今朝の鹿児島市は寒かった。MBCのラジオ放送によると,今朝の気温は,11月中旬ころの寒さだったらしい。なんでも大口の最低気温は,6度だったとか。
そんな最低気温とは関係のない日中,とある街角の交差点で信号待ちをしていた。信号が青になるのを待っていたわけだから,その時の信号は赤だった。
信号待ちをしてじっとしていると,なんだか首のこりを感じたので,首を右下に一回,左下に一回,かく,かくと動かした。
肩こりの解消のために首を動かし終えた途端,同じように信号待ちをしている横断歩道の右側の人が私に挨拶された。
そうか,私のストレッチを,挨拶と勘違いされたか。しかし気付いた時には既に遅かった。その方(男)の名前はとても思い出すことができないが,確かに見覚えがあったので,私も直ぐに挨拶をした。
しかし,果たして彼は誰だっただろうか。確かに見覚えはあるが,名前が??
まさか,西郷ドンではなかったが,それでは……。
まぁいいか,元気であれば。そんな秋の一日でした。
今日はバレンタインデー。皆さんチョコを貰いましたか,あるいは意中の彼にあげましたか? なんだか 「意中の」という言葉が懐かしい。
さて,先日妙齢?の女性お二人と話す機会があったのですが,偶然にもお二人のお父さんのお仕事は,外交航路の船員だった。
それで,あの時代,昭和30年代か40年代,お土産はたくさんの外国製のチョコレート。一人の方は,小学生の頃。チョコを食べ過ぎて鼻血が出たとか。うらやましいやら,うらやましくないやら,微妙です。
私が小学生の頃食べていたのは,金色の銀紙(金色の銀紙はないと思うのですが,ナント表現すればいいやら)で包まれた丸いチョコレート。あれは何という名前デイしたっけ?
中学の頃は,もっぱらチロルチョコレート。あの白い飴をチョコレートでくるんでいたので,値段の割には食べ応えがありました。今でも当時の3分の1の量が
10円で売っていますが,今はその一欠片で十分です。
バレンタインデーということで,事務員さんを始め数人の方からチョコを頂きましたが,今年は意中の人からはありませんでした。
何しろ自分で買ってきて「一応上げたからね。私が食べてもいいでしょう」と言いつつ,そのほとんどを食べる訳ですから,渡せなくて一番残念だと思ったのは,意中の人でしょうね。
昨日は理事会があった。会議は通常午前午前10時から午後時まで行われるのであるが,昨日は珍しく,定刻より少し早く終わった。こういう会議が早く終わるとなんだか儲かった気分になる
先週は与論に帰省していたが,その前の週の9月13日土曜日は研修会があり,日曜日は福岡で全件委嘱に関する研修会のようなものがあった。12日金曜日は午後1時から支部長会があった。
その前の週,9月6日土曜日は午前中の研修部会と午後からの研修会が次男の運動会と重なった。分身の術が使えるのであれば同時に2カ所に参加するのであるが,生憎その術が使えないので,車であっちに行ったりこっちにいたりしていた。
9月5日は午後3時から研修部会があり,9月7日の午前中は部長会があった。
なんと,9月に入ってのんびりした土曜日を過ごしたのは先週だけであった。
考えて見ると,司法書士試験に合格した後結婚するまでの数年間は,土日は暇で暇で仕方がなかった。当時は今の様に研修会もなければ,不幸にして交際している彼女もいなかった。
あの,暇で暇でしょうがなかった土日の時間を少しおすそ分け,もしくはシェアーして欲しいと考える中高年の秋である。
先日友人3人と,とあるレストラン(夜は居酒屋に変身)で昼食をとった。久しぶりに会ったので,まぁ色々な話をした。後で訊くと隣の席に妻の友人がいたともこと。その店は,すだれが降りているので,隣の人の顔が見えないんですよね。
妻の友人が,ある居酒屋で飲んでいた。そこで鹿児島のあるラーメン屋さんの話になった。参加者の一人がそのラーメンが好きで,スープや麺を褒めちぎった。
すると,その隣に件のラーメン屋さんでスープを作っている人が座っていた。妻とおぼしき人が,「主人は店のラーメンの話が出てからというもの,落ち着かなくて,じっと聴いていたんですよ」と仰ったとのこと。
人は外に出たときは,ほめるに限りますね。
先日,鹿児島実業高等学校で,現在福岡ソフトバンクホークスで活躍する本多 雄一選手と同じ時期に野球部に所属していたという人(仮に「A」さんとします)と話す機会がありました。その話が結構面白かったので,その一端を。
練習はとにかく厳しかったので,Aさんが入部したときは100人いたが,卒業時には20人しかいなかったと。
Aさんに「本多選手は凄かったですか」と訊くと,「彼は,私とほとんど同じ体格(本多選手は身長174センチメートル)なんですが,走る,投げる,打つの何一つかなわなかったですねー」。「それに運もいいんですよ。だから怪我もなかったですねー」とのこと。
Aさんの話では,Aさんと本多選手では練習する姿勢も違っていた。Aさんは明らかに練習をさせられてたが,本多選手は積極的に練習をしていた。例えば,Aさんは,バッティングの練習でも,あまりの辛さに「後400球で休める」と考えながらやっていたが,彼は違ったでしょうね,と。
練習が厳しかったので,Aさんたちは痩せていったが,本多選手は逆に筋肉がついていったとか。
高校卒業に当たり,体格の恵まれない本多選手に対して監督は,大学進学をすすめたのだが,彼は一貫してして社会人野球にこだわったそうです。やはり一流選手になる人は,『自分を信じる力』が半端じゃないのでしょう。これが,17歳または18歳の少年の判断ですから,なおさら凄い。逆にいうと,若いからこそ自分を信じられるのかも知れません。
高校卒業後,本多 雄一選手は,ノンプロの三菱重工名古屋に入社し,2005年の大学・社会人ドラフト5巡指名を受け、福岡ソフトバンクホークスに入団し,内野手として活躍しています(「ウィキペディア」より)。
本多さんと同級生だったAさんも現在,会社員としてバリバリ活躍しています。
http://www.youtube.com/watch?v=Sd0n3XS9fik
今年に入って,与論島に行ったことがあるという人,二人に会った。
一人は,奥様が奄美出身なので,なんとなく与論島に行った訳は分かるが,もう一人の人が与論に行ったきっかけは,まだ訊いていない。
私が与論に住んでいたのは,昭和31年の12月から昭和39年の3月までであるから,期間としてはそれほど長くないが,生まれた島であり,また夏休みの毎に帰っていたので,与論島の記憶は意外と鮮明である。
与論島に行ったことがある人に,私が与論島出身であると話すと,「いい所ですねー」とか「きれいな所ですねー」という返事が返ってくる。そういう言葉はすごく嬉しい。
実際いろいろな海に行ったが,与論島の砂浜の白さと美しさは群を抜いていると思う。
また,昭和50年代初めの頃はまだ,海の中も珊瑚と熱帯魚でいっぱいだった。砂浜から数十メートルも泳げば珊瑚の群集があり,泳ぎ疲れたら珊瑚の上に足を載せ,片足のつま先立ちで休憩することができた。
時は流れるものであり,自然も環境も変化するので,その変化は誰にも止めることができないが,すぐそこにあった珊瑚群がなくなってしまったことは,大変淋しいことである。
いかん,いかん。こんなことを書くと与論から珊瑚がなくなってしまった印象を受けるかも知れませんが,決してそんなことはありません。
私が淋しいと書いたのは,数十メートル先にあった珊瑚がなくなったことです。今でも島はきれいな珊瑚に囲まれており,白い砂浜は相変わらずまばゆいばかりに輝いています。
何しろ島のどの浜に下りても,白い砂浜と美しい人魚姫(これはジョークです)に会えるので,初めて行かれる方はびっくりすると思います。
機会がありましたら、是非一度与論島に行かれて下さい。ホテルパックもあります。
冬になるとやはり恋しくなるのがセーターとマフラー。夏場にマフラーを見かけると『暑苦しそう』と思うのですが,冬になると『おおなんと暖かそう』に変わるから,誠に勝手なものです。
さて,男性が着ているセーターについてですが,白いセーターは『爽やかだけど,寒そう』に見えます。赤やオレンジですと『少し派手だけど,暖かそう』になり,黒や紺は落ち着いて見えます。
確かに色は見る人の感情を揺さぶります。もし貴方に好きな人がいたら,好きな人の好みの色を着るのも,恋を実らせる有効な手段になるでしょう(ヤフーの基本画面の記事みたいになってしまいました)。
気分転換の方法として,コーヒーを飲む,ストレッチをする,トイレに行く,隣の人に話かけるなど色々な方法がありますが,ウエブサイトを見るという方もいらっしゃるのでは。
いきなり爆笑して,気分転換をしたい方にお薦めのサイトを発見しました。
心の底から笑えます。休憩時間に見ることをお薦めします。
http://www.youtube.com/watch?v=Gng3sPiJdzA
たまには夜の散歩をと思い,昨夜9時30分頃いつもの散歩コースに出かけた。
秋の虫は鳴かないものの,吹く風は涼やかで気持良かった。
子供が小さい頃は良く一緒に散歩に出掛けたので,当時のことが思い出された。
長男が3歳か4歳の頃の日曜日,2人で散歩に行った帰りである。
「何処に行ったの?」と,家内が長男に尋ねた。
「やすむら公園」
「やすむら公園?それは何処にあるの?」と更に尋ねた。
「あのねー あっち」と長男は指をさした。
「どんな所ね」と愚妻ではなく,家内は質問を続けた。
「あのねー,葉っぱがたくさんあってねー,四角いところ」
そのやりとりを聞いていた,私は頷きながらも微笑んだ。
確かに散歩の途中で寄ったその公園は,葉っぱが沢山あって四角であったが,その名前は「やすむら公園」ではなかった。大体日本にある公園のほとんどは四角いが,今考えると,3,4歳の子供が「四角い公園」と言ったのが凄いと思う。四角とか,円いという概念は,幾つから認識したっけ?
「やすむら公園」という名前が何故出て来たのかは,14年(15年?)経った今でも不明である。何故なら,その名前を発した本人が記憶していないのである。
「やすむら公園」って,一体何処にあるのでしょうか?
庭木になっている蜜柑を見ると,もぎ取って食べたくなる衝動に駆られるのは私だけでしょうか。
「そんなに蜜柑が好きなら買って食べればいいじゃん」と思うかも知れませんが,私の場合,飽くまでも木になっている蜜柑を自分の手で「もぎ取って」食べたくなるのである。
何故そんな衝動に駆られるのかと不思議に思っていましたが(決して盗癖がある訳ではありませんので),布団の中でつらつら考えるて,やっとその答えが分かりました。
小学校一年生まで住んでいた家には,四種類の蜜柑の木が植えられていました。恐らくその全部が「島蜜柑」であったと思うのです,中には味と香りが沖縄のシークワーサー酷似した蜜柑もありました。
その四種類の蜜柑は,味も香りも,食べ頃も異なるので,恐らく12月から3月頃まで,庭の蜜柑をちぎって食べていました。
蜜柑が完熟するまで待つことなく,少し黄色みがかった頃には食べていたので,今考えると絶対美味しいはずはないのですが,その頃は美味しかった。
当時はバナナもリンゴも温州蜜柑も貴重品で,なかなか口にすることができなかったので,少し黄色みを帯びた島蜜柑でもじゅうぶん美味しく感じることができたのでしょう。
「三つ子の魂百まで」と言いますが,6歳頃の記憶が48年経った今でも鮮明に残っていることに少々びっくり。
幼い頃の楽しい体験って,ホント大切ですね。
車で街なかを走っていると。白い白木蓮(白いから白木蓮なんですが、ついこう言ってしまいます)目にするようになりました。ムムッ、春近し。
ラジオを聞いていたら、与論島に住んでいる87歳?のお母さんが、ヨモギ団子を送って来てくれたというエッセイが読まれていました。
同じ与論島出身の私の母も、以前はヨモギ餅を作っていましたが、何時の頃からか作らなくなりました。ヨモギがとれなくなったのか、あるいは作るのが面倒になったのか。
私が小さい頃の、この時期のの楽しみと言えば、さねんの葉にくるんだよもぎ餅と大潮の時の浜遊びでした。海で食べる採れたてのもずくって、本当美味しかったなぁー。
そういえば祖母が元気な頃は、磯の香りいっぱいのアオサ海苔を送ってくれたものでした。アオサ採りって、根気の要る作業なんですよね。アオサも春の味覚ですね。
小さい頃は畑のサトウキビをかじっってその甘い汁を飲んでいましたが、今はそんなことはしません。周りにサトウキビがありませんし、もし囓ったら歯が欠けるかも。
その代わり、今はサトウキビを原料にして作られた黒砂糖を、そのまた原料にした黒糖焼酎を飲んでいます。
黒糖酒は芋焼酎と比較すると、匂いがなく、口当たりがまろやかなので、芋焼酎はちょっという人でも美味しく飲めます。
考えて見ると、物心ついた時から熟年になった今でもサトウキビのお世話になっていることになります。サトウキビって凄い!まさしくミラクルスティックです。
私が子供の頃はまだなかった。ところが愚妻の頃は・・・
その日は妻の誕生日であった。学習したことを表現すべく,朝一番に「誕生日おめでとう」と言って軽いキス,なんてことををする訳がない。俺は,日本男児である。
その日,なんかの用事で出かける予定のある私に,「ケーキを買って来て」と女の子の様なお願いをした。
(いい年をしてまだバースデイケーキを食べるのかよ)と心の中で呟きつつ「分かった じゃ 電話で予約して置いて」と言った。
嫌なことは中々しないが,好きなことは直ぐ行動に移すタイプの妻は,直ぐにケーキ屋さんに電話をかけた。
「エエ,4時から6時頃の間に取りに行きます」
「ハイ 1万円(ジョークです)のをお願いします」
次の言葉を聞いて,私は腹を抱えて笑ってしまった。
「○○チャン 誕生日おめでとう」
なんと 自分の名前を口にしているではありませんか。
「ハイ 5本くらいお願いします」
これは恐らく
『ケーキには なんて書きましょうか』という質問と
『ローソクは何本ご入り用でしょうか』という問いに対する,答えでしょう。
いい年をして「○○チャン 誕生日おめでとう」はないだろうし,さらに歳を示すローソクが「5本くらい」もないでしょう。
さすがの愚妻も,「よんじゅう○○本」とは言えなかったのでしょう。
それにしても女性は,何歳までバースデイケーキを食べたがるのだろう?
2,3日前ラジオでこんな葉書が読まれました。
「小さいころ,家が貧しかったので,ひな祭りのお人形が欲しくて欲しくてたまらなかったが,それを親に言いだすことができなかったのよ」と子供に話したところ,それを聞いていた主人が「それなら僕が買ってあげるよ」と言ってひな人形を買ってくれました。買ってもらったひな人形が嬉しくて嬉しくて,一日になんども眺めてしまします。という内容のお便りでした。
妻にこんな話を聞いたんだよと言ったところ,「実は私も小さい頃・・・・・があって,成人式の時は・・・・・・があったのよ。だから私にもひな人形買って」と来ました。
やれやれ,ラジオで聞いたいい話を教えただけだったのに,数十分の思い出話になり,最後はおねだり妻になるとは・・・。
夫たるもの,妻との話題は慎重に選ばなければなりません。
大谷さん(全国骨髄バンク推進連絡協議会会長)は,千葉大学の大学院生のときに,慢性骨髄性白血病と診断されました。当時に当時の医療技術では,骨髄移植だけが,慢性骨髄性白血病の唯一の治療法だったそうです。
骨髄移植の適合者としては,通常兄弟姉妹が多いのそうですが,大谷さんの場合は,残念ながらお姉さんが適合しなかったそうです。そこで骨髄提供者を必死に探したところ、奇跡的に母親と骨髄の型が一致することが判明(DNAが一致しないといけないので,通常は両親というのはあり得ないそうです)。
しかし,移植手術の成功の可能性は1パーセントしかなく,7人の医師団の中で6人が反対し,残り1人の医師も賛成はしなかったとか。大谷さんのお姉さんが「1パーセントも可能性があるじゃないですか」というと,医師が「お姉さん,1パーセントしかないんです」説明したそうです。
それでも,大谷さんはお姉さんの言葉に後押しされて移植手術を受けることを決心し,その手術が見事成功したという話でした。成功の確率が1パーセントの手術です。
普通の人なら,「1パーセントの可能性しかない」というところを,「1パーセントもあるじゃないですか」とのいい方は,超ポジティブ思考と言えるか。あるいは無謀というか。
そのとらえ方はひとそれぞれでしょうが,大谷さんがある意味強運の持主だったことは,間違いないでしょう。