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失った幸福感をとり戻せるか

2013-09-25 14:11:21 | ブログ

 今年7月のタイム誌に、“The happiness of pursuit”と題する記事があった。「ゴールを追求するという幸せ」のような意味である。その記事によれば、移民者の子孫は、遺伝的に楽観的な性格をもつという。ここでは、移民者の代表として、アメリカ人をとり上げることができ、定住者の例として、ロシア人、中国人、日本人などを指しているようだ。日本人にも関係ある話題なので、この機会に国民性と幸福度の関係について考えてみることにした。

 DRD4と呼ばれる遺伝子は、脳内のドーパミン受容体に関係する。この遺伝子は、「探検的な行動」、「リスクをとろうとする性癖」、「新規なものについての寛容さ」を促すという。研究者が世界中の人々のDRD4の発現状態を調べたところ、人類発祥の地であるアフリカから遠くへ移民するほど、この遺伝子の発現形態と考えられる「新規なものを追求する性癖」が多くみられるという。

 一方、セロトニンの放出に関係する5-HTTLPRと呼ばれる遺伝子の発現は、「不安さ」と「リスクを回避しようとする性癖」を促す。この遺伝子の発現状態を調べたところ、米国人のように個人主義的な文化をもつ人には、この遺伝子の発現は少ないという結果になった。

 このような移民者と定住者の性癖の違いは、大雑把には、従来言われてきた欧米人は「狩猟民族」、日本人のような定住者は「農耕民族」という区分にほぼ合致する。

 もし遺伝子が移民者の性癖形成に関与しているとしたら、微妙な仕方で関係している。セロトニンとドーパミンは、人に快感を感じさせる神経伝達物質と考えられている。これらが多いほど、幸福感が増す。移民者の行動の場合には、これらの化学物質は、目的追求型の行動を促すように制御する。目的追求型の行動によって得られる快感は、人々を刺激し、それの達成に伴うトラブルにもめげず、ゴールを追求するという行動を続けさせるという。

 しかし、幸福を感じるということは、脳神経科学のレベルでは、非常に複雑な現象であり、単純に遺伝的要因だけに帰するわけには行かない。遺伝的要因が無視できないにしても、環境的要因が人に及ぼす影響は大きい。現代の日本人は、世界の中で比較的経済的に恵まれている方に属するにもかかわらず、幸福を感じないという人の割合が多い部類に属する。しかし、幕末から明治にかけて来日した外国人の多くは、日本には貧乏人が多いにもかかわらず、幸福感に満ちた人々が多いことを報告している。この事実からしても、遺伝的要因よりも環境の影響が圧倒的に大きいことを示唆しているように思われる。欧米人にしても、個人主義的な文化に囲まれているという環境の影響の方が大きいのではなかろうか。

 そこで、この際、以前からその題名からして気になっていたウォルフレン著「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」(角川ソフィア文庫)を読んでみることにした。

 ウォルフレンが主張するところを要約すると、次の通りである。日本では、市民によって選ばれた政治家はいるが、権力を行使するという程には至らず、官僚が独裁的に実権を握り、銀行、業界団体、大企業およびその系列グループを支配している。公共部門と民間部門との区別が判然としておらず、両者は一体化している。日本社会を一言で表現すれば、「政治化された社会」と言える。(なるほど。銀行は名目上は民間部門なのであるが、実は公共部門の一部ですと言われても、あまり違和感は感じない。)しかし、官僚は、市民に対して何故そのような施策を行っているのか説明しないため、説明責任を伴わない権利が行使されている。ウォルフレンは、このようなシステムを「自動操縦装置」とも呼んでいる。つまり、日本という船を戦略的に動かしていく舵取り(船長)は存在せず、船が右方向に行き過ぎたとみたら左に舵をとり、左方向に行き過ぎたとみたら右に舵をとるというフィードバック・システムのため、船をどの方向に進めているのか乗客に説明しようがなく、官僚などの管理者は乗客に対して説明責任を感じないというわけだ。

 ウォルフレンは、「政治的支配者が無知な国民を操り欺きやすい。一般の人々は事実を知らされないまま、架空の現実を受け入れている。」と述べ、この状態を「偽りの現実」と呼んでいる。ウォルフレンによれば、日本は、このようなシステムを運用することによって驚異の経済成長を遂げたが、国民は、みずからの幸福と引き換えに、あまりに多くの犠牲を強いられた、とする。つまり、会社員は、会社の成長のためにそれ以外のほとんどすべてを犠牲にするために、政治に関わる暇もなく、家族との団らんの余裕もないので、まともな家庭生活も営めない、というわけだ。

 ウォルフレンの「政治化された社会」という見方は、少なくとも高度経済成長期については、妥当なものであると思う。言葉による表現は異なるが、他にも同様のシステムに気づいた人はおり、ある外国人は、「何故日本では共産主義が成功したのか」について論じていた。

 私もウォルフレンの言うシステムに気づき、これを「護送船団方式」と呼び、以前ブログで紹介したことがあった。「護送船団方式」とは、官僚指導により国が各種企業という船団を率いて経済成長という目的に向かって邁進する方式ということであるが、その絶大なる影響力は、地域コミュニティや各家庭にも深く浸透していたものとみる。ただし、地域コミュニティや家庭が対象となると、「船団」とは、企業や組織ではなく、人々ということになる。また、ウォルフレンの「政治化された社会」では、官僚や企業は支配者という立場であり、一般の人々は、その犠牲者であるという構図であったが、私の言う「護送船団方式」では、すべての日本人がほぼ混然一体となっているような状態であるため、だれが支配者でだれが犠牲者か判然とせず、そのような区分はほとんど意味をもたないものとする。

 ウォルフレンは、日本の政治、官僚、企業などの機構には詳しいが、ウォルフレン自身が日本企業に勤めた経験はなく、日本人の心情あるいは国民性については殆ど注意を払っていないと思う。高度経済成長期においては、経済成長を大きな目的にするということは、ほとんど自明のことであり、議論の余地がなかったものと思う。従って、官僚や企業が特に一般の人々に説明する必要がなく、各組織の人々が自分の持ち場の仕事を進めればよく、ウォルフレンの言う「自動操縦装置」がうまく機能していたようである。私の周囲からよく聞こえていた声も、「一流大学卒業、一流企業就職」のようなものであった。これは、護送船団方式を肯定するものであり、これに異議を唱えるような声は聞かれなかった。

 ただ、会社の成長のために、多くの会社員は、長時間労働を強いられた。私の経験から言えば、私は、効率的な仕事により成果をあげるのが第一と考え、なるべく定時で会社を去るようにしていたが、周囲からは、「空気が読めないやつ」、「協調性がない」、「変わり者」などと言われたり、白い目で見られたりした。企業によっては、このような人間は、やる気のない者とみなされ、適当な理由をつけて解雇されることがあったかもしれない。これは、憲法の自由や基本的な人権の規定を持ち出すまでもなく、企業自身が設ける勤務時間の規定も無視するものであるから異常である。会社規則よりも職場の空気の方がはるかに優先度が高いのであった。会社員の中には、このような長時間労働のために身体を壊したり、精神に異常をきたしたり、そのために自殺するものもあったであろう。しかし、ほとんどの人々は、経済成長のためには多少の犠牲は仕方がないものと納得し、ほとんど社会問題にならなかったように思う。つまり、誰もが、暗黙の了解のうちにその目的を追求していたと言えるだろう。

 家庭生活についても、多くの家庭は、父親不在に近いような状態であったため、決して正常な家庭環境と言えるものではなかった。しかし、多くの家族は、生活水準の向上のためにはそれもやむを得ないと、納得するとともに我慢していたようである。ただ、そのような家庭環境だからそのために家庭崩壊するかと言うと、そのような話はあまり聞かなかったのであるから、家族は、曲がりなりにも家庭生活に一応満足していたようである。皮肉にも、高度経済成長期よりも現在の方が、いわゆる家庭崩壊の傾向が著しい。

 私の言う「護送船団方式」は、高度経済成長とともに存在していたわけだから、バブルが崩壊し、経済成長が止まるのに歩調を合わせて、この方式が衰退していったように見える。それまで活況を呈していた多くの地域コミュニティ、特に都会にあったコミュニティは衰退していった。そのため、人がある地域に生まれるとともに、無条件にそのコミュニティに参入できるような伝統は失われていき、特に若い人の間には、「ひきこもり」のような社会現象が出現することになった。人は、孤独になるのを恐れ、ケータイやパソコンなどのツールを使うにせよ、そうでないにせよ、自力で他人とのソーシャル・ネットワークを構築する他ない時代となった。そして、このようなネットワークを形成できない者は、「ひきこもり」の状態に陥るほかないこととなった。

 家庭についても、同様の変革を避けることができなかった。かつての家庭は、家族構成員の間がしっかりした絆で結びつけられているように思えた。今にして思えば、これは日本社会を支配する空気がわけへだてなく各家庭にも及んでいたのであった。現在にあっては、家庭は、一度バラバラの個人に解体すればよく、そこを原点として家族構成員の間でどのような相互関係がつくれるのか、関係を構築して行けばよいように思われる。

 このような日本社会の変動は、革命的と思えるほどである。統計的な数字はないが、この変革の犠牲となって自殺を遂げた人の数は、経済成長期に過労のために自殺を遂げた人の数を越えるだろう。もちろん、経済的な困窮が理由で自殺する人もいるだろうが、それだけの理由で自殺する人が少ないことは、これまでの日本の歴史がよく教えている。またも憶測でものを言うが、この10年くらいの間に社会変革のために増えた自殺者の累計は、東日本大震災の犠牲者にも匹敵するのではなかろうか。若者の中には、職が見つからない上に、地域コミュニティもなくなって孤立した状態という者が少なくないということだろうか。

 それにしても、少なくとも江戸時代から脈々と続いていた温かい地域コミュニティと居心地のよい家庭という日本のよき伝統が、何故、高度成長期の終焉とともに消失してしまったのか、と人は思う。高度成長期以後の人々は、職場にあっては、他人と連係して仕事をするというより、流れ作業でやってくる部品、工業製品、商品などを自分の持ち場で単独で処理するという孤独感を強く感じる環境に置かれている。また、家庭にあっては、人々が囲炉裏、こたつ、火鉢などを囲む生活の代わりに、テレビやエアコンなどの電化製品に囲まれた快適な生活を体験し、自分で自家用車を運転すれば単独でも手軽にどこにでも出かけられ、他人と直接会って交流するコミュニケーションの代わりに、テレビ、AV機器、パソコン、ケータイ、ゲーム機などが相手をしてくれる生活となった。このような生活を送っているうちに、伝統的な風習が先細りになっていったと思われる。つまり、経済成長によって得られた豊かさの大きさに反比例するかのように、日本人のよき伝統を守ろうという心情が徐々に失われていき、単独行動で得られる満足感あるいは不満感にすり替わっていったのであろう。

 さて、タイトル挙げた「失った幸福感をとり戻せるか」については、すでに各人の心の中に自信と決意があるように思えるので、多言を要しない。社会に閉塞感を感じる人がいる一方で、自己改革の意欲の強い人が多いこと、多くの若者は時代が変わったことをよく認識しているようにみえること、男子にも増して日本女性は世界のどこでも活躍できることが実証されてきていること、などを挙げれば充分であろうか。どうも日本男子よりも女性の方がコミュニティを形成していく力が強いように思える。この点、男子たる者、脱帽です。