。その支出をバスの利用代にと考えると結構乗ることができる。しかし、不思議なもので利用の度に財布からの支出することには、自家用車の利便性を無視したとしても抵抗がある。また、利用頻度が少なくなっていく路線は1時間に3本の運行が2本となり1本となり、やがては廃止される。「公共の足は不便になり、そして無くなる」ことも現実である。

    そこに、「高齢者の『公共の足を考える』という要求」が生まれ、自治体選挙の候補者の公約とる。しかし、存在をしていた「公的助成」も消えていく自治体が多いのも事実である。

    かく言う私の市も住民の要求により「高齢者福祉利用券」なるものが誕生をした。75歳以上の市民には、申請により「年間8000円の利用券(500円×16枚)が交付されている。それはバスのチケット購入、市内の指定浴場の入浴、タクシー利用などに使われる。

    さて、その利用の実態はどうかとなる。当市内を運行するバス会社は市内乗り放題の「年間23.000円の定期券」を発行している。そこで4000円を定期代に、残りを入浴代に利用するというケースも生まれつつある。

    よく「他にまなび、そして追いつけ」ということが述べられる。私たちもそのことをもって「市政要求」の運動を起こしている。そのことを次に報告したい。

    市内を運行しているバス会社は隣の市内でも運行をしている。その隣の住民運動の結果、市は75歳以上の利用者に次の「高齢者無料乗車証」を発行することになった。「高齢者の積極的な社会参加支援と公共交通の利用促進を図るため、75歳以上の方(市民と広域避難者)を対象に、「ももりんシルバーパスポート」を交付して、市内路線バスの運賃無料化を実施します」というものである。利用者はそのパスポートを自動発券機に押し当てることによって、いつでも、どこからでも無料で利用することができる。そして今、その住民運動は70歳以上までの無料化の実現が要求されている。

    なお、両市内を運行するバス会社の年間運賃収入がいかほどか。とりわけ私の市内に限る売上額はわからない。しかし、当市はそのバス会社に「路線運行奨励策」として年間1億を超える助成金を支出していると聞く。経営努力を促すものとしての助成であろうが、市民の利用者の拡大を実現させることによる助成こそが筋というものであろう。

   来年の「免許証返上」の決意を失わないためにも、「路線バス無料化」の要求を続けたいと思う私の昨今である。


武器を使うということ・戦争をするということ

2016-09-12 16:46:31 | 日記

 武器を使うということ・戦争をするということ

 

    「無人爆撃機」1万キロ先から誘導。現地の兵隊はのみならず、誤爆であったにしても民間人を殺傷した操作兵士が、自宅に帰ればその手で我が子を抱き上げる。このことについては過日のブログに書いている。

     そしてロボットの装甲車の登場である。それだけではないネットはいろいろな情報を提供してくれる。その一つに「ミサイルに変身して自爆攻撃するドローン」の紹介がある。イスラエルの主力航空機メーカーで、自国の国防軍の軍用機などを製造しているIAI社が無人航空機(ハロップ)を開発した。技術的には「うろつき型兵器」に分類されるという。つまり攻撃目標を定めるまで飛び回る無人機に付けられた名称である。そして自動追跡が設定されたあとは「カミカゼ」的な使命を帯びて目標に向かい自爆をする。別名この「特攻ドローン」とも呼ばれる無人航空機は、2015年の夏にIAI社が行った実験で、無情なまでの効果を上げる武器であることが証明されたと報じている。

     弾頭には約15kgの爆薬が詰め込まれる。最大6時間、上空を徘徊することができる。そして通常光と赤外光の両方で標的を観察できるカメラを備えている。まさに恐ろしい無人兵器の到来である。「二足のロボット兵」の登場も時間の問題かもしれない。

    昨年夏の参議院予算委員会において、当時の民主党の議員であった福山哲郎氏が政府と次の質疑を取り交わしている。その一部を昨年8月のブログに掲載をしていることを断っておきたい。さてその質疑の内容である。「後方支援も、従来の『非戦闘地域』の概念よりずっと危険であり、自衛隊員のリスクは高まる」と述べたうえで、このリスク高まるということについて安倍総理は認めておられない。それだけではない「今までも、自衛隊員は十分リスクを覚悟して任務を遂行してきた。もちろん訓練においても、災害救助の場においても隊員はリスクを覚悟で任務を遂行してきた。そして今まで1800名の隊員の尊い犠牲があった」と答えている。「戦場における死の覚悟という質問に対し、この『はぐらかし回答』は無責任そのものである」と福山議員は怒る。当然である。

    そして今般、現地における「駆けつけ警護」が任務に加えられた自衛隊員が南スーダンに派遣される。「戦場とはどういうものなのか」「武器を使うということは何を意味するのか」ということを実体験するかもしれない派遣である。

     安部首相をはじめとして、所管大臣そして防衛官僚は理解をしているのだろうか。戦場は人間の理性が通用する「世界」ではないということを。そして第二次大戦時とは比較にならないほどの殺傷力の武器が開発、使用されていること。加えてロボット兵器の実戦化である。さらにそれが無限に拡大されようとしている。この認識を問わずして「戦争は語れない」ということを肝に銘じるべきではないか。

     にもかかわらず政治の場では「別世界の言葉」が繰り返されている。しかし、当事者はそのことを隠そうとはしない。かつて、海上自衛隊のトップであった古庄幸一元海上幕僚長の次の言葉がある。プライムニュースの席に招かれた際に、反町理キャスターの「専守防衛」はあり得るのかという質問に対し次のように答えている。「軍事的原理から言えば専守防衛はあり得ない。やられるという恐れがあったら先にやらなければ身は守れない。やられてから、やり返すということでは遅いのです。これが世界の常識です」と答えている。極めて当たり前な発言であろう。

     中田元防衛大臣も、これらの「はざま論議」に対し回答を窮する場面があった。さて安倍首相の「秘蔵っ子」、稲田新大臣はどのような言葉を用意するだろうか。

    「武器を使うということ」「戦争に参加をする」ということは、破滅と消滅を意味する時代にあることを認識すべきである。