今も残る「盆太鼓」の音・今年も8月15日がやってくる

2013-08-14 11:43:16 | 日記

   今も残る「盆太鼓」の音・今年も8月15日がやってくる

また今年も8月15日を迎える。私は中央紙・地方紙の二紙を読んでいるが、どちらの「声欄」にも8月15日を思う投票が寄せられている。

この私も、国民小学校3年の夏であった。今考えてみても、ひもじかったことは忘れられない。父は長年病床にあり、昭和44年(1944年)の年末にこの世を去った。近所の皆さんが弔いに来られ「こちらの父ちゃんは畳の上で亡くなったのだから良いとしなければ」と述べたことが不思議と覚えている。そうだろう。この年の春頃からは、毎日のように、近所の家に「白木の箱」が届くようになった。その度に道に並んで迎えた。父や兄の戦死である。

母は、病気の夫と子ども3人をかかえてどんな仕事もした。市内の浄水場の作業は泥上げである。モッコを担いで底から這い上がる、その姿を見たときに「腹が減った」とはとても言えなかった。土のあるところには何でも植えた。とりわけ道路の溝脇は土に栄養分があることから育ちは良かった。

学校への道すがら、農家の畠のかぼちゃは目標であった。「ヘタの色具合」を見るのが日課である。そして「とり頃」と判断するや暗闇に出かける。目星をつけた場所に手をやるが、カボチャは触らない。先客がいたのである。

空襲の毎日。しかし軍国少年であった私には「神風を信じ」・「無敵艦隊の出撃」を期待していた。そして迎えた8月15日は暑い日であった。ラジオのある家の前で聞いた「玉音放送」は意味がわからなかったが、誰とはなしに口にする言葉から「戦争は負けた」と理解したことは記憶している。

警報のサイレンはならない。夜になって電灯を覆っていた黒布を取り外した時の明るさは嬉しかった。しかし食べ物はない。それもそのはずである。一ケ月前に仙台大空襲があった。その夜、防空壕から見上げた空には、B29爆撃機が、絨毯のようになって飛んでいった。翌日仙台市は壊滅したと言う噂が流れた。

夫の形見の着物で交換した白米2升、床下の甕から取り出して全部炊いた。母は「これで日本も終わりと考えたのであろう」。「腹いっぱい食べる我が子の姿を見たかった」のだということは後でわかった。

食べるものは、芋の茎、道端で取れたネギとジャガイモに、ご飯の雑炊。最後にご飯を残す。器の底に残した僅かな米粒を惜しみながら口にする。その夜もそうであった。

その時、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。これは鮮明に覚えている。お盆を迎える太鼓である。防空隊員からし駆られることもなく、それこそ誰に遠慮することなく叩くことができた太鼓である。若い男はいない。叩き手は子どもか、年寄りか。それとも女房か。父や子、そして夫の死を悼み、その魂を迎える「盆太鼓」なのである。音は覚えていた私も、太鼓を引き出し、叩いた、そのの人々の想いを感じることができたのは、それから数年が必要であった。

道端に植えた「ヒマの木」は実をつけたまましばらく残っていた。その実で「飛行機を飛ばすのだ」と本気になって水をやっていたものである。

今年も、その8月15日とお盆を迎える。そういう私も76歳である。