平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2013年12月15日 信じて生きる者に 

2014-06-26 21:55:53 | 2013年
ヨハネによる福音書20章19節~29節
信じて生きる者に

 私たちの人生には、不安や苦難は必ずといっていいほどやってきます。できれば、そのような機会は少なく、期間も短いことを祈ります。しかし、神様はそのような機会にこそ、イエス様との真の出会いを用意されています。そういった意味では、不安や苦難のときはキリストへの招きの時であり、人生のかけがえのないときであるかもしれません。弟子たちは、イエス様に出会い、イエスこそキリスト(救い主)として伝えるように、そのイエス様から宣教に派遣されていったとき、たいへんな迫害に遭い、苦難の連続であったと思われます。しかし、神様の力をいただいて、それまでとは比べ物にならないほどに輝いて生きることになったのではないでしょうか。
 トマスは、ディディモ(双子)のトマスと言われていました。双子の兄弟というのが、珍しかったのでそのようなあだ名がついたと考えられますが、一説では、トマスという人物は、信仰深い一面と疑い深い一面の二面性があった、それも極端であったがために、そのようなあだ名がついたと言われています。しかし、二面性というのは、およそ誰もが大なり小なり持っていますので、ここでも、そうした私たち弱い人間の代表として、トマスが取り上げられていると考えていいのではないでしょうか。
 イエス様は、復活なさった夕方、弟子たちに現れました。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。イエス様が捕えられ、十字架にかけられるという事態になってから、弟子たちは、今度は、自分たちが迫害されたり、捕えられるということになりはしないかと不安でした。しかし、復活のイエス様がそのような彼らのところへやってきたのです。不安で不安でたまらない、恐れを抱いている彼らのところへ、イエス様は、扉が閉ざされていたにもかかわらず、しかも施錠されていたその扉をものともせずに、中へ入ってこられました。そして、弟子たちの真ん中に立たれて、「あなたたちに平和があるように」と告げられたのでした。
 私たちの不安な日々の生活の中に、そのただ中に、イエス様は入って来てくださいます。その真ん中にイエス様が立っておられると思うととても力付けられます。また、誰にも触れられたくないとガードを強くしているときにも、イエス様は、その心の扉を開いて、入ってきてくださいます。そして、「あなたに平和(平安)があるように」と告げてくださるのです。
 イエス様は、このとき、弟子たちに、手とわき腹とをお見せになりました。そこで、弟子たちは、イエス様を見て喜んだと書かれてあります。ほんとうにそれがイエス・キリストその人だと理解できたからです。それから、イエス様は、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と、この世においては、理解されないかもしれない、むしろ、迫害されることの方が多いかもしれない、しかし、救いのために己を空しくして父なる神の愛を伝えられたように、あなたたちも出ていって私イエスのことを宣べ伝えるようにとのことだったのでしょう。そのように、派遣の宣言をされるのでした。
 それから、「彼らに息を吹きかけて、聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と、ペンテコステ(これは聖霊降臨日といって、イエス様が天に挙げられたあとに、天から力強い神様の生ける力が注がれて、弟子の一人ひとりが、大胆にキリストのことを述べ伝えていったとされている、いわば教会の誕生日のできごとです)に先立って、聖霊を注がれることをなさり、そして、罪の赦しの権限を付与されるようなことをなさったのでした。
 トマスは、このとき、この場にいなかったのです。この大事な場面に、彼だけは、おりませんでした。何かの用事ででかけていたのでしょう。おそらく、イエス様が去られた直後に彼は、帰ってきたと思われます。そして、他の弟子たちから「わたしたちは主を見た」との報告を受けるのです。付随して、イエス様が、弟子たちに派遣命令をされたこと、聖霊を注がれ、罪の赦しの権限を付与されたことなどを知らせたことでしょう。
 この重大な場に、彼はおりませんでした。どうして、自分だけがいないところに、イエス様は来られたのだろうか、自分だけ取り残されたようで、イエス様への残念な気持もあったでしょう、悔しい思いもあったことでしょう。復活のイエス様が現れた、まさかといった思いの他に、どうして私だけがいないそのようなときに、残念でならない、そのような思いもあって、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったとも考えられます。弟子たちのところへイエス様はやって来られたとき、自ら、その傷跡を示され、あの十字架におかかりになった同一人物であることを証明されたのでした。
 しかし、トマスは、弟子たちがそれで信じたことを否定するかのように、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、自分は決して信じない、と言いました。つまり、他の弟子たちのように見ただけでは信じない、実際に手で触れて確かめてからでないと、信じられないと言ったのでした。
 このような一見慎重なトマスであるように思えますが、同じヨハネによる福音書の11章16節などには、そうした彼とは思えないような姿が描かれています。それは、病で死んだラザロのところへイエス様が行かれるときの話ですが、「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」と言われたときに、トマスは、他の弟子たちに向かって「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったのです。このとき一緒にというのは、イエス様と一緒にという意味です。
 トマスは、イエス様が行かれて、死ぬと考えたようで、何かを勘違いしていたようなのですが、ある意味では、それほどに純粋にイエス様のことを信じていたということです。イエス様と一緒であれば、死も厭わないと言ったのでした。であれば、生前、イエス様は、ご自分のことについて、かなり復活のことなども匂わせておられたように思えますので、トマスはピンと来たかもしれないのです。にもかかわらず、この場合、「主を見た」という他の弟子たちの話をとても信じられない事柄だと考えています。復活ということを理解することは、私たちにとっても、それまで一緒にいた弟子の中の一人トマスですらそうなのですから、非常に難しい事柄なのではないでしょうか。
 そうですが、トマスが、イエス様の復活を信じられなかったのには他にも理由があると思われます。それについて、こういうことは言えないでしょうか。つまり、復活の出来事は、教会という群れの中において初めて知ることのできる事柄であって、そこから離れたところでは、そのことを理解することは難しいのだ、ということです。少なくとも、今日の聖書の箇所からは言えます。
 ただし、パウロのように、そうではない中で、復活のイエス様との出会いをさせられた者もいますので、教会の群れの中にいなければ、決して復活のイエス様との出会いがないということではないでしょう。しかし、そのお方が、イエス様であることを真実に理解するためには、パウロが衝撃的なイエス様との出会いの後、弟子たちの群れの中に導かれ、そこでさらにイエス様への理解が深められていったように、教会の群れを無視することはできないのです。
 復活などといった理性ではとても考えられないことは、教会の群れに加わろうとして初めて、理解できることなのかもしれないのです。そこに復活のキリストがいましたもう、そういうことはこの箇所からは特に言えるように思います。その群れから離れていたトマスには、復活を理解することは、聞いただけでは信じることはできませんでした。
 トマスが他の弟子たちからイエス様を見たという知らせを受けてから8日の後にイエス様は、再び弟子たちのところへ現れました。この間、弟子たちは、こうした信じようとしない疑い深いトマスを仲間として受け入れ続けていたことがわかります。また、トマス自身も、このようなことを信じている人々といつまでも一緒におれるかとそこを飛び出すことをせず、留まり続けていたことがわかります。これは、教会のまさに姿ではないでしょうか。教会には、イエス様を主と告白して、バプテスマを受けられた方もいれば、そうでない方もおられます。
 また、キリスト者になったけれども、イエス様に強く信頼できるときもあれば、そうでなく、イエス様は私のことなどどうでもよいとお考えではないのかと、その信頼を失いかけるときもあります。しかし、どのようなときにも、教会の群れに留まり続けることが大事ですし、そのような不信のなかにある兄弟姉妹たちを見守り続けることもまた、教会の群れには大切なのだと教えられるのです。
 そして、8日のあと、再びイエス様は弟子たちのところへ現れました。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中にたち、あなたがたに平和があるようにと言われた」とあります。トマスの信じないという固く閉ざされた心のうちに、すっと入って来られるイエス様のお姿を表しているでしょう。このときはまさに、イエス様の思いは、トマスに集中していることがわかります。トマス一人のためにイエス様は、弟子たちの群れの只中にこられました。一番、不信仰なる者のところへやって来られたのです。そして、思う存分、確かめてごらん、と言われるのです。ただし、その直後に、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と付け加えられます。
 トマスは、このとき「わたしの主、わたしの神よ」と告白するに至ります。トマスは、信じようとしなかった自分の罪に気づくのです。こうした自分のかたくなな罪が、いかに、イエス様をさらに苦しめていたかを知ることになったのではないでしょうか。思えば、かつて、トマスは、イエス様と一緒に死のうではないか、と他の弟子たちに促したほどの人でした。それが、実際は、死ぬどころか、イエス様が捕えられたとき、そのイエス様を見捨てて逃げてしまった他の弟子たちと何ら変わるところのない者だったのです。おまけに、他の弟子たちは、イエス様を見て信じたのに、トマスは、見ただけでは信じない、傷に触ってみなければ、そこまでしなければ信じないと、言ったのです。
 彼は、かたくなでした。イエス様は、その彼に「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、おそらく優しく静かに言われたのではないでしょうか。そこにおられたのは、確かに、十字架におかかりになったイエス様でした。こうした自分がこのイエス様を十字架につけたのだと、トマスは思わなかったでしょうか。彼は、「わたしの主、わたしの神よ」と告白せざるをえなかったのです。そして、イエス様はトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。
 この箇所からは、イエス様の復活が、イエス様の傷をいちいち調べて、確かに、このお方は、十字架で死んだけれども、復活なさったお方である、というような仕方で、復活理解を行うべきでないことがわかります。それは、イエス様は仮死状態であったが一命をとりとめたのだとか、何か、科学的にも納得のいくような理解の仕方で、復活を理解すべきでないということです。
 また、復活の直後、イエス様の死体を弟子たちが盗んでいったことにするようにと番兵に偽りの証言をするように指示した祭司長や長老たちもいわば、誰が聞いてもなるほど、そのようなことだったのかというような理解の仕方をさせようとした人々でした。そのような理解の仕方では福音を理解したことにならないのです。少なくとも、このヨハネによる福音書のこの箇所で言われていることは、「見ないのに信じる者は幸いである」という以外の事柄ではありません。
 しかし、イエス様はトマスに「わたしを見たから信じたのか」と言われました。つまり、トマスは、見たのです。傷にまでは触らなかったかもしれませんが、少なくとも、イエス様を見た、その傷跡を見たのです。そして、あの十字架におかかりになったイエス様であることがわかったのです。しかし、「わたしの主、わたしの神よ」という告白は、見たというだけではなく、そのイエス様が、自分とどのようなかかわりを持ってくださるお方なのかに気づいたからできた告白なのです。
 彼は、他の弟子たちに向かって、イエス様と一緒に死のうではないか、とまで言った人物でしたが、いざ、イエス様が捕えられると、そのイエス様を見捨てて他の弟子たちと逃げてしまいました。それなのに、イエス様は、見捨てて逃げていった、しかも、今度は自分たちの身が危ないと不安と心配で、隠れている弟子たちのところへやってこられて、それまでのありよう、そのありようを責めるどころか、あなたがたに平和があるようにと祝福を願われ、そのあなたがたを遣わすと派遣の宣言をされ、そのために聖霊を与え、罪の赦しの権限すら与えるということをされるのです。
 トマスもまた、その御傷を見たときに、イエス様を十字架につけたのは、自分の罪によるものだと非常にそれは直接的な感覚を得られたのではないでしょうか。イエス様のことを信じようとしない罪、結局はイエス様を見捨て、今度は自分の身を守るために隠れるという、自分のことしか考えられない自己中心の罪、そのような諸々の罪の思いとイエス様の御傷は結びついたのではないでしょうか。
 復活をされたイエス様は、十字架にかけられたイエス様です。そのイエス様は今もなお痛々しい傷跡をお持ちです。そのイエス様をトマスは見たのです。そして、自分の罪を思い、主告白をするのです。「わたしの主、わたしの神よ」。しかし、イエス様はトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。
 つまり、私たちが、復活のイエス様と出会うというとき、そこには、イエス様の十字架の御傷を同時に見ることがないならば、それは起こらないのです。そして、それは、弟子たちがいただいたように、直接的に出会って見るということを求めるのではなく、私たちは、直接には見ることができないけれども、そうしたイエス様のお姿をイメージして出会っていくということなのだろうと思うのです。「見ないで信じる」というのは、証拠を求めてそれを確かめるということではなく、聖書の物語をイメージ豊かに各々の心に描き、刻むことでもあります。そして、そのことによって得られるのは、イエス様とのかかわりに気づくことなのではないでしょうか。
 イエス・キリストの十字架の上で与えられた傷は、流された血潮は、この私のためであったというそのことへの気づきです。私のためにキリストは十字架におかかりになった、そのことによって、私は神様から赦されるものとなったということです。そして、その主が今共におられ、この私を生かし、導いておられることを信じることです。そして、その復活のイエス様のお姿こそは、十字架におかかりになり深い傷を負われているあのイエス様なのです。
 このトマスの物語の直後に、ヨハネによる福音書には、この書の目的が書かれています。そこには、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とあり、まるで、トマスの物語をもって、ヨハネによる福音書が締めくくられているようにも思えるのです。
 トマスは、イエス様をキリスト、否、神と信じました。そして、命を受けたのです。あなたたちもまた、この復活のイエス様、十字架の御傷を受けておられるイエス様を主、キリストと告白して、信じて、命を受けなさい、と言われているようです。復活をなさったイエス様を信じるとき、イエス様ご自分が受け取られたと同じ新たなる命を私たちもまたいただいて生きることになります。
 どのように固く施錠された私たちの心のうちにも、キリストは、きっと入ってこられます。そして、シャローム、「あなたがたに平和があるように」そうお告げになるのです。それは、誰も知らぬ私の苦しみや悲しみ、つらさを共有しようとされる憐れみ深い主の強いお姿です。確かにそのようなお方でありますが、「見ないで信じる者となりなさい」という私たちの方からの迫りも求めておられます。できることならば、私たちの方からも、心の扉を開いて、イエス様をお迎えしようではありませんか。
 聖書の最後は、ヨハネの黙示録という書で閉じられています。その3章20節には、「見よ、わたし(イエス・キリスト)は戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて、戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、霊が、諸教会に告げることを聞くがよい」。
 ここでは、イエス様自らが私たちの心のうちに入って来られるお姿ではなく、私たちの側の姿勢を問うているのです。イエス様が私たちの心のうちに入って来ようとされるとき、心の扉をノックし、語りかけてくださっているのに、そのお声に耳をふさぎ、頑なにそれを拒もうとする姿勢をイエス様は望まれません。もし、イエス様のお声を聞いて、戸を開けるならば、イエス様は、中に入ってきて、食事を共にされるというのです。食事を共にするというのは、あなたの友人になろうということです。食事というのは、うれしく楽しい、温かな時間です。イエス様が共におられる人生というのは、そのように、うれしく楽しく、温かなものになります。
 そして、その人は勝利を得る者であるといいます。私たちの人生に起こったことが、たとえ、あれもこれもその多くが敗北のように思えた出来事であったとしても、なお、あなたは勝利したと言ってくださるお方のもとへ、私たちは立ち返ろうではありませんか。希望へつながる扉を今日、お開きくださるよう、お勧め致します。イエス様が、勝利を得て、神様の御国にのぼられ、玉座に着かれたように、その人もまた、神の国でイエス様と共に玉座に座ることになる、そのようにしようと、イエス様が言ってくださっています。


平良師

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