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ベートーベンを語る。

2014-01-07 | 聴けた!imaging.
ベートーベン座談会
ベートーベン弦楽四重奏曲9曲、連続演奏会の前、11時から上野文化会館4階会議室で開かれたヂスカッション。
野平一郎(ピアニスト、作曲家)、平野昭(慶応大学教授、ベートーベン研究家)、土田英三郎(東京芸術大学教授)のメンバーでした。
日本ベートベンクライシスの設立経緯から、1999年12月ロンドンサザビーズで競売された、新発見のベートーベン自筆楽譜についての紹介があった。
そのコピーが、この楽譜で、極めて読み難い弦楽四重奏の曲です。
ロ短調で書かれているが、ベートーベンにはほとんどロ短調の曲がありません。とっても短い23小節の作品で、1817年の11月27日金曜日にイギリス人リチャードフィードに贈呈しています。この時、リチャードフィードは何と21歳の若さだった。
ベートーベンは、意外にもイギリス大好きで移住したいとも考えていたし、このとき2曲の交響曲の作曲もイギリスから依頼されていた時期でした。
民主国であるイギリスが好きだった。
バッハは、有名なロ短調ミサ曲、平均律の中の曲、フーガの技法の中、など、多くの曲をロ短調で作曲している。
なぜ、ロ短調だったか??
このころベートーベンは新たな研究により新しい境地を開拓して行こうとしていた。
対位法を見直そう、、、、、、見直すべきはバッハでありヘンデルであると研究をはじめたところで、1817年は、作風転機の出発点になった年でした。
当時ベートーベンが使っていたピアノは今よりも音域も狭い、ブローードウッドピアノで、音色は沈みがち音力も弱く表現に限界があって、1803年にフランスのエラール社がはじめてペダル付きの、現在のピアノに近いピアノを開発。
ベートーベンのところに運んで来た。
これに触発されて、ベートーベンは1822年まで、ピアノソナタを作曲し続けて、32番に到達。
32番のあと、何を作曲するかという境地まで達して、以後、ピアノソナタは作曲していません。
1822年に第九交響曲を作曲。死ぬまでの残りの人生を5曲の弦楽四重奏曲の作曲に集中。
15番のアダージョは、バルトーク弦楽四重奏曲3番2楽章にパクられている。
この5曲、まだまだとても理解できない巨大な曲です。
悟り、神への感謝。
精神の高みと澄み切った響きをどうぞ楽しんでください。

誰が何を言ってくれたか?メモ書きでして、定かではないけれど、このような内容でした。
素晴らしい大晦日の夜となりました。

コメント (6)
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