家内を置いて先には往けない。しかし逆になった人生
久しぶりで訪ねた知人のことである。知人とは言っても深く知り合ったわけではない。少しばかりの家庭菜園を楽しんでいる時に、声をかけて通る方であった。その方も自転車の後、前に収穫物を積んでいたので近くに畑を持っておられるのだろう。そんなこともあっていろいろとアドバイスをしてくれた。
しかし、畑もなくなって以降はあっていないが、2年前だったか、道でお会いをしてその方の自宅を知ったという関係である。そのとき、見てはならないものを見てしまった。その方の奥様が下着姿で家からとび出してきたのである。痴呆も進み徘徊の兆候が出てきたと言うのである。その方が急いで追いかけ上着をかけていた姿を思い出す。
80歳は超えていたはずである。「この家内を置いて先に往くわけにはいかない」と奥さんを家の中に入れてから、玄関先で述べられた言葉を記憶している。
今回、その家の前を通ったら男性が庭の手入れをしていた。直感的に息子さんと判断して「お父さんは元気ですか」と尋ねた。昨年の暮に亡くなったという答えが返ってきた。そしてお母さんは寝ているというのである。「残して先に往くわけにはいかない」としながらも逆になってしまつた。
長寿社会の中ではよくあることである。「人生、ままにならない」というが、まさにその通りである。さて、かなり進んでいるだろう痴呆の母親をどうするのか。介護者の父の突然の死であり、息子さんも途方にくれたことであろう。多分老夫婦二人の生活であったはずである。尋ねるのも詮索となるので止めた。所詮、他人が尋ねてもどうすることもできない。そのまま帰ったが重い気分であった。
「老をどう過ごすのか」。有識者はいろいろと評論するが、考えたくとも、考えられないというのが実態ではなかろうか。「ケセラセラ」ではないが、なる様になるしかならないのである。
皮膚の細胞から臓器をつくるまでの科学が発達しているこの時代である。中国の始皇帝が、部下に不老不死の「仙薬」を見つけることを命じたとの喩えと同一視するわけではないが、「老老介護」・「認認介護」からくる、悲しい、忌々しい出来事は見たくもないし、聞きたくもない。しかし避けて通れないのも事実である。とするなら、社会が「国を支えてきた先輩の老」に責任を持つことが「仙薬」を探し出すことであり、近代政治の姿ではないだろうか。
1500万円までの相続を「孫の教育費」に当てるとするなら税を免除するという。対象者がどれだけいるかはわからないが、見当外れの政治ではなかろうか。無年金者、年収200万円未満、非正規労働者の親はどうなるのか。それでも自助努力と政治は答えるのか。
久しぶりで訪ねた知人のことである。知人とは言っても深く知り合ったわけではない。少しばかりの家庭菜園を楽しんでいる時に、声をかけて通る方であった。その方も自転車の後、前に収穫物を積んでいたので近くに畑を持っておられるのだろう。そんなこともあっていろいろとアドバイスをしてくれた。
しかし、畑もなくなって以降はあっていないが、2年前だったか、道でお会いをしてその方の自宅を知ったという関係である。そのとき、見てはならないものを見てしまった。その方の奥様が下着姿で家からとび出してきたのである。痴呆も進み徘徊の兆候が出てきたと言うのである。その方が急いで追いかけ上着をかけていた姿を思い出す。
80歳は超えていたはずである。「この家内を置いて先に往くわけにはいかない」と奥さんを家の中に入れてから、玄関先で述べられた言葉を記憶している。
今回、その家の前を通ったら男性が庭の手入れをしていた。直感的に息子さんと判断して「お父さんは元気ですか」と尋ねた。昨年の暮に亡くなったという答えが返ってきた。そしてお母さんは寝ているというのである。「残して先に往くわけにはいかない」としながらも逆になってしまつた。
長寿社会の中ではよくあることである。「人生、ままにならない」というが、まさにその通りである。さて、かなり進んでいるだろう痴呆の母親をどうするのか。介護者の父の突然の死であり、息子さんも途方にくれたことであろう。多分老夫婦二人の生活であったはずである。尋ねるのも詮索となるので止めた。所詮、他人が尋ねてもどうすることもできない。そのまま帰ったが重い気分であった。
「老をどう過ごすのか」。有識者はいろいろと評論するが、考えたくとも、考えられないというのが実態ではなかろうか。「ケセラセラ」ではないが、なる様になるしかならないのである。
皮膚の細胞から臓器をつくるまでの科学が発達しているこの時代である。中国の始皇帝が、部下に不老不死の「仙薬」を見つけることを命じたとの喩えと同一視するわけではないが、「老老介護」・「認認介護」からくる、悲しい、忌々しい出来事は見たくもないし、聞きたくもない。しかし避けて通れないのも事実である。とするなら、社会が「国を支えてきた先輩の老」に責任を持つことが「仙薬」を探し出すことであり、近代政治の姿ではないだろうか。
1500万円までの相続を「孫の教育費」に当てるとするなら税を免除するという。対象者がどれだけいるかはわからないが、見当外れの政治ではなかろうか。無年金者、年収200万円未満、非正規労働者の親はどうなるのか。それでも自助努力と政治は答えるのか。