向田邦子さんは,昭和4年11月生まれの作家で,『鹿児島感傷旅行』は,昭和54年5月号『ミセス』に掲載されたエッセイです。
このエッセイによりますと,向田さんが鹿児島に住んでいたのは,昭和14年頃だと思われます。これを読むと,当時の鹿児島が分かって驚かされることがありますので,幾つかご紹介します。「 」は,講談社文庫『眠る盃』から引用です。
「うなぎをとって遊んだり,父の釣りのお供をした甲突川」今はそういう光景を見たことがありません。コンクリートで強固になったので,鰻は生息できないのでは。
「天保山は,鹿児島随一といってもいい海水浴場であった」今では想像をすることすらできません。ひょっとして,昔は,与次郎ケ浜も天保山と呼ばれていたのでしょうか?
「四十年前の鹿児島市は,茶色い平べったい町であった。目に立つ高い建物は,県庁と市役所と山形屋と,野上どんと呼ばれた三階建ての西洋館の邸宅ぐらいの,地味な家並みであった」3階建てが,珍しかったのですねー。今では15階建てのマンションがあちこちに建っています。
「立っていると,冬の寒い朝,かじかんだはだしで(当時,鹿児島の小学生は冬でもはだしであった),朝礼にならんだ冷たさを思い出す。」さらに「城山まで駆け足!」これにはビックリしました。水戸黄門の登場人物でさえ草履を履いているのに。
そういえば,戦後,鹿児島商業高校がまだ天保山にあった頃,西駅(現在の鹿児島中央駅)から商業高校まで裸足で通学していたという話を聞いたことがありました。
ん~~~ん,昭和は遠くになりにけり。後50年後の小学生にとりましては,昭和も明治も同じような感覚になるかも知れません。