平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2013年11月3日 人が利益もないのに神を敬うでしょうか

2014-06-14 23:07:46 | 2013年
ヨブ記1章6節~22節
人が利益もないのに神を敬うでしょうか

 このヨブ記は、信仰とはいったいどのようなものなのかを私たちに教えています。多くの宗教で人々は、信仰することで、多くの利益を得られると考えています。日本の多くの神社は、ご利益にも専門分野があります。学業、商売繁盛、結婚、離婚、就職、病気、農業、漁業、宝くじなど、さまざまにあります。そして、人々は、願う内容の、よりご利益のある神社を求め、参拝致します。
 ここの神社にお参りして、宝くじが当たったとなると、すぐに宝くじに強い神社だと評判がたち、それだけでなく神社自らがそれを自称するようになりまして、それにちなんだお札なども売り出されるといったことになります。このように、人間の信仰心、人間が神頼みをするのは、自分にとって、そのとき欲しい何か、利益を求めることと切り離すことはできません。
 神様が、ヨブを指して、「彼ほどの者はいまい。無垢(潔白で純真なこと)な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と言ったときに、サタンは、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と言いました。
 サタンは、神様がヨブの財産を守り、祝福なさっているので、彼は、神様を礼拝し、神様に従っているのであって、そうでなければ、逆に神様を呪うでしょう、と言ったのでした。つまり、人間の神様への信仰心というのは所詮このようなものでしかないというのが、サタンの主張でした。このサタンの発言に、私たち人間は、どのように答えることができるでしょうか。その通りと居直る人もいるでしょう。
 否、そんなことはない、と言う人もいることでしょう。ただし、イエス様のところへやって来た少なからずの人々は、病を癒して欲しいといった願いを持っておりました。肉体的な苦痛から解放されることは、誰もが求めるものであって、それにイエス様もお応えしてくださいました。
 もちろん、イエス様は、心の糧をも与えてくださいました。求める者には、お応えしてくだしました。イエス様自身が、神様に望むことを求めるように、勧めてくださいました。ですから、ご利益だからと、それを求めてはならないということでもないでしょう。しかし、サタンのこの言葉は、一方において、私たちに宗教とは信仰とは何かを考えさせるのです。
 ところで、サタンというのは、いったい何者でしょうか。ヨブ記では、御使いたちが集まっている天上界の会議の席にサタンもやってきたとあります。このとき、神様がサタンに尋ねます。「お前はどこから来た」かと。彼は、「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」と答えました。彼は、地上を巡回し、ほうぼうを歩きまわっていたのは、何のためであったかというと、神様に罪を告発する対象になる人間たちを探していたようです。
 このヨブ記から、サタンというのは、もともとは、御使い(天使)の一人であったけれど、人間の罪を告発することを仕事としていたのが、そのうち人間を罪に誘惑するようになった。誘惑して意図的に罪に陥らせてから、その罪に陥った人々を神様に告発するということを行うようになったとの理解が得られます。ようするにサタンは、はじめ天使の一人であったけれど、堕落して、人間を罪に誘う者になったということになります。
 神様は、「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」というサタンに対して、それならと、ヨブを試すことをサタンにお許しになられます。神様は、それほどにヨブを信じていたとも考えられます。ヨブ記は、何故、神様に従って誠実に歩んでいるにもかかわらず、そのような義なる者たちに災いが臨むのかについて、説明をしている書だと言えます。
 それでは、神様がサタンにヨブへの災いを許した結果、どのような災いがヨブに降りかかってきたでしょうか。それは、すべて一日のうちに起こりました。ヨブの息子たちは7人いて、娘が3人おりました。その日は、長男の家で宴会が開かれていました。
 少し説明をしておきたいと思いますが、息子たちは、いつも、順番で、自分の家で宴会の用意をして、そこに3人の姉妹たちも呼んで、仲むづまじく生活をしていたようです。そうした息子たちが、罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない、と、そこまでヨブは気遣い、そのために、この宴会が一巡りするごとに、息子たちを呼び寄せて、聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえを捧げて、礼拝をするのでした。
 ヨブは、本人自身が、無垢な正しい人で、神様を畏れ、悪を避けて生きておりましたが、その思いは、子どもたちにまで及び、子どもたちも神様に罪なき者としてあってほしいと願っていたのでした。そのヨブを神様は、祝福され、彼に膨大な富を与えました。その富は、羊7千匹、らくだ千頭、牛500くびき、雌ろば500頭、それから、たくさんの使用人がおりました。そして、東の国一番の富豪であったと書かれております。
 話しを戻します。神様が、サタンにヨブを任せた結果、そのヨブがどのようなことになってしまったかということですが、それまで働いて築いた大事な財産であった家畜、まず牛たちがシェバ人の襲撃にあって奪い取られます。牧童たちも切り殺されます。次に、天から神の火が降って、とありますから、火山の爆発か何かがあったのでしょうか、いわゆる自然災害で、今度は羊たちが、死んでしまいます。それから、カルデア人が襲ってきて、らくだを奪って、牧童たちも切り殺されてしまいます。そして、最後に、長男の家で宴会を開いていたところ、大風が四方から吹き付け、おそらく竜巻でしょうか、それで、家が倒れ、若い人々が死んでしまったというのです。
 こうした知らせが、一日のうちに次から次にあって、一瞬のうちに、ヨブは、すべての財産を失い、おまけに、自分の愛する子どもたちまで、失ってしまったのでした。ここまでのことは、私たちの人生においても、そうあるものではありません。しかし、先の東日本の大震災では、そのようなことが起こったわけです。
 そのとき彼は、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言い、神様を非難することはなく、罪を犯さなかったとあります。ヨブは、神様が期待したとおりの人物だったのです。
 ところが、災いは、これで終わりませんでした。しばらくして、また、天上界での集まりのときに、サタンもやってきて、神様から、「お前は、理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」と言われました。サタンは、「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉を触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と言うのでした。
 そこで、神様は、今度も「それでは、お前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」と言われました。その結果、ヨブは、どうなったかと言いますと、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかりました。ヨブは、灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしるほどでした。神様は、ヨブを愛し、ヨブを信じているのです。
 しかし、災いの只中にある者は、たまったものではありません。ヨブの妻も、当然自分たちに降りかかってきた出来事のなかで、苦しんでいたでしょう。財産も子どもも失い、そして、今また、今度は、夫がひどい皮膚病で苦しんでいるのです。ところが、この夫は、そのようななかにあって、一言も神様を呪うことなど致しません。相変わらず、無垢で、正しい人で、神様を畏れ、悪を避けて生きているのです。
 妻は、思ったことでしょう。いったいこのように生きていて、それが何になるのか、と。財産は失われ、子どもたちは死に、おまけに、夫はこのようなむごいありさまだ、何のよいこともない、苦しいばかりではないか、神様を信じて、いったいどのようなよいことがあるというのか。
 妻はヨブに言いました。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」。この妻のようになることをサタンは願っています。サタンはこの妻の姿に大喜びだったはずです。妻に信仰があれば、このような夫を誇りに思い、夫を励まし、寄り添っていたことでしょう。残念ながら、妻は夫のような信仰の持ち主ではありませんでした。
 しかし、このヨブの妻を責めることが、私たちにできるでしょうか。私たちも同じように言うのではありませんか。なぜなら、ヨブは、苦しいばかりで、何のよいこともないのです。そのとき、サタンのあの言葉が、真実かのように脳裡によみがえります。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」。
 サタンというのは、神様と人間の信頼関係を断ち切ることがねらいです。神様から人間を引き離していきます。あるときは巧妙に、甘い言葉をもって誘惑するのです。あるときは、その道を選択しないでは自分がだめになってしまうのではないかとの思いにさせられて、罪を犯してしまうのです。あるときは、神などいないのだ、といった虚無感に晒されるのです。そうやって、人間は神様に背を向けて、遠く離れていってしまいます。それが人間の罪なのです。
 ヨブは、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言う妻に向かって答えました。「お前まで、愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」。お前まで、というところを見れば、他にも、ヨブに対して、そのようなことを述べる者たちがいたということです。一番身近にいる妻のお前までもが、自分のことを理解してくれているとばかり思っていたお前までもが、そのように言うのか、とヨブはほんとうにがっくりきたことでしょう。
 そして、彼は、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と述べました。聖書は語ります。「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」。
 しかし、ヨブのほんとうの苦しみは、ここから始まるのでした。その苦しみがどのようなものだったのか、そして、その結果、彼はどのようになってしまうのかは、次回に扱うことに致しましょう。そういった意味では、来週の説教まで、お聞きしませんと、全体的な事柄を理解したことになりませんので、来週もなにとぞご出席してくださいますよう、お願いします。
 とりあえず、今日の説教では、何故、人間に災いが臨むのか、それも神様を信じ、罪を犯さないように生活していてもなお、そういうことになるのか、ということ、そのときに私たちはどのようであればよいのか、真実の信仰とはどのようなものなのか、そういったことをとらえておきましょう。
 ヘブライ人の手紙12章の4節からのところに次のような言葉があります。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『我が子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである』。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」。
 神様は、私たちを神の子として扱っておられるのであれば、当然、私たちを試練に遭わせられます。敗北は、神様を呪って、遠く、神様から離れていってしまうことです。
 私たちの信仰は、絶えず、サタンの「利益もないのに、神を敬うでしょうか」との問いに、さらされています。ヨブは、「主は与え、主は奪う」と述べました。そして、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言いました。神様は、私たちを愛をもって創造なさり、私たちに命をくださいました。
 しかし、いずれ私たちの肉体は、いかなる頑丈で精密な機会も故障して、動かなくなるように、どのようなすばらしい肉体も朽ち果てて、この世の命は終わってしまいます。もちろん、そのあと永遠の命に移らされるのですけれども。それから、私たちはこの世にいるときに、たくさんの恵みを神様からいただきました。幸福だと思った日々も随分とありました。
 しかし、大きな災いに見舞われたり、大病を患い床に臥せるということになったり、人との関係が壊れたりと、不幸を背負うこともでてまいります。つまり、神様が、よいものもそうでないものも、すべてを私たちに与えてくださっておられるのであって、主権は神様にあるということなのです。私たちは、この神様の前に、己をむなしくするしかありません。
 そのとき、ヨブは、その状況を嫌々ながら受け入れるというよりは、「主の御名はほめたたえられよ」、「不幸もいただこうではないか」と、なお神様を信頼しているのです。この姿勢に教えられます。今日扱った聖書の箇所からは、この箇所までの彼の姿からは、そういうことを私たちは教えられます。
 ヨブが義人と言われるゆえんです。そして、神様は、私たちを愛しているからこそ、試練に遭わせられるのだということを教えられます。そのことを信じてまいりましょう。ゆるぎない信仰を自分のなかに育んでまいりましょう。


平良師

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