朝の通勤電車で見た光景・なぜ昼の光景と異なるの

2014-11-26 12:18:03 | 日記

   朝の通勤電車で見た光景・なぜ昼の光景と異なるの

 

  年に3回くらいは所用で東京に出かける。昨日もそうであるが、いつもと異なり東京着8時の新幹線に乗った。しばらくはがら空きであった坐席も、宇都宮駅でかなりふさがり小山駅では立組も現れた。ここからは首都圏への通勤帯になっていることを意味する。

  さて、東京到着である。ラッシュと重なることを覚悟してきたが、案の上人の波は続く。そして、その足早な歩きには地方から出てきた者は戸惑う。東京駅から「丸の内線で赤坂見附へ」。その車内で見た光景はいつもの日中とは異なるものであった。いつもであれば座席に座っている者のほぼ三分の二が、携帯電話かスマートホンを操っている。当初はそこに異常さを感じたものであったが、いつしか私の手にも携帯があるようになっていた。

  もちろん朝のラッシュ時であり車内はいっぱいである。しかし、席に座っている者の手には、スマートホンを持ってもいても良いはずなのにその光景が無いのである。何故だろうか。坐っている者も、そして立って吊革に手を掛けている者も、その多くが目をつぶっている。そこには「疲れているだろう顔つき」が重なる。

  職場の安全を語るとき、安全管理者は一人一人のその日の健康状態をチェックすることが重要になっている。「顔色は・目の位置は・首の座り具合いは・両肩の張り具合は・背筋の状態は」ということに注意する。人はその時の自分の体調・気分を体に表す。そのことを注視し必要な助言をする。そのことを思い出した私には、車内の多くに乗客に、「貴方の昨日の帰りは何時だったの」「昼の休憩もしっかりとれているの」「家中での悩みなどが無いですか」ということなどを思いめぐらし「自問自答」をしていた。

  かく言う私も、今は「毎日が日曜日」の生活にあるが、定年を前にして「新幹線通勤」を7年半続けた経験を持っている。「ドワー・ツー・ドワー」2時間である。自宅から車で駅駐車場に。プラットホームへ、新幹線乗車。そして職場へ。その時の私の顔つきも、背筋もそのようであったのだろうかと考えての15分足らずの車内であった。

  それにしても、あの路線の乗客は官庁関係か、民間でも大手の職場である方が多いだろう。しかし、そのような職場にいる労働者は2割にも満たない。約7割の労働者は中小企業の職場か、非正規雇用であるパート・アルバイトである。就業規則はあるのか、ないのか。あったとしてもそれが完全に守られている保障はない。労働組合もないだろう。

  「日本の労働者は働き過ぎである」という事が言われて久しい。はないか」。そのことをあらためて痛感した僅かな時間であった。この日の朝の通勤地下鉄の車内で見た光景が忘れられない。

  今、安倍政権が「女性が輝く」などのスローガンのもとに社会進出が叫ばれている。しかし、男性の職場、そして働き度合いが改善されないでいて、どうして女性の職場が「輝ける」ものになるのだろうか。それは小学生でもわかることだろう。

  もしかしたら、あの時間の電車の中に「霞が関の女性キャリア」がいたかもしれないが。

 

 


 安倍政権の傲慢を見る。「選挙の争点は政権が決めるもの」発言

2014-11-24 12:00:23 | 日記

   安倍政権の傲慢を見る。「選挙の争点は政権が決めるもの」発言

 

  報道によると、菅官房長官は、集団的自衛権行使の容認は「選挙の争点ではない」と発言したとある。また、秘密保護法についても「いちいち信を問うべきでものではない」。「何で信を問うのかは時の政権が決める」と。総選挙を前にしてのこの発言、ましてや内閣の軸である官房長官と発言となれば無視できない。

  つまり「選挙の争点は政権が決める。それは安倍晋三首相が決めること」と言うことであろう。毎日新聞の社説(11月24日)はこれを受けて次のように論じている。「来春には集団的自衛権の行使容認に関する具体的な法整備に入る。しかも、この行使容認については、憲法上許されるとの従来の解釈を逆転させる解釈改憲を閣議で決めた。このことは、憲法は国民が国家権力を制限するものという立憲主義の精神にもとるものである」と述べ、「最高の責任者は私だ。選挙で国民の審判を受けると断じたのであるから、そのことの真を問うことは当然である」と主張している。そして菅幹事長が「何を問うかは政権が決めること」であり、集団的自衛権問題は国民に信を問うほどの重大な問題ではないとしたことは「身勝手な争点の設定」であると指摘している。

  前記の「私が責任者だ、私が決める」の発言には当時私も驚いた。聞き違いかと疑った次第である。国民を、そして国民から選ばれた立法府を何と受け止めているのだろうかと怒りさえ覚えた。戦時中の帝国議会であればいざ知らず、この21世紀に政治の代表である首相が、この社会体制をどう見ているのかとあらためて疑った。

  「争点『真を問う』は国民が決めるもの」これが政治の原則である。政権や首相が、ましてや政治家が決めるものではない。これは近代政治の「いろは」であろう。

  今国会の議会中に「団扇論議」があった。その矢面に立った当時の法務大臣の答弁である。お粗末を絵に描いたものであった。当然にして審議の中断は繰り返された。世界に向けて「日本の国会の品格」が問われたものであったろう。安倍首相の「輝く女性の時代」という施策の中で実現した5人の女性閣僚。しかし、その「輝ける」とはその程度のものであったのか。そして首相の任命責任はうやむやのうちに、緊急金融緩和が飛び出し、首相の外遊、帰国後の「何やらわからない解散」である。これとて「争点にすべき」と国民が判断すれば、当然にして「今次総選挙の争点」になるだろう。またすべきである。その選択権は国民の側にある。それに対し「何の問題はない、選挙で真が問われるものではない」という権限は政権(政治)にはない。これが民主主義の原則であろう。

  仮に、リンカーンを明言を受けて「安倍の、安倍による、安倍のための政治」を実現すもの、そのための解散というのであればリンカーンも浮かばれないというものである。

  各野党において、今次総選挙の争点の幾つかの中に、今般の「争点は政権にあり」という安倍政権の政治姿勢を挿入されることを期待する。

  「私は選ばれた。安倍内閣のすべてが国民の信任を得た」との『印籠』を与えてはならないためにも。

 

 

 

 


もっともっと高齢者は怒るべきです・検診の経験して

2014-11-21 09:03:34 | 日記

    もっともっと高齢者は怒るべきです・検診の経験して

 

  本日出かけて行ったのは本市最大の病床を持つ総合病院である。私は、年一回の定期健康診断は受けることにしている。ところが年齢を重ねるほどに、いわゆる「要検査」というマークが増えていく。これも加齢とともに現れる症状であると受容しなければならないのだが。そこで精密検査のために出かけたのであった。

  私の知人の一人である。60年から70年代にかけての労働運動の活動家であった。晩年はその温厚な人柄が慕われ、高齢者コーラスの指揮などをやっておられた。その彼に病魔が襲ったのである。「肺ガン、すでに転移、手遅れ」という診断がついた。そしてあっという間に逝ってしまった。その彼は、退職後の、いわゆる「定期健康診断」を受けてこなかった。自分の健康に自信があったのか。それとも健康診断そのものがわずらわしかったのか。あるいは自らの処世を重んじたのか、それはわからない。

  そこで私だが、冒頭の病院の予約日に行って驚いた。「居るは居るは高齢者の男性ばかり」、20メートルはあるだろう廊下の長椅子にぎっしりである。

  ところで、インターネットを開いて見ると次のような解説が出てくる。

  前立腺肥大症(BPH)とは

 〇膀胱の下にある前立腺が肥大して、尿道を圧迫し、排尿障害を起こす病気です。

 〇「前立腺」とは、男性のみに存在する生殖器の事で、膀胱の真下にあり、尿道を取り囲むかたちで                              存在しています。通常は、クルミほどの大きさです。

 〇日本の55歳以上の男性の2割、5人に1人に前立腺肥大の症状があることがわかっています。

 〇よく、「クルミぐらい大きさ」と例えられます。ところが、前立腺が肥大すると、クルミ程度の大きさのも      のが、卵やみかんの大きさになります。

 〇60歳を過ぎると、半数以上の人が夜間頻尿と排尿障害を訴え、65歳前後で治療を開始する人がもっとも多くなります。そして80歳までには80%の人が、前立腺肥大症になると見られています。

  さて、どれだけの治療が必要なのかは個人差もあり、また医師の判断もあるだろう。しかし、確実に加齢とともに現れる症状であることは間違いない。

  高齢社会を語るとき、必ず「医療費・介護費」の高騰を問題にする。そしてその削減に手をつける。それが医療費、介護費の自己負担増である。「クルミ大が鶏の卵程度」になることが加齢の必然であり、そして検査・治療を必要とする。それに対し「年寄りには金がかかる」という言葉を「政治」が発するということは、政治が「長寿」を否定することにあたるだろう。

  長椅子に座る高齢者の姿を見て、「あなた達は今の政治にもっともっと怒るべきです」と叫びたい想いの一日であった。

  そして言いたい。「政治家の皆さん・官僚の皆さん、貴方たちは年を取らないのですか。正月を迎えないのですか」、「不老長寿の薬」でも飲んでいるのですかと。

 

 

 


 柿の実取から考える「私の総選挙の争点」

2014-11-19 13:39:32 | 日記

     柿の実取から考える「私の総選挙の争点」

 

  今年も柿(みしらず)の渋抜きを行った。豊作であったため実は大きくない。そして甘さは今一である。素人の剪定でもあり、その後の木の姿がどうしても気に食わない。今年実のなった枝には来年はならないと言うが、それがわからない。

  昔は、竹の先を二つに割り、実のなっている枝を挟んで折ったものである。それが「剪定」になるというのだが、その竹もなかなか手に入らない。ホームマートに行くと結構な値段である。そこで今は脚立なるものがあり、高いものでもさしたる値段ではない。そこで脚立を使うことになる。そこで問題なのが、まず「踏み面」(脚立の最高部)での作業はしてならないとなっているが、柿の実が上にあるとどうしても上りたくなる。また身体を前方、左右に延ばして取ろうとする。そこに脚立が傾き、軸足がめり込むなどもあってバランスを崩して転落でする。

  現役時代、建築現場の安全管理に携わっていた。建築現場での転落事故の上位3に入るのが「脚立作業」であり注意を促してきた。その時に使用した言葉に「1メートルが1命を奪う」というものである。現に、僅か1メートルの脚立から、バランスを崩して転倒、運悪く金属の角材に頭を強打し死亡というケースである。ヘルメットをかぶっていたが保護をしてはくれなかった。

  さて、「柿の実取り」であるが、私の知人が庭の柿を取るために、踏み台に上がったのだが手を伸ばして転倒、大きな事故にはならなかったようであるが骨折したという。

  今年の柿もぎは、無事済んだが来年はどうするか。記念の木でもあり大事にしたい。とは言え取らずに鳥の餌にするのは多すぎる。また、「たる抜き」の甘さも確実である。

  来年も、注意をしながら、その年の行事は済ませたい気がする。また、そのくらいはできるようでありたいとも思う。しかし、お金を出して取って頂き、剪定も一緒にしてもらうかとも考える。いずれ収入は一定、いや年金の減収は今後も続くだろう。しかし、支出の増大は考えなければならない。その最たるものが医療費・介護費であろう。

  「ぴんころと言ってはいるが 今は嫌」。これもまた本音である。

  柿の実取りから考える、私の「総選挙」の争点である。

 


 「多重介護を考える」・1人で両親を看る行川さんの苦悩

2014-11-17 13:56:45 | 日記

  「多重介護を考える」・1人で両親を看る行川さんの苦悩

 

  平均寿命女子86歳・男子80歳。私の親の時代には考えられなかった「高齢社会」である。しかも、寿命を延ばしているだけではない。普通の生活ができている「元気高齢者」の多いことも事実ではあるが、いつかは老化に直面するのは「確立100パーセント」である。また、若年痴呆症など年齢を問わず「介護」をめぐる問題が、深刻な、そして緊急の課題となっていることを認識しなければならない。

  中でも多重介護の悩みが顕著になっていることに注目しなければならない。このことは「長寿」と重なる深刻な事実である。つまり「実の親と義理の親」、「親と配偶者」など1人が複数の家族を介護する“多重介護”が増えているということである。

  さて、要介護者の数は確実に増加している。そしてその介護期間も長期化している。よく言われる「先が見えない介護の期間」というものである。いつまで続くかわからない介護から悲しい事件も発生する。

  そこに今般改定された介護保険制度が重なる。要介護度が「2」以下だと施設への入所は、特例はあるものの蚊帳の外となる。また要介護度3以上にしても、幸いにして介護施設に入所できたものの、費用が払えず在宅で介護せざるをえないというケースも増えている。そこにきて特別老人ホームや介護付き高齢者賃貸住宅がある。今や建設会社や不動産会社までもがオーナーとして参画してきている。入所一時金をはじめとした費用は年金生活者にとつては受容能力を超えるものが多い。しかも入所者に対し介護を強要する「過剰介護」も問題化している。

  NHK・クローズアップ現代「広がる多重介護」(11月10日)がある。そこには92歳と87歳の父母を自宅で介護する実名入りの行川修さん(57歳)が登場する。彼は両親を1人で介護している。訪問医療に携わっている医師は述べている。「1人を介護するだけでもすごく大変なところに2人を介護されるということは、それぞれ症状が違っているところからケアをするポイントも違う。精神的にも肉体的にも大変だろう」と述べている。

  そのことが次の事例となる。彼が父親の痰の吸入をしている最中に、母親はトイレに行く。転倒を心配するが付いてはいけない。彼は述べる。「だいたいは二人のケアは連動して現れるのです。食事をさせている(胃瘻)の最中に、もう一人はトイレを要求する」という具合です。「今こっちやってるから、それは無理、待って」と言えない時があるともいう。

  施設介護への入所は要介護者の介護度によって決まる。また介護者がいるかどうかによって決まる。しかし、前記のような多重介護は対象にならない。しかも両親の介護のために「休職、あるいは退職を決意する」ことも判断の材料にならない。多分、前記の行川さんは年齢から言っても復職は困難であろう。両親を看取った後の彼にどのような人生がまっているのだろうか。深く考えさせられた場面であった。

  総選挙が日程にのぼった。安倍内閣は「介護・医療一体改革法」を成立させた。宇宙で人間が生活できる時代に「姥捨て」があるとはどういうことなのか。

  今般の総選挙を、確実にやって来る「超高齢社会」に向けた私たちの選択を示す絶好の機会としたいものである。