働いたのが僅か26年・しかしその始末に90年

2013-08-19 14:43:29 | 日記

 働いたのが僅か26年・しかしその始末に90年、それもわからない

政権与党内から「トイレなきマンション」の喩えをもって、原発の新設はすべきではないと言う発言があった。そこでさらに一歩突っ込んで「再稼動・輸出」をやめさせる運動を、自民党内から展開して欲しいと述べたのが昨日18日の投稿である。

そして本日(19日)の毎日新聞の記事を見ることとなった。1面トツプに「解体先進国」英の原発 稼動26年 廃炉90年という見出しの記事が載り、3面に関連記事が載っていた。取材記者によれば、世界で最も廃炉作業が進むイギリスであるが、「想像以上に時間とコストがかかる作業」という廃炉の実態を報告している。

日本における廃炉作業は原電の東海原発が2001年に開始されている。これは18日のブログで報告済みであるが、問題は先進国といわれるイギリスの廃炉作業の実態である。取材された原発は、1993年に廃炉作業が着手され20年後の今日、99パーセントの放射性物質は除去できたと言いつつも、施設を完全に解体し終わるまでなお70年はかかるだろうと責任者は述べている。さらに、この原発は小規模で、稼動中に大きな事故もなく、停止後速やかに廃炉作業に移ることができた。それでも廃炉までには90年を要するという。「それに比べて福島の原発は、事故処理も終っていない中での作業であり、作業員が動ける範囲も限定されるだろう。ロボットの多用となるだろう。想像できないほど困難な作業になることは間違いない」という同施設の安全管理部長の談話も報じている。しかも70年後の完成の姿を見出せるかということついては、「最終処分場の問題次第」であるとも語っている。しかし、ここで触れられてはいないものがある。それは処分場という場所の選定ができても、その大量の廃棄物を保管する技術はどうなのか、10万年とも言われる、気が遠くなるほどの期間の管理をどうするのか。その答えは見えていない。これは全世界全ての原発国に言える事である。

「廃炉作業中の東海原発は、しばらくは野ざらしになるしかない。廃炉技術が確立せず、廃棄物の行く先もないのだから」。「原発は便利な道具かもしれないが始末に終えないものである。犠牲になるのは立地自治体であり、国民だ」と。これは東海村の当時の村長、村上さんの言葉である。

そこで、このことは勇気のいることであり、誤解と反発を招く恐れがあることであるが、語られていないもう一つの面を提起したい。

「始末の終えないものを作ってしまった」という。それは国策として推進した国、そして、その旨みに乗り、基幹産業に取り入れた電力会社に、全ての責任があるのかということである。このように述べると、その後の事故収拾や補償責任などを負わなくとも良いということなのか。その犠牲は国民、あるいは立地住民が甘んじて受けなければならないのかという指摘となる。このことが前記の誤解、反発ということである。しかし、それを承知で合えて述べたい。「その責任を感じるからこそ、そして始末に終えないものであることを知らなかった、うかつさや無知を知った今こそ、その責任を果たす意味でも、新設はもちろん、再稼動は絶対に許してはならない。他国に原発を輸出してはならない」とする声をあげようということである。もちろん政権の選択は原発だけにあるのではない。しかし、原発の再稼動、輸出を公約とする政治は許してはならないということ主張したいのである

トイレのなきマンションとは、マンション自体が存在できない。

「消すことのできない。燃やしてはならない火を私たちは燃やしてしまった」。ここが原発を考える出発点としたいものである。

さて皆さんはどうだろうか。