平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2013年3月3日 主を信頼する気持ちが

2013-03-13 23:54:52 | 2013年
マタイによる福音書25章14~30節
主を信頼する気持ちが

 このお話は、天の国のたとえ話です。それも、地上での、私たちの送った人生を神様と清算するときのお話と考えることができます。
 ある人が旅行に出かけるときに、僕たちを呼んで、自分の財産を預けました。ある人、それは僕たちの主人のことで、神様を指していると思われます。そして、僕たちが、私たち人間です。主人は、僕たち一人ひとりに自分の大切な財産を預けて、旅に出かけました。神様は、私たちに、神様の大切な財産を、お預けになられました。それぞれの力に応じたものを預けられたとあります。
 ですから、その財産は、その人にとっては、たくさんでも少なくでもなく、丁度よいものでした。その人にとって、重荷でもなく、これっぽっちというものでもなく、丁度良いものでした。そして、この5タラントン、2タラントン、1タラントンという額は、何かしようと思えば、それができる量でした。
 1タラントンは、6,000デナリオンだったと言いますから、1デナリオンが、当時の成人した男性が一日働いて得ることのできた額だったことを考えますと、6000万円くらいはあったでしょうか。それくらいあれば、それを元手に何かをすることは可能だったでしょう。もっとわかりやすくするために、5億円、2億年、1億年を預けられたと考えてもよいかと思います。
 それぞれ、決して少ないものではありませんでした。このお金を神様から与えられた能力とか、恵みだと考えますと、それぞれが、預けられた能力、恵みは、差はありますが、どれも大きなものであったというのです。ちっぽけなものではありませんでした。そして、その恵みは、それを受け取るに、大きすぎるとか足りなさすぎるとかはなく、それぞれに適したものであったということです。ちなみに、このタラントンという単位を表す言葉から、いわゆるタレント、賜物、才能とか能力とか、そういった言葉ができました。
 そこで、5タラントン預かった者は、早速、それで商売をして、ほかに5タラントンをもうけました。預けた主人は、その預けたお金で、商売をしなさいとも、それを大事に保管しておきなさい、とも、何らの指示もしていません。ただ、預けたのですから、いずれ、戻してもらうことになるということだけはわかります。
 そして、2タラントン預かった者も、5タラントン預かった者と同様にしたのでした。商売ですから、失敗して、すべてを失ってしまう可能性もあります。大金です。大きなリスクが伴います。ですから、大金を預けられた者こそ、それを大事に保管して、主人が戻ってきたときに、そっくりそのまま返すことを考えるべきなのかもしれないのです。預けられたものをまずは返す、それが第一のことではないか、そう考えるべきなのかもしれないのです。
 そういった意味では、この1タラントン預かった者は、非常に堅実にことを運んだと言えます。地の中に隠しておいたということを聞くと、何となく、小心者で情けない感じが致しますが、当時としては、まっとうな管理手段でした。彼なりに、管理した、務めを果たしたということだったのでしょう。
 そして、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来ました。そして、彼らと清算を始めたのでした。そのとき、まず、5タラントンを預かった者が進み出て、ほかの5タラントンを差し出して、「ご主人様、5タラントンお預けになりましたが、ご覧ください。ほかに5タラントンもうけました」。主人は、商売をして、さらにもう5タラントン儲けた僕に、何と危険なことをしたのだ、儲けたからよかったものを、もし、預けた金がなくなっていたら、どうするつもりだったのだ、とは、言っておりません。
 もし、商売に失敗して、預けていたお金がなくなっていたら、主人は、彼を叱ったでしょうか。むしろ、チャレンジしたことを褒めたかもしれません。それにしても、これを元手に商売をしない限りは、まっとうな形で、さらに5タラントン儲けるなどできないわけでしょう。
 主人は、言っています。「忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。この僕がしたことをこのように主人は評価したのでした。まず、主人に対して忠実であったと、というのです。主人の願っていることを理解し、そのとおりにことを行ったと褒めているのです。ですから、それはよい僕なのです。
 僕は、主人のことをよく理解しているのです。何をどのようにすることを主人は、願っているのかをこれらの僕たちはわかっているのです。お前は、少しのものに忠実であったと言われています。5タラントンは、太っ腹の神様からすれば少しのものに過ぎませんが、私たちが、神様から預かったもの用いて、この神様を信頼して、神様が願われていることを行うならば、それは、あたかも小さなものに忠実である姿に匹敵するような事柄だということでしょうか。そして、言われるのです。「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」。
 ところで、商売をしている方々はわかると思います。私は、商売をしたことはありませんが、おそらく、少しのものに忠実であるという姿勢が、商売を成功させる秘訣となるのではないでしょうか。主人は、とてもうれしいのです。この僕たちの行為を主人は、とても喜んでいます。この主人が預けたものとは、何でしょうか。
 それをもとにして、さらに与えられたものと同等の価値あるものを生み出すことです。与えられた能力、与えられた恵みをそのままなくならいように保持するのではなく、与えられた分だけのものをさらに生み出すことを主人は、神様は、喜ばれます。与えた分だけのことをしてくれた、そのことがうれしいのです。
 お前たちには、当然、それができるものを預けたのだから、できてあたりまえ、よかった、よかった、と。彼らは、主人がそういう方であることを知っておりました。この主人を信頼しておりました。きっと喜んでくれると信じておりました。無一文になるかもしれないけれど、そのリスクを負ってでも、チャレンジすることを喜んでくれると信じておりました。
 ところで、1タラントンの僕が、どうして、地の中に穴を掘って、預かったお金をかくしておいたかの理由を彼は次のように言っております。「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です」。
 主人に対するこのような認識は、5タラントン、2タラントンの僕たちにも同じようにあったのでしょうか。もし、同じように主人のことを理解していたのなら、なおさら恐ろしくなり、彼らもまた、紛失しないようにどこかに隠しておいたかもしれません。商売をした僕たちは、1タラントンを隠した僕のような理解を、主人に対して、してはいなかったでしょう。ですから、彼らは、なくなるかもしれないけれども、あえて、チャレンジをして、同額の儲けを出したのでした。そのことを主人がきっと喜んでくれることを知っていたのでした。
 当然、それができる力を彼らは与えられておりましたから、それ相当の恵みを預かったときに、彼らは、新たなる価値を生みだすことができました。地にタラントンを隠しておいた僕にとって、この主人は、鬼のような人物だということになります。種を蒔きもしないのに、そこから、刈り取ろうとしたり、散らさないのに、かき集めようとしたり、それは、土台無理なことではありませんか。1タラントンしかもらわなかったので、いじけて、ひねくれてしまったのでしょうか。
 2タラントンもらった僕は、そういうことはありませんでした。先ほどから言っておりますように、1タラントンは、少ない額ではありません。この僕の一番の悲劇は、この主人を信頼することができないところにあります。主人を、神様を無慈悲で酷なお方と理解しています。ですから、彼のなかにあるのは、恐怖です。このお方を喜ばそうとか、この主人に対する愛情、信頼、そういう気持ちがありません。
 やはり、同額をもらわなかったことに何かしらのねたみや不信を抱いた可能性があります。神様は、それそれの力に応じ、タラントンを預けた、と言いますから、そこには、納得しがたいものがあったとしても、私たちは、それについて、それでも大きな恵みであることを喜び、それを何とか主のために用いようとすることが求められています。
 しかし、私たちは他人と比較して、自分の幸せ、不幸せを測ろうとします。そこに誤りがあることを聖書はいろいろなところで教えております。そして、ついに、主人は、この僕のことを次のように言いました。「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきだった。そうしておけば、帰ってきたとき、利息つきで返してもらえたのに」と。
 主人は、この男は怠け者だ、と捉えております。まったく、同情の余地がないと考えています。この男は、主人のことをほんとうには、何も知らなかったのではないでしょうか。知ろうともしていなかった、そういうことだったのではないでしょうか。そして、せめて、そのような理解をしていたとしても、主人が言うように、銀行にでも預けておれば、少しは利子がついていたでしょうから、そうした努力もしなかったというのは、はやり、怠け者といったレッテルを貼られてもいたしかたなかったでしょう。主人に対する信頼、愛情が見てとれません。
 そして、聖書は次のように結びます。「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントンもっている者に与えよ。だれもで、持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」。
 さて、主人は、5タラントンと2タラントンを儲けた僕たちに、「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」と言っています。今まで以上に大きな額のお金を、あるいは、財産を管理させると言われました。僕たちが設けた5タラントン、2タラントンを与えようと言われたのではなくて、多くのものを管理させよう、と言われました。タラントンは、賜物です、能力です、恵みです。多くの恵みを管理させようと、言われました。
 私たちも今まで以上に、多くのものを管理させてもらうことになったことを思うとき、神様は、これまでの私たちの教会の歩みを喜んでくださったのではないかと、うれしくなるのです。私は、前任地で開拓伝道をしていた時分、毎月一度、母教会に報告に行っていたのですが、そのときのことを思い出します。母教会の執事会の最後に、伝道所からの報告というので、私が、この1ヶ月にあったことを報告するのです。
 このような行事をしました、このような方々が来られました、バプテスマが与えられました。そうしましたら、母教会の皆様が、満面の笑みをうかべて、ときには、手をたたいて喜んでくださるのでした。そうするとまた、得意になって親や先生に報告するこどものように、私は、報告を続けたものでした。自分たちのしたことを、自分たちの歩みを神様が喜んでくださる、そのことへの信頼のないところで、私たちは、宣教活動を行うことはできません。
 私はかつて、自分には1タラントンしか与えられていないと思っていました。それがいかに大きな恵みであったかも知らず、他者と比較して、そのように思えてしかたありませんでした。神様は平等に扱って欲しいとも思いました。しかし、このたとえ話を読んだ多くの人々が、自分はこの1タラントンしか与えられていない者だ、と思ってしまうのではないでしょうか。
 人間は、えてして、そのように考えがちです。私も自分に自信が持てず、そのように思っておりました。それが、牧師になってからは、違います。神様の御用をしていると思うようになってからは、神様に喜んでもらうことを願うようになってからは、他者との比較はもちろんのこと、自分自身に固執する必要もなくなってきました。それで、今は、神様は、こんなにも多くの恵みを与えてくださっていたのか、5タラントン以上かもしれないと思うほどになりました。
 神様は、私たちにたくさんの能力や恵みをお与えになられています。それらを用いて、神様、与えられた同額のものをさらに得ました。ご覧ください。と、その実りを差し出すことを願っておられます。もし、そのように私たちがするなら、神様は、忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。と、おっしゃって、さらに多くのものを管理させてくださることでしょう。そして、私たちは、もっともっと大きな恵みの管理者になるのです。これは、神様の、ひとりのキリスト者に望まれる姿でもありますが、世のキリストの教会の姿でもあります。
 2013年度から、私たちは、新たに大きな恵みの監理者として、その働きを神様から委託されました。神様は、私たちが、チャレンジされることを願っております。私たちは、どうやって、同じだけの恵みを神様に差し出すことができるでしょうか。神様がよくやった、と言ってくださることを信じ、一緒に喜んでくれ、というお言葉を期待して、歩みをなしてまいりましょう。


平良師

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