朝のテレビを観て、伝えなればならない福島の原野・「火野正平・こころの旅」から

2016-07-22 20:58:37 | 日記

  朝のテレビを観て、伝えなればならない福島の原野・「火野正平・こころ旅」から

  15歳から働き続けた45年、そのご褒美として頂いた「年金生活者の朝のひと時」である。そして始まる「朝ドラであり、火野正平のこころ旅」の時間である。朝ドラのモデルとなっている「とと姉ちゃん」に、若いころ手にしたことのある「暮らしの手帳」の記憶を呼び起こし、「こころ旅」の映像には、かつて訪れた事のある記憶の風景を重ねて懐かしい時間を過ごすことができている。

 さて「こころ旅」である。今週の火野さんチームは北海道を駆け抜けている。そして5人のチャリンコチームが走る道路の左右に広がる原野が目に入る。そこに人の手が入れば牧草地となり牛が草を食む土地となっている。しかし、人の手が入らない土地は原野そのまま、それでも北海道の原野は「生きている」ということである。「口にすることのできる野草もそこにあり、生息して生き物を『食する』こともできる」。また、人の手を入れることによって「活き返る希望」もはらんでいる。

 しかし、人の手が入らなくなった福島第一原発周辺の原野は、北海道とは異なり死んでいる。「蕗も、ヨモギ」も口にすることができない。原野と化した地で生きている牛の乳も肉も食することができない。そこからは何の恵みも頂けないという原野が福島原発周辺である。そして、その土地は、5年前までは人の手によって耕され、作物が育てられた「恵みの土地」であったということである。

 そして今、破壊された原発の廃炉にむけた作業が進められている。厄介な地下水の侵入、その水の汚染防止の対策、「究極の汚染水対策とされた凍土壁が凍らない」という事実に直面している。さらに溶けたと「核燃料のデプリ」の取り出しは困難とされたところから「石棺方式」の採用が提起された。福島県をはじめとする地元自治体の抗議の中で取り下げはしたものの、一端表明された現実は確実に残ったということである。むしろ「そこに目的があった」と受け止めるべきと考えるべきではないか。

 原発被災地を縦断する「国道6号線」の左右に広がる「人の手が入らなくなった原野」を、火野正平さんたちが駆け抜けた北海道の原野と重ね合わせ、あらためて「原発再稼動許さない」という意識を強めた朝のひと時であった。

 

  国道6号線のガードレールの左右に広がる原野、そこには柳の木も見える。「古老は述べる。柳の根を這った土地は元には戻らない」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


安倍内閣に一矢を報いた「福島・沖縄参議院選・鹿児島県知事選挙・東北五県の勝利」

2016-07-12 12:04:35 | 日記

 安倍内閣に一矢を報いた「福島・沖縄参議院選・鹿児島県知事選挙・東北五県の勝利」

 

    「この参議院選候補者に現役の大臣が2名います。それが『米軍基地のある沖縄』であり、もう一つが『原発破壊基地の福島』の候補者です。このことは、その大臣候補者と戦っていると同時に、いやそれ以上に自民党総裁である安倍首相との戦いであります。この勝敗は安倍内閣に致命傷を与えるか、それとも私たちが致命傷を受けるのかの闘いです。だからこそこの二つの選挙区では絶対に負けられません。その一つである福島は勿論です。それは岩城法務大臣にではなく、安倍総理大臣に勝つことなのです」(7月1日(金)「増子輝彦郡山地区決起集会」における候補者の決意の言葉)

  そして結果は総理大臣に挑んだ増子輝彦候補が勝利を手にした。さらに海を挟んだ沖縄においても現大臣を打ち破ることができた。このことは自・公陣営の圧勝にも勝るものであり、自党の候補者名にバラの花を飾り、笑みを浮かべている安倍首相に一矢を報いたものとなったのは事実であろう。顔とは異なり心の中は穏やかではなかったはずである。それだけ重みのある福島、沖縄の勝利であった。

  そして、その陰で小さく取り上げられた「鹿児島県知事選挙」がある。安倍内閣の原発政策に忠実であり「薩摩川内原発の再稼動」を受け入れた現知事は、8万票の差をつけられ挑戦者の三反園訓氏に敗れた。新知事は「熊本地震を考慮し原発の一時停止と点検」を求めている。再稼働を容認してきた県の方針の転換のみならず、自民党の原発政策に大きな影響をもたらすことは事実であろう。これも安倍首相にとっては大きな痛手であったはずである。

  加えて、東日本大震災の直撃を受けた東北地区の一人区選挙の闘いがある。青森、岩手、宮城、そして福島、さらに避難者受け入れに尽力をした山形の五県で自・公との対決を制し勝利を納めた。政権与党があの手この手で繰り広げた「災害復興を金目とする交付金政策」をも通じなかった結果である。

  私たちはこの3つの成果をしっかりと受け止めるべきである。そして「早まるであろう解散・総選挙」に対応する知恵と経験にしなければならないのではなかろうか。

  また、触れなければならないものに今般のマスコミの姿勢がある。告示日三日後に早くも「自・公過半数獲得」という記事が新聞紙上に展開された。そして終盤に至っても治まることなく、拡大宣伝となったことである。同時に一方では「憲法改正を争点にすべき論」を展開させた。そのことは「社会的公器の責任としてのマスコミのあり方」からして正論である。そうであれば「なぜ政権党はそれを争点にしないのかの暴露」も合わせて報道することが「公器」の責任というものであろう。しかし、その追求は鈍かった。

  そして選挙終了後の10日夜、TBSの番組に出演をした安倍首相は次のような発言をしている。「憲法改正についてはこの選挙で是非が問われたとは考えていない。今後は与野党関係なく憲法審査会でしっかり議論してほしい」と述べている。「この選挙で是非は問われていない」とする安倍首相は、すでに、これから始まる国会の論議での次の言葉を用意しているだろう。「去る夏の参議院選挙で私は一言も憲法改正には触れなかった。しかし、マスコミはこぞってそれを取り上げました。また自民党は憲法の改正を党是としています。改憲草案も用意していますし、お示しをしてきました。よって国民の皆さんは憲法改正が緊急の課題として受けとめてこられたと思います。要は憲法のどこを、どのように変えるかの論議を静かにすれば良いのです。参議院選時は経済が優先でした。よって特段その提起をしませんでしたが、それは国民は承知のことです」と。まさに安倍流の国会発言である。

  そして、公認権を持つ総裁でもあるのが首相です。「再選禁止の党規則」を変えることも簡単でしょう。現に稲田政調会長もそのことに触れています。東京オリンピックの高揚の中で「何でもあり」の政治を強行する危惧は否定できません。そのことをあらためて痛感した参議院選挙であった。安倍晋三という政治家は恐ろしい人である。

 

 


「国はもっと介護対策に力を」・15歳の少年の言葉に勇気をもらう

2016-07-07 09:47:16 | 日記

 「国はもっと介護対策に力を」・15歳の少年の言葉に勇気をもらう

 

    私のブログ「高齢社会に生きる・知恵と工夫・そして言葉」のタイトルを検索頂いて次のようなメールを頂いた。言葉を交わし合うということは嬉しいことである。それも離れた距離にある知人、友人からの交信は、パソコンの機能が生かされたものであり、もっと、しかも高齢者の間で普及されることを自らの経験から奨励したいとあらためて感じた。

 まず、次のメールは40代の女性からのものである。

 「現代の子ども・老人の貧困が頭に浮かびました。ここ数年、よくメディアでも取り上げられている問題です。今後は、安倍政権のもとで、更に悪化の一途をたどるようにも感じられます。それに加えて、育児と親の介護がセットになり、私たちの世代も貧困に足を踏み入れそうな気配さえ感じています」

  そして80代の男性。もちろん年金生活者である。確定申告の勉強会が縁となり時折の交信が続けられている。

 「この度の参院選につきましては、今までなかったようなムードを感じます、それは安倍総理の居丈高とも感じられる自己主張です。野党の存在など物ともしないような主張は, 翻って考えますと安倍さんの危機意識の表れとも受け止められます。結果的にそうなって欲しいのですが。今は、身の回りの知友に働きかけるだけの知恵しかありませんが」と。

  今、すべての報道機関が「安倍政権圧勝」の予測をしている。「過半数を超えるとか、三分の二に到達するとか」。これは告示日3日後の報道がそのまま後半になっても受け継がれている。それでも「安部政権には勝たせられない」とする、お二人の言葉にまだまだ頑張る余地があるとの気持ちを強めたところであった。

  さらに捨てたものではないとの想いを強くしたものに次の文章がある。「毎日新聞・みんなの広場5月21日」の高校生(15歳・浜松区西区)の投稿だ。その文章には「少子高齢化が進む現代で、介護について考えることは必要不可欠であること。自分の祖母の認知症と同居する叔母の介護の疲れ。その愚痴を聞かされる度に面倒くさいとなる自分の抵抗心。それでも『介護の負担と虐待』などが個人の責任では負いきれないこと、そこに国の責任があることが述べられている。そして可能な時は、祖母の元を訪れ少しでも叔母が楽になるようにしたいと思う」という、優しい少年の一途さを感じ取れる文章となっていた。

 今、一部の国会議員や若者、母親などから「国の予算の使い方が高齢者優遇になっている」との発言が強まっている。そのことが年齢間の隙間(分断)の拡大を起こしている。しかし、現に親の介護のために休学、退学をする子どもや、あるいは離職する子どもの増大は日増しに高くなっている。もはや年齢間の区別を超えた「貧困の拡大」と、それにともなう「人生の共倒れ」の実態が明らかになっている今日、この15歳の少年の言葉は社会の、そして政治への鋭い指摘となっているものと受け止められないか。そして、このような少年の存在に先の希望を与えられた想いとなった自分がいることを報告したいと思う。
 


学校施設内に「期日前投票場」の設置、「ストンと落ちない」私の意見

2016-07-06 16:24:29 | 日記

 学校施設内に「期日前投票場」の設置、「ストンと落ちない」私の意見

 

    今、この時期に不謹慎との批判を受けるかもしれないが一つの疑問を提起したい。

  福島県の地方紙「福島民報」(7月5日)の一面に、【18歳選挙権】の特集として県内の1高校内の施設に期日前投票場が開設されたことを写真入りで報道されていた。投票ができるのは同町在住で、期日前投票翌日までに18歳以上の誕生を迎える生徒である。町の選管によるとその対象者は10数人と報じていた。

  長年言われてきた投票率の低下、とりわけ若年層の低い投票率は常に問題となっている。そこに18歳から19歳の若者が加わる。何としても投票率を上げたいとする選管の意図は理解できるが、どうしても「ストン」と落ちないものがある。新聞記事もそうであったが、テレビの地方版でも投票する女生徒の姿や投票を終えて語る生徒への取材画面が報じられていた。そのことは良い。だが対象者10数人という限定された環境の中で実施するところに疑問を持つ。

  個人のプライバシーが問題視された中で、数年前から投票会場に設けられた受付席に衝立が置かれた。それは、投票用紙を持参し受付を済ます有権者に受付の確認印が押されている選挙人名簿を見せないようにすることを目的としている。つまり個人のプライバシーを守るということなのだろうが、候補者名を用紙に記入するテーブルを衝立で覆うこととは多少重みが違うように思う。それは「投票の秘密」は保証するという原則に立っているからである。しかし、今もって受付席の衝立には違和感を持つ。

  さて今回の高校内施設に投票場を設けたことだが、それが投票率の向上と18歳から19歳の投票行為の促進ということであっても、誰が投票をし、誰が投票をしなかったということが特定できるものに結び付きかねないからである。もちろん、後から地域の投票場に行けばよいという説明は付くにしてもだ。「特定の少人数を対象とする投票場の設置」にはどうしても納得がいかない。

   「支持政党なし党」の党名選挙が今問題になっている。近年、いわゆる「無党派層」と呼ばれる、特定の政党の支持を持たない有権者が増えている。その「支持政党なし」の有権者は、政党名で投票する比例区には選択肢がないため、自分の考え方に合致していなくても、その時々の人気のある候補者に投票するしか道がないとされている。だから「支持をする政党がない有権者」が自らの意思表示として「なし党」に入れることが有権者の権利だと言えばそうなるだろう。手続き論も含め、その行為は「法には触れない」として選挙管理委員会は受理した。これもまた当然であるが前記の「校内投票場」は性格を異にする。

  投票率向上のキャンペーンは政権与党には有利に働くとの見方もある。仮に意図的ではないにしても18歳向けキャンペーンが自民党が用意した「アイドル候補」への有力な「追い風」になるとしたら一部の政党にとっての集票は有利に働く。「ストンとは落ちない」とするのもそこにある。今回も提起する。「聞いてください。そして意見を述べてください」と書き込んだ80歳の私である。

 

 


「聞いてください、そして意見を聞かせて下さい」・老化ということについて

2016-07-04 09:01:36 | 日記

   「聞いてください、そして意見を聞かせて下さい」・老化ということについて

  私が住む市では「おたっしゃ長寿アンケート」となるものを実施している。年一回、市の「地域ケァ推進課」よりアンケート用紙が郵送される。回答をしないと「督促の手紙」をいただくので最近はきちんと返信を送ることにしている。そして今回、その回答にもとづく結果票が送られてきた。そこには「認知予防の必要あり」「講座受講の勧め」が書かれていた。その判断は何をもってしたのだろうか。前記のアンケートの設問に次のような項目があった。

 ◆ 周りの人から「いつも同じことを聞く」などのもの忘れがあると言われますか。

 ◆ 自分で電話番号を調べて、電話を掛けることをしていますか。

 ◆ 今日が何月何日かわからない時がありますか。

  これらの設問に対し「はい・いいえ」という回答を求めている。私が「認知予防のための講座の勧め」という結果票を受け取ったのは、上記3項目の三番目にある「今日が何月何日がわからない」の設問に対し「はい」と答えたことがチェックの対象になった。

  さらに「ご記入いただきました個人情報は、健康づくり教室へお誘いすることを目的で健康調査結果とともに地域包括支援センターへ情報提供をする場合があります」との註釈が付け加えてある。

  確かに「日付」がわからない時がある。朝、目にする新聞にも曜日が記載されている。部屋にあるデジタル時計の文字盤にも時間と曜日が掲示されている。日常の生活習慣の中で、しかも「毎日が日曜日」という年金生活の身では曜日の記憶はさして必要がない。あるとすれば書類の記入や銀行の引き落としの場合であろう。それでも銀行の窓口はそれを承知で「本日は○月○日・○曜日」という文字盤の提示サービスをしている。

  丸の中に時計の文字盤を書きなさい

  以前にブログに書いたことを記憶しているが、70歳以上に「運転免許更新」については「講習予備検査」が義務付けされている。受講の席に着いた際、指導員から「腕時計は外してポケットに入れて下さい」と指示された。そして講座は進められていく中で1枚の白紙用紙が渡される。指導員は「大きく丸を書き、その中に時計の文字盤を書いてください」と述べる。腕時計を外した意味がこれで分かった。今や携帯電話の時代である。腕時計はさして必要はない。また町の至る所にデジタル時計がある。この設問に私は「はたと迷った」文字盤の数字は1だったか、5であったか。長針と短針は何処を指しているか、結局は確信が得られなかった。

  デジタルの習慣の中でこのような錯覚は日常茶飯である。にもかかわらずそのチェックが社会的な制度、とりわけ「調査制度」にくみ込まれることには疑問を持つ。同時に、この調査が介護の認定を受ける、あるいは介護メニューを作成するときに「講座に参加しなかったことのペナルティ」とされることはないか。高齢化の進行と介護、医療などの福祉費の増大の中であり得ることを危惧するのは早計であろうか。その心配が付きまとう。

  前に戻ろう。「長寿アンケート」の設問一つ一つをとっても迷うものが多い。厳密に答えれば「はい」とも「いいえ」ともなる。例えば「階段を手すりや壁をつたわらずに昇っていますか」という設問がある。多くの高齢者にとっては「はい」とも「いいえ」ともなるだろう。

  いつでも、だれでも「老化予備軍」になる。それが早期発見、早期治療ということになるにしても「ストン」と落ちないものを感ずるは私だけであろうか。どなたかに教えを請いたいと思う一人である。