gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

サイエンス・コミュニケーションの魅力

2016-10-30 08:07:32 | ブログ
 科学技術の専門家ではない一般市民にとって、その専門家、特に科学や数学の研究者が書く文献、話す講演などの内容を理解するのは難しい。そこで、サイエンス・ライターやサイエンス・カフェ事務局などの媒介者を介して、一般市民が科学の専門家とコミュニケーションをとるサイエンス・コミュニケーション活動が注目されている。

 サイエンス・コミュニケーションと言うとき、市民が、新聞、雑誌、講演、テレビ放送、インターネット、サイエンス・ショウなどを介してほぼ一方的に科学情報を受けとる場合と、サイエンス・カフェなどに参加して専門家に質問したり対話することによって科学知識を深める場合と、アマチュアがブログなどを介して科学や数学についての情報を発信する場合のすべてが含まれると考える。

 特に、参加者の数が少ないサイエンス・カフェなどに参加して専門家や他のアマチュアと話をする活動は欠かせない。一市民が現役の研究者、いわばパフォーマンスの主役、と自由に話し合える機会をもつなど、参加希望者の多いエンターテインメント分野ではほとんど考えられない贅沢であろう。

 一般市民にとって、サイエンス・カフェに参加するだけでも抵抗感が強いかも知れないが、さらに自ら科学情報を発信するまでにレベル・アップするとなると、確かにより難度は高くなる。探求するテーマを決めてから、それに関連する文献やインターネット情報を参照し、自分の言葉で文章をつくるには相当なスキルを要するからである。その作業は、専門のサイエンス・ライターが行っているものとほぼ同じ程度となる。

 しかし、一旦このようなサイエンス・コミュニケーションの魅力を知ってしまうと、病みつきになる。もはやサイエンス・オタクでなければいられない。関連する難解な文献を読んでいるときは苦しいが、そのような過程を経て、思想的な方向性が見えてくるときの醍醐味がたまらない。脳内で多量のドーパミンが放出されて快感を得るという脳の状態は、麻薬常用者の場合と同じであろう。しかし、苦しい過程を経なければそのような恍惚状態に到達できないという点で、スポーツ選手が体験するものに類似しているのであろう。

 サイエンス・コミュニケーションが目ざすところは、専門家の目線で話したり書かれたりする情報から離れ、一般市民の目線でみた科学情報によるコミュニケーションということになる。言い換えれば、教養の範疇に入ると思われる程度のコミュニケーションということになる。ここでは、アマチュアリズムが基本的な理念となる。教養と言うと、すぐに文学、歴史、美術、音楽、宗教、哲学など文科系の学問が想定されるのは残念である。西洋の伝統では、数学と科学を抜きにした学問は考えられないのであるから、教養についても同様である。「ここは日本だから別だ」などという言い訳は、ガラパゴス的発想である。

 サイエンス・コミュニケーションを目的とした文章を書くとき、どのような心構えで臨んだらよいのだろうか。できるだけ素人にもわかるような文章を書くことはもちろんであるが、ある分野の細部にこだわるのではなく、複数の分野に亘って総合的な思考が働くような説明、言い換えれば哲学的、思想的な構造が読みとれるものが望まれる。それとともに、できるだけ日常生活との関連を示唆したり、文系的な情報を引用することが望ましい。

 将来的には、サイエンス・コミュニケーションを目的とする文章作成コンテストがあってもよいと思う。このコンテストの参加者は、あるテーマを与えられ、専門家の書いた文献を参照しながらサイエンス・コミュニケーション向けの文章作成をするのである。コンテストの審査員は、提出された文章にランク付けをするだろう。優秀な文章作成者にはサイエンス・ライターなど就業の口があるかも知れないが、個人の経済的利益よりもアマチュアリズムに徹して、社会的共通資本の方向を目ざすサービスの方が価値あると考える。

 私としても、できるだけサイエンス・カフェに参加して専門家や参加者とサイエンスを通じて対話する機会をもつとともに、サイエンス・コミュニケーション向きのブログ作成に磨きをかけたいと思う。よいブログを公表できれば、なんとか・オタクの自己満足などという心象を払拭できるのではないかと思う。