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あらゆる現象は関係性あってこそ存在する

2013-04-14 14:08:08 | ブログ

 アルゴンのような原子が他の原子から離れ、ほぼ単独で存在していると言えるような状態では、その原子は、電気的に中性であり、原子内の電子は、量子力学的なゆらぎがあるとは言え、平均的にみると球対称的に分布している。しかし、原子が単独で存在することは、まれであり、多くの場合、他の原子や分子からの相互作用を受けるので、各原子内の電子分布には、かたよりが生じる。二つの原子が化学結合により結びつき分子を構成している場合には、相互に相手の電子を共有するような形で電子が二つの原子核の中間領域に集まる確率が高くなる電子分布と、電子間の反発のためにこの中間領域を避けるような電子分布とが現れるため、各原子の電子分布は極端にかたよった形状となる。しかし、電気的に中性な二つの原子が、化学結合せずに単に接近しただけでも、片方の原子の電子分布が一方の側にゆらいで原子内に電気双極子が生じる。そうすると、この双極子の静電引力のため、もう一方の原子の電子分布も球対称からずれて、電気双極子が誘起される。このように各原子が電気的に半ば+-に分極した形になる結果、一方の原子と他方の原子との間には分子間力と呼ばれる化学結合力に比べて弱い静電引力が働くことになる。

 以上述べた二つの原子の間の相互作用のことを仏教のことばで表現すると、「あらゆる現象は単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事である」(玄侑宗久著「現代語訳 般若心経(ちくま新書))。もちろん、二つの原子の間の相互作用は、物質間に現れる関係性の一例であり、あらゆる現象は、関係性あってこそ存在していると言える。

 次に、人間の営みもこの世の現象の一つととらえて、上記のような関係性を探ってみよう。夫婦関係というものは、化学結合により結びついた二つの原子のように強い結びつきがよしとされているが、実際には必ずしもそうではなく、その結びつきが弱くなって形だけの夫婦かまたは離婚に至るケースが珍しくない。夫と妻がそれぞれ異なる世界観と異なる価値観をもつために、夫婦関係よりも外界の別の対象に引き寄せられるような引力の方が強く働くために他ならない。

 ヨーロッパ連合(E.U.)の中の二十数カ国がユーロ圏を構成し、共通の通貨の下に経済活動が行われている。しかし、ドイツのような経済の優等生がいる一方で、ギリシャのように経済危機に落ち込む国が出るという具合であって、国による財政の良しあしには大きな格差がある。国際通貨機構(IMF)とヨーロッパ中央銀行(ECB)は、これまでギリシャ、アイルランド、ポルトガルの経済支援をしてきたが、ここに来てキプロスに対しても財政支援をしなければならない状況となっている。キプロスは経済規模の小さな国であるが、いわゆるタックス・ヘイブンとして知られ、その銀行に多額の預金をしている外国の大会社や金持ちたちが、国の経済危機を知って預金を引き上げ始めたから、国は一気に経済破綻への道を歩むことになった。ドイツのようにIMFやECBに少なからぬ出資をしている国にとっては、これまでのギリシャなどへの財政支援で支援疲れをしているところに、さらにキプロスへの支援が加わるのでは、不満が倍増したに違いない。ドイツなどからの強い圧力がかかったIMF、ECBおよびEUは、キプロスへの支援に厳しい条件をつきつけたようである。キプロスの銀行への預金者の預金に一定比率の税金を課すように要請したのである。キプロスの預金者にとっては、この世の不条理を感じたに違いない。ギリシャなどの銀行への預金者にはそのような預金税が課せられないのに、何故キプロスの預金者に限ってそのような犠牲が強いられるのかと。キプロスの議会もそのような預金税の法制化を否決したので、キプロス支援問題がどう決着するのか、世界の注目が集まる。互いに経済状況が大きく異なる国々の集合であるユーロ圏が存続するのか崩壊するのかは、政治経済的に壮大な実験とみることもできるからだ。

 ユーロ圏の危機に加えて、EU自体の分裂のおそれも無視できない。英国がEUから脱退するような態度をみせているためである。グローバリゼーションの下で、英国以外のEU諸国がEUの統合に向けた内向きのベクトルを集めようとしているときに、英国がEU統合よりも外向きの引力の方に引かれるのであろう。ここで、以前ブログで書いた原子核の放射性崩壊のことを思い出した。原子核を構成する核子は強い核力によって固く団結しているように見えるけれど、原子核によってはアルファ崩壊やベータ崩壊の形で原子核から脱出する粒子が生じることが避けられないのである。

 ここでまた別の例を思い出した。以前、47都道府県の県民性を解析した結果をブログに書いたことがあった。この結果によると、東京、大阪、長崎は都会型の性格パターンを示すのに対して、茨城、京都、佐賀は反都会型の性格パターンを示すのである。しかも、関東圏、関西圏、長崎圏のような同一地域にあって、東京と茨城、大阪と京都、長崎と佐賀は、それぞれ南西と東北方向に分極しているという法則めいたものがあるのが面白い。そう言えば、大潮のときに地球上の海水が月と太陽の引力を受けてそちらの方向に引っ張られるが、地球の反対側の海水は反対方向に引っ張られるというように、海水の分布状態が球対称的な分布からいくらか分極した状態に変形するのであった。

 人間の生命活動も、あらゆる現象の中のひとつの現象に他ならない。そうすると、仏教で言う「あらゆる現象は単独で自立した主体をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事である」がそのまま当てはまる。つまり、主体として存在すると思われている「私」は、脳の勝手な判断であり、錯覚であるとされる。人が誕生する前に「私」はなく、死後にもなく、人が生きている間にもない、というのが定常的な宇宙の実相である。人の脳は、勝手に楽観的になったり、悲観的になったり、不安を抱いたりして、宇宙の実相のことを忘れるということか。

 人の死について哲学は何を言っているのか知るために、新刊の藤田正勝著「哲学のヒント」(岩波新書)を読んでみる。自然科学や仏教のドライな世界に対して、ここでは何とも人間味のある世界が語られる。人が白骨になるのを見て無情を感じたり、人生の底に虚無を見るのは情意であり、仏教で言う「空」を悟ることではない。人が虚無を感じることさえ、ご愛嬌という感じがする。本当に「空」を悟るとは、虚無を感じることもない涅槃(英語ではnirvana)と言われる境地に達することだろうか。