「さまよう・・・・」高齢無年金者・低年金者の実態

2014-06-25 17:06:54 | 日記

   「さまよう」高齢無年金者・低年金者の実態

「国民年金の納付率が60.9%に回復」という新聞の見出しを目にした。厚労省の発表によるものである。その内容は、20代を中心とした納入率の向上が、全体を押し上げたというものになっている。それは、景気回復に加え、年金記録問題が一段落し、年金徴収業務に職員を振り向けることができたのが要因と発表している。このことは、安倍首相の骨太方針の説明の中では触れられなかった部分であるが、アベノミクスの成果と声を大にしたい部分であったろう。

果たしてそうか。これには裏がある。国民年金の納入保険料は定額である。つまり、各自の収入が把握できないために定額とした。その定額は平成25年度で月額15.040円である。これは、月収150.000円の若者には納入が困難な金額となる。そして納入しないとなる。そこで政府は、若者を中心に保険料の免除申請を勧めた。そのことが納付率のアップという数字になったと解説している。

つまり、免除申請と無職者の増大、保険料が払えない非正規労働者の増大(2011年の調査では1位が無職38.9%・非正規28.3%)により、保険料収入が減り続けているという実態は表に出せないでいる。これでは安倍首相も、盛んにベースアップや夏の一時金は上がると喧伝したものの、国民年金の実態を出すことができなかったのは当然であろう。

社会保険庁の調査(平成14年実態調査)によると、無年金者の数は、平成16年4月時点で、老齢基礎年金の受給資格のない(無年金者)65歳以上が約40万7千人、60歳未満で、今後保険料を払ったとしても年金を受けられない者が39万人と言われている。近い将来の無年金者は約80万人となり、今後はさらに増加するだろうと推定されている。

また低年金者である。いわゆる老齢基礎年金を満額受給した場合の月額は66.000円である。満額とならない大方の受給者は、平均月額で46.000円代であり、その中で女性の33%が3〜4万円の額である。

まさに、「さまよう、高齢無年金者・低年金者」という実態がそこにある。これが、安倍首相が述べる「国の隅々まで行き渡る経済成長の恩恵」というものになるのだろうか。

昨日、今国会終了を機に開催された記者会見があった。

首相は、演説の多くを経済問題に絞った。取り上げやすい、そして国民受けのするテーマに集中させたものと言えよう。多分それは正解であった。そして際立ったのが「首相のプレゼンティーション」である。テレビに向かって体の位置を変え、表情と間の取り方、表現の一つ一つが悔しいほどに計算されていた。有能なスタッフの存在なくしては見ることのできない場面である。

語っている中身は何もない。受けの良い言葉の羅列である。にも拘わらず、テレビを前にした国民の目には強い印象を残したことは間違いない。

だからこそ主張したい。その虚像を打ち破る言葉を私たちは持たなければならないと。その一つとしてに「さまよう高齢者の無年金実態」を取り上げた。政治を政治家を批判していただけではダメージを与えることができない。

決して「豊かさは隅々までは行き渡っていない」という、反論の言葉を常に用意しなければならない。

 


 除染廃棄物の県内仮置き場、1年足らず309ケ所増える    

2014-06-23 17:29:49 | 日記

  除染廃棄物の県内仮置き場、1年足らず309ケ所増える    

 

福島からの報告となれば「原発事故」による現状がどうなっているかであろう。その原状にはいろいろある。放射能汚染水を含め基地内はどのようになっているのか。放射線による健康被害は、線量は。除せんとその保管管理は。さらに避難された皆さんの補償は。そして自主避難者、あるいは残った者の精神的補償は無くて良いのか。そして、ずっと先に「最終処分場問題」がある。

県外の状況を見てみる。いわゆる宮城、岩手県の三陸地帯の地震と津波による被害である。原発被害という荷物が無かっただけに槌音の響きは早かった。しかし、それも束の間であった。今はその槌音も途絶えぎみと報告されている。高台移転の条件が揃わない。時間の経過の中で移転をあきらめる傾向が強まっている。3年経てば年齢も三歳加算される。生き方も変わる、当然である。

そこに仮設住宅の改善と入居のさらなる延長を求めるという要求が強まる。それは「仮設に入居していることによる税金、保険、医療費・介護費などの減免を受けられることを望みとする、入居延長である」。仮設住まいは大変ではある。そこからの悲しい報告もある。だが今仮設を出て、援助、補償が途絶えたら生活できないという厳しい晩年を過ごす人々が増えているということも現実である。

そして再び福島である。前記したように課題はいっぱいある。そこで徐せんに絡む実態を報告しよう。

福島県の除染対策課の報告によれば、昨年3月末の時点で664ケ所あった「仮置き場」が、この11ケ月間で309ケ所増えたという。その理由に「土地所有者の理解が進み、設置個所が増えた」と説明している。

2013年9月4日のブログに、福島県伊達市の仮置き場の設置について書いている。「見学した仮置き場から10メートル離れた路肩の線量は0.56マイクロシーベルトであった。(以下μとする)。仮置き場の周囲はアルミ塀で囲まれている。中はおおよそ50世帯分の処理物が、フレキシブルコンテナ(以下フレコンとする)に入れられ3段積みの地上保管である。上をゴムシートで覆っている。一寸した小山である。そのコンテナの山から5メートル離れた地点の線量は0.3μであった。この謎解きは簡単である。一個0.8μのフレコンを100ケ集めても0.8μの数値は変わらない。集めれば線量が高くなるという住民の不安意識の解消に大変な時間をかけた。実証試験の結果を示しながら、丁寧な説明会を繰り返したと市の担当者は報告している。

前記の仮置き場の設置増には、住民に理解を求める各自治体の「丁寧、そして十分なる説明」があったものと受け止めたい。もちろん「仮置き場」への立ち入りは禁止されている。

各地区の線量の違いはある。住宅街であれば舗装率も高い。環境は異なるが線量の数値の違い「差」よりは、住民を前にする自治体職員と、その取り組みを支えようとする、数は少ないだろうが現地の方の「本気度」が問われるような気がしてならない。

いずれにしても爆発以前の線量には戻らない。とするなら、住み続ける土地の線量を少しでも削減するための面的徐せん、そして、できれば全戸同意の成就を望みたい。そのためにも仮置き場の設置が不可欠であることをあらためて訴えたいと思う。

 

 


 「おそれ」の文言を、修正して済むことなのか。集団的自衛権の行使容認

2014-06-22 11:39:15 | 日記

   「おそれ」の文言を、修正して済むことなのか。集団的自衛権の行使容認

 

前回20日のブログに、南相馬市の市議会において、「集団的自衛権の行使」をめぐる憲法解釈の強行に「ノー」を示す意見書が可決されたことを書いた。

そのブログ内容と重複するが、毎日新聞の記者は、署名付きで「自民市議によると、被災地感情として、自衛隊員が戦闘行為に巻き込まれないでほしいとの思いが強い」ということを書いていた。そこで、議長宛てに提出された「地方自治法第99条の規定による意見書」を取り寄せ記載を確かめた。

その内容を紹介する。「・・・・前文・・・略。本市は、大震災と大津波及び原子力災害による甚大な被害を受けているが、自衛隊の災害派遣・支援によって大いに助けられたところである。特に福島第一原発から30キロ圏内、20キロ圏内にいち早く捜索に入るなど、国民と国土を守るために身を挺したことに、心から敬意と感謝を表している。その自衛隊員が海外に出て行って武力を行使することは到底容認できない。よって政府に、集団的自衛権の行使を容認しないよう強く求める」。

この時期にあって、そして日本の自衛隊が、本来の任務とする専守防衛に徹するという本分を貫くことを求めた被災地の議会の決定は、重いものがあると受け止める。

しかし、一方、この自衛隊の上級幹部であった元海上自衛隊幕僚長・古庄幸一氏は明確にそのことを否定している。それが次の言葉である。

「軍事的合理性から言えば、専守防衛などはありえない。やられるという恐れがあったら先にやらなければ国民を守れない。これは世界の常識です。『やられてから、やりかえす』では遅いのです。『おそれの元』をさきにたたかなければなりません。」と。「例えば仮の国がミサイルの発射を準備し、着手の段階にあれば、そこを叩くことを意味します」。(6月19日フジテレビ・プライムニュース)

司会者が古庄氏に求めたのは「現場の最高責任者であった幕僚長」へのものであり、それに対する答えである。背広に着替えた、元制服幹部のこの答えをどのように見るかである。

今、自・公間で閣閣議決定にむけた討論がされている。何か公明党がキャッチングボードを握っているかの報道がされている。その根拠の一つに「『おそれ』の文言を『切迫した事態』と修正せよ」というのがある。これは、まさに言葉の遊びであるとしか言いようがない。

思い出してみよう。1999年に成立した有事法「周辺事態法」である。そこには明確に記載をされている。武力攻撃事態とは「武力攻撃(武力攻撃のおそれのある場合を含む)が発生した事態、または事態が緊迫し武力攻撃が予測されるに至った事態をいう」とされている。(武力攻撃事態法案第2条【武力攻撃事態の定義】)

また、盛んに使われる言葉に「調整」というものがある。これも気に食わない、馴染めない表現である。隣組や親睦会のやり取りの調整ならわかる。しかし、それが政治問題の「政党間」で、そのような調整のやり取りで済むことなのかとなる。

文言の調整で、集団的自衛権の行使が容認され、それの法的裏付けとして「憲法解釈の変更」が成立したとすれば、それに加担した公明党の責任は免れない。党の歴史的汚点として残ることになるだろうと言いたい。

それにしても、「蚊帳の外」にある野党の存在、そして私たちがあまりにも静かでありすぎる。そこが、自らの身においても強く反省するところである。

 

 

 


<集団的自衛権>南相馬市議会「行使容認しない」意見書可決

2014-06-20 16:14:01 | 日記

<集団的自衛権>南相馬市議会「行使容認しない」意見書可決

 福島県南相馬市議会は19日、集団的自衛権の行使を容認しないよう政府に求める意見書を全会一致で可決した。自民系会派も賛成し、自民市議の一人は「市民目線で同調した。東日本大震災でお世話になった自衛隊員が海外で殺されたり、人を殺したりしてほしくない」と述べた。
 意見書は、集団的自衛権行使を目指す政府側見解について「憲法の枠をはみ出ている」と指摘し、「戦闘地域に(自衛隊を)派遣すれば、外国からの攻撃対象になり、多数の戦争犠牲者が出る。憲法と地方自治法に基づき住民の安全を守る自治体として看過できない。海外での武力行使は到底容認できない」などとしている。東京電力福島第1原発事故後、放射線量の高い地域などで任務にあたった自衛隊員に謝意も示した。
 自民市議によると、被災地感情として、自衛隊員が戦闘行為に巻き込まれないでほしいとの思いが強いという。 (毎日新聞6月20日)

 

  前記は、20日の朝刊に掲載された記事である。県外の紙面でも扱われているか、どうかはわからないが、浜地区を中心に活躍した自衛隊員の災害救助の姿に思いをはせ、この若者たちを、戦争に向かわせてはならないとする「市民の目線で考えた」ものであることがよくわかる。

 19年前の阪神淡路大震災時の自衛隊の救援活動に対しては、村山内閣の対応の遅れと、自衛隊員の活動に対する批判が出たことを記憶している。首相は社会党であるいうこともあって、批判の矛先が村山首相に向けられたことも事実であった。しかし、その後の評価として「よく対応した」との論評も出されているのも事実である。いずれにしても未曾有の混乱のなかであったことは確かである。

 そして、その16年後の東日本大震災である。1000年に一度と言われるほどの大災害であり、不幸にして福島原発が巻き込まれたトリプル災害は、阪神淡路以上のものであり、世界で初めての災害と言えよう。

 さて、南相馬市議会が、全員の賛意によって採択された意見書にみられる自衛隊の活動である。   

 自衛隊は「自己完結型」である。それはすべて自給自足である。その装備に至っては、戦闘に備えるものではあるが、同時に高度な救助機材として転用できる。通信、運搬もしかり。そして医療体制である。浜地区の皆さんには心強い支援隊と見えて当然であった。ここにテキストがある。「東日本大震災と憲法・この国への直言」(水島朝穂著・早稲田大学出版部発行)である。 早大法学部教授である水島氏は、憲法学者の目から次のように書いている。

  【この2か月間、自衛隊はどのような成果を上げたか(5月12日現在)。人命救助14000人・遺体収容8300人・給食支援343万食・給水支援27000トン・入浴支援54万人・道路啓開300キロ・衛生支援16000人。国を守ることを主たる任務とする「軍」が、「人命救助」という形で個々の国民を守る任務を際立たせた…中略…この自衛隊は軍隊ではないという建前は今日もなお維持されている。「軍」としての実態を具備し、アフリカ東部のジブチに初の海外基地を持つに至った自衛隊。大震災によって、その存続をかけ全力出動を行った結果、国内外に評価を高めるに至った。同時に、今後、部内の自己評価にも影響を与えていく事は疑いない。その時、「軍」としてのありようを強化していくのか、それとも国民に感謝される災害派遣の能力をのばしていくのか。より本質的な議論が必要になってくるように思われる」。(文中数字の端数は切り捨て)

  集団的自衛権の行使を是とする憲法解釈の成立によって自衛隊は実質的に「軍」と化す。南相馬市民の、若き自衛隊員に対する想いを、全国的な想いに広め、高めたい。そして自衛隊を「災害派遣隊への道の強化」に進むべき論議に加わりたいと思う。あの時、そうすれば良かったという反省をしないためにも。

 

 

 

 


20代の若者が親の介護者に・その犠牲はあまりにも大きい  

2014-06-19 11:36:09 | 日記

   20代の若者が親の介護者に・その犠牲はあまりにも大きい  

NHKの受信料を拒絶しようかと考えることもあるが、今回のような番組があると「やはり払うか」となる。6月17日に放映された「クローズアップ現代」である。

「若者が介護者」になる実態を報じる企画であった。

今までは妻が夫を、夫が妻を、そしてお嫁さんがお舅さんを介護するという実態を多く見てきたし、またそのことに触れてきた。しかし、父の介護をしている25歳の娘さん。26歳の息子さんが、母の介護をしている事実を目のあたりにしたとき、その重みは並々ならぬものであることを痛感した。

高校生の時から父の介護を続けてきた彼女であったが。働いていた母が突然倒れ共同の介護者を失った。今はすべてが娘さんにかかってきた。やむなく大学を中退した。その場面では取り上げてはいなかったが病を持つ母親である。いずれは母親も面倒を見なければならないかもしれない。仮に両親の介護となれば、まさに「介護地獄」である。当然にして在宅は困難。その時に「介護制度」の適用が受けられるか、どうか。

もう一人の男性。母親の介護をはじめたときは就職したばかりであった。休暇をとり介護を続けていたものの、次第に会社に居づらくなったという。「上司が『10年・20年勤めて貢献している人が、そうやって家庭の事情で休むならわかる部分もあるが、1年目なのに、休んでいるのはおかしいね』」と言われ、僕もうなずくしかなかったと。父は働いている。どちらが辞めるかについて迷ったという。当然にして収入の多い父はそのまま働き、息子の決断を優先した。今もって、それがベターであったか、どうかと悩む父である。

5月14日のブログに「介護は先が見えない。いつまで続くかわからない介護はきつい」ということを書いた。病気であれば、それが良いわけではないが看病の見通しがつく。それならば頑張って看取ってやろうとなる。それでもきつく、大変であることは事実である。

識者はいろいろと解説をしていたが、20代の若者が学校を中退し、あるいは職場を中途退社してまでの介護を終えた時、その若者「娘や息子」の将来がどうなるのか、そこに私の想いは集中した。

いつまで続くかわからない。ある意味で「自由を得たそのとき」、二人は何歳になっているだろうか。将来を見つけ出すことができるだろうか。見つけることができない挫折感を受けることにならないか。「私の将来を父や母が奪った」と嘆いても、当然の重さである。

二人とも、この介護の経験が活かせれと良いと語っていた。どうぞ、そのことが実現し、それまでの時間を取り戻せることを祈るものである。

折も折、参議院でも自・公の賛成多数で「介護・医療一体改革法案」が成立した。いつぞやのブログにも書いたが、両院の法案の審議は、テレビ中継も含め、余り国民の前に示されることはなかった。しかも審議時間は最短であったと報じている。

麻生副総理の言葉を思い出す。「ワイマール憲法が、いつしかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学ぶべきである」。つまり「静かに、国民の判らぬように進める政治」という発言(撤回はしたが)であったが、この法案の審議もまさにその通りである。

近代的な社会保障として「保険制度」を導入された介護制度である。それは「誰もが、どこでも、いつでも、必要な時に介護が受けられる」。これが立法の精神である。この改定法案は、これを根元から切り捨てたと言っても過言ではない。今まで国の政治のあり方を根本から変えるものである。

子どもが、自分の将来を犠牲にしてでも、親の介護をしなければならかった事実はあまりにも大きい。

静かに決められてはたまらない重要な法案であった。にもかかわらず、私たちも静かでありすぎたのではなかろうか。

整備期間として3年がある。これからは自治体への働きかけを始めなければならない。用意しよう。