平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2013年12月29日 人は新たに生まれなければ

2014-07-05 09:53:55 | 2013年
ヨハネによる福音書3章1節~16節
人は新たに生まれなければ

 ニコデモは、ファリサイ派に属するユダヤの最高議会の議員でした。ですから、ユダヤ当局の中枢にいた人物の一人であったと考えられます。ある夜、彼は、イエス様を訪ねました。夜だったというのですから、イエス様を敵視していたファリサイ派に属していたということもあり、人眼につくのを避けた、仲間たちに見られるのを避けたのでしょう。しかし、彼は、イエス様のなさった御業のいくつかを見る機会に与りました。そこで、イエス様が神様のもとから来た教師、神様が共におられるお方であると考えました。
 それで、何とかイエス様と直接会って、そこいらのことを確かめたいと思いました。否、彼がイエス様のところへ来たのは、それだけのためではありませんでした。ある目的をもって実はイエス様のところへ来たのでした。それは、何であったかというと、明確には記されていませんけれど、そのあとの、イエス様のお言葉で、ニコデモが、何を欲していたかは、知ることができます。
 イエス様は次のように言われました。「はっき言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。つまり、ニコデモは、神の国を見たいと思っていることをイエス様は見抜いておられました。イエス様は、そのニコデモに、それには、新たに生まれなければならないのだ、と言われたのでした。ニコデモは、その意味を文字通りに受け取り、「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と答えました。
 イエス様は、もちろん、そのようなことを述べたのではありませんでした。ニコデモが、神の国を見たいというのは、神の国に入りたいといった強い願望を持っていたということです。どうしたらそれができるのか、そのことを聞きたかったに違いありません。イエス様はそのことを見抜き、ニコデモに、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。そして、そのことを次のように言い換えられて語りました。「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。
 新たに生まれるというのは、それまでの自分をすっかりとなくす、バプテスマを受けるときいったん水の中に沈められます、それはそれまでの罪ある自分に死ぬということを意味しております。ですから、新たに生まれるというのは、それまでの自分に何かを付け加える、それまでの自分の多くはそれまでどおりで、ある部分だけを直す、そういうことではありません。新たに生まれるというのは、まったく新しい自分になるということです。そして、そのために、水と霊が必要になるというのでした。
 今、私たちは、その水と霊というのが、バプテスマ(洗礼)を意味していることを知っています。基本的には、洗礼を受けるというのは、それまでの自分をすっかりと捨てて、聖霊なる神様のお働きによって新しい命をいただき、その新しい命に生きることだと理解しています。それまでの自分に一部分修正が加えられるとかいったものではありません。まったく新しくなることです。
 それで、キリストの教会を新生者の集まりと言ったりします。そして、新たに生まれた者たちは、風のように思いのままに自由に生きることになります。それは霊に生かされている姿です。風というギリシャ語は、霊と同じプネウマと言います。風は思いのままにふく、つまり、神様ご自身は、本当に自由に振る舞われます。人間が考える道筋どおりではありません。人間は、これがこうであれば、次はこのように動く、そう考え、予想します。
 しかし、神様の御心は、私たち人間に読めるようなものではありません。「風は思いのままにふく。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」。そうです。私たちには、神様のお考えや御心を見定めることができません。神様の思いは、幅広く、深く、豊かであります。それでも、私たちは、これが御心だと自分で判断せざるをえないことがあり、そうなのだと決めて、ことを図ります。しかし、その御心と判断するというのは、祈り、信じるということ以外の何物でもないことは皆さんがご存じのとおりです。
 しかし、私たちは、この自由な神様のお働き、聖霊のお働きによって、私自身を新しくさせられるのです。それは、神様にすっかり身を委ねるということです。
 そして、その神様の生きて働かれているお力によって、聖霊のお働きによって、信仰に生きることに招かれた者たちは、聖霊のごとくにして、人生を送ります。「霊から生まれた者も皆そのとおりである」と、書かれています。霊から生まれた者の生き方は、そうでない者の生き方とは違います。「風は思いのままにふく。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」、どこまでも自由な姿があります。
 この霊から生まれた者と対照的な生き方をしていたのが、ファリサイ派の人々であったということは、言えるでしょう。ファリサイ派の生き方は、それはとても、型にはまったものでした。しかし、それは誰もが読める道筋をもっていました。ファリサイ派は、律法という当時の社会規範、行動規範を定めた掟をしっかりと守ることで、神様の前に義とされる人間となり、神の国に入ることができる、永遠の命に至ると考えておりましたから、その律法の実践に昼夜努力をしておりました。そして、そのような生き方をしない人間には、罪人というレッテルを貼り、救いからもれた人々との烙印を押しておりました。
 しかし、ニコデモは、そのような一派のなかにいながら、果たしてそれは真実なのだろうか、といった疑問を持つようになっておりました。むしろ、このイエスという男の言っていることの方が、神の国に入るということになるのではないのか、そのように思えるようになったのではないでしょうか。それもそのはず、イエス様は、神の国について、多くを語っておられました。いろいろなたとえを用いて、神の国について、御語りになりました。それは、これまでの誰も語ったことのないようなお話だったに違いありません。おまけに、イエス様は、いくつもの奇跡を行い、それは神様から遣わされた方でなければ、神様が共におられるのでなければ不可能、そう思うようなことばかりでした。ニコデモは、少しずつ、イエス様のお話、イエス様の業にひかれていきました。
 その極め付けが、「人は新しく生まれなければだめなんだ」ということでした。そして、それはほんとうに一切を神様にお委ねすることでした。
 ファリサイ派と対照的な生き方、「風は思いのままにふく。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」、そのような生き方をしていたのが、まさに、イエス様だったのではないでしょうか。
 当時、イエス様の振る舞いは実に、自由でした。律法こそ、価値の中心と考えられた時代に、イエス様のなさった言動は、驚くものでした。まさに、風は思いのままにふく、といった感じだったことでしょう。律法などに縛られてはいませんでした。ニコデモは、ファリサイ派に属していながら、彼らのなかにいることに違和感をおぼえていたようです。人は、己の行為によって、神の国に入ることができる、そのことで、汲々とした生活を送っているけれど、はたしてそれは真実か、それは人を分け隔てすることになり、自分の優位性を誇ることはできても、はたして、それで神の国に入ることができるのか、少なくとも、このイエスという人は、そうは言わないではないか、彼の疑問は頭をもたげておりました。そして、今、この言葉を聞いたのでした。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。
 人は、己を信じて歩みます。その己とは何でしょうか。強い己でしょうか。賢い己でしょうか。努力をよくする己でしょうか。社交的な己でしょうか。己を信じることのできない人は、一歩踏み出すことに躊躇があるでしょう。
 しかし、「心の貧しい人は、幸いである」というのは、己を信じることができないゆえに、神様を頼らざるをえない、だから、こういう人の方こそ、神に近いということになる、ということをイエス様は言われました。まったく違った水路をこの方は見せてくれました。人が新たに生まれるというのは、それまでの自分を捨てることを言っておりました。自分中心の生き方から、神様中心の生き方へと変えられていきます。
 さて、16節以降は、いわゆるキリスト教の福音の中味が、直接的に語られているところです。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。また、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。イエス様は、私たちの救いのためにこの世に遣わされました。神様の私たちに注がれている愛は、イエス様の十字架に極まっていました。そして、その御子を信じる者は裁かれない、と言われました。
 イエス様は、新たに生まれなければ、人は、神の国を見ることはできない、神の国に入ることはできない、と言われました。人が新たに生まれるというのは、とても難しいことです。それまでの自分を捨て去って、神のみを頼りに生きていくということです。それは、難しいのです。お金を頼りにしている青年などは、それから解放されることは難しかったのです。
 イエス様は、自分に従うときに、今ある状況をかなぐり捨ててついてこようとしない者たちに、とても厳しい態度で迫りました。父の葬りに行かせてください、仕事の道具である牛を買ったので、最近結婚をしたので、という理由で少しの猶予が欲しいという者たちにも容赦しませんでした。その点、弟子たちは、イエス様の招きに、すべてを捨てて従っていきました。イエス様を信じ、ついていきました。動植物がそうであるように、光なるイエス様の方へ行きました。それでよかったのです。
 逆に、その人にとって、イエス様よりも、先になったり、イエス様よりも上に位置するような、イエス様よりも価値があるような、そのような存在をイエス様は好まれません。イエス様を信じ、光なるイエス様の方向に歩んでいくことをイエス様は喜ばれます。
 新しく生まれるというのは、神様の支配に身を委ねていくということです。それまでの自分とは違って、まっさらになるというイメージがありますが、しかし、そのようなことができるわけもありません。キリスト者になっても、多くは、それまでの自分を多少なりとも引きづりながら生きていきます。新しく生まれるというのは、霊なる神様に導かれて、その支配を喜んで受け入れていくような生き方です。イエス様に背を向けて歩いていた歩みが、イエス様の方に向かって歩むようになったということでもあります。
 現に、ニコデモは、このあとどうなったかというと、それまでの生き方ががらっと変わったようなことは描かれていません。しかし、イエス様を信じる者にはなりました。イエス様の方に向かって、歩む者にはなったようです。まず、ユダヤ指導者たちがイエス様を捕えようと算段していたときにも、ニコデモは、イエス様から事情を聴いて、何をしたのかを確認してから判決をくだすべきである、と議員の中で一人主張しました。
 また、イエス様が十字架で死んだとき、アリマタヤのヨセフが、イエス様の遺体の引き取に行く、そこに同行して、遺体に香料などを添えた亜麻布で包むということも致しました。ニコデモも、アリマタヤのヨセフと同じく、隠れた弟子となっていたのでしょうた。そのように、イエス様を信じた、イエス様の方に向かった歩みを始めた、それだけで、新たに生まれるということになったのだ、と聖書は述べていると思われます。少なくとも、律法中心の生き方からは、ニコデモは、イエス様を信じることで解放されていったことでしょう。風は思いのままにふく、生き方へと変わっていったことでしょう。
 「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、「人は、だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。神様のお働きに身を委ね、神様の支配を心から受け入れ、そして、イエス様を信じ、イエス様にむかって歩む、何をするにしてもイエス様のために生きる、そのような生き方が、新たに生まれるということにつながります。
 この一年、二つで一つの教会を作るために、いろいろな取り組みをしてまいりました。多くのことにチャレンジしました。この年も神様は私たちの営みを祝福してくださったと信じています。昨日は、堤姉が、JOYSHIPの中でバプテスマを受けました。大名での最初のバプテスマとなりました。森先生は水からあがった堤姉に、一本のろうそくに火をともして、もたせました。今日、キリストの光が堤姉に灯された、そのような意味のことを言われました。素敵でした。聖霊のお導きがあり、堤姉は、これからの人生をすべてイエス様に委ねようと決心されました。イエス様だけを見上げて歩み始められました。また、ひとり、新しく生まれる道を選びとった人が、私たちの群れに与えられました。


平良師

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