平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2013年10月27日 神のなさる業

2014-05-31 22:00:47 | 2013年
コヘレトの言葉3章1~11節
神のなさる業

 箴言に続いて、知恵文学の一つだとされるコヘレトの言葉です。コヘレトとは何者であったのかは、1章の12節からのところに書かれています。ダビデの子であり、イスラエルの王として、エルサレムにいたとあります。13節には「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた」そして、「太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」と言います。彼は、自分自身のことをこのように言っています。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」。
 そして、行きついたところは、「わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」。彼は、知恵者として、悟っています。著者は、知恵を願って神様にそれを与えていただいたソロモンではないかとの見方もありますが、捕囚期以降のヘブライ語や外来語が使われていたり、ギリシア哲学の影響が見られたりするため、実際は、この書が編集されたのもまた、箴言と同じく紀元前300年から250年くらいではないかと言われています。
 その彼は「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と言います。「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊するとき、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」。他にも無数にあることでしょう。
 それらをこのように対立する概念で並べてみるといくらでもできそうです。人生に起こるいろいろな出来事は、神様によって定められたその時なのだ、との理解です。ですから、「人が労苦してみたところで何になろう」というわけです。その時なのだと理解して、その出来事に抗うことをしないで、受け入れ、事の成り行きに任せなさいということなのでしょうか。そうとも理解できます。そして、「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた」。この「務め」を岩波訳では、「苦労させる営み」と訳しています。神様によって人々に与えられ、それによって苦労させられている営みがあります。
 しかし、すべての事柄は、時宜にかなって造られていると言います。人には、それぞれに時というものが、与えられています。それは、神様によって定められたものであって、人間には計算のできない突然にやってくる時だと、考えた方がよいでしょう。しかし、やってきた、その時によっては、とても疲れ果て、たいへん苦労させられたりもするのです。しかしながら、それらの事柄は、時宜にかなっていると言います。ちょうどよいころあいなのです。そのようなことがあるか、当事者はたいへんだ、と腹立たしく思う方も多いと思います。
 「神はすべてを時宜にかなうように造り」は、口語訳では「神のなされることは皆、その時にかなって美しい」となっておりまして、こちらの訳が、それこそ美しい響きがあって好きだったと思っている方もいることでしょう。否、口語訳では、ますます納得できないと考えられるでしょう。もしそうだとするなら、神様のなさることは皆、その時にかなって美しい、という内容の中には、否定的な事柄は含まれるべきではない、と。しかし、否定的な事柄も含めて、神様のなさることなのであり、時にかなって美しいとコヘレトは述べているのです。実に逆説的です。
 このみ言葉は、昔から多くの人々に愛されてきた聖句だと思います。これらの聖句には、喜びごと、楽しくなるような出来事、めでたい出来事など、肯定的な出来事と、つらく、悲しく、苦しくなるような否定的な出来事が、対になって書かれています。それらは、確かに、私たちの人生には、誰の身の上にも、起こりうることです。そして、コヘレトは、いずれも、神様が定められた時なのだと答えています。ですから、私たちは、それらを受け入れることができます。それらはすべて神様が時宜にかなっていると判断されて、私たちに与えられたものなのです。
 ということは、何事もすべてにおいて、意味があるということです。喜びごとも、つらく悲しく苦しい出来事も、すべてにおいて、意味があるということです。何一つ、無意味なものはありません。その出来事を通して、神様は私たちに何かをご計画されているということです。そして、すべてのことは、時宜にかなっているのです。
 そして、時が定められているのであれば、私たちには、焦る必要もありません。何か今はわからないけれども、いずれ、きっとその意味が解き明かされるときがくる、そう信じて生きていけばいいということになります。
 しかし、それでも、すべてのことの意味が、自分が生きている間に、解き明かされるかというと、そうとは限らないことをコヘレトは述べています。「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と書かれています。
 たとえば、これは、「生まれる時、植える時、建てる時、笑う時、踊る時、求める時、語る時、愛する時」ということになると思うのですが、昨年から始まったこの二つで一つの教会の歩みについて、いろいろと取り組んでいますが、その歩みが、あらかた定まり、宣教の業も財政的面もしっかりと土台が築かれる、そのときまで何とか見たいものだと教会の皆が願ってみても、それが許される者もいれば、かなわぬ者もいるのです。そして、この二つで一つという教会形成に、どのような意味があるのか、そのことを理解できるまで、生きておられるかどうかも、わからないのです。
 あるいは、昨年、私は、二人の孫が与えられて、喜びの時でありましたが、この二人の孫たちが、20数年後に、どのような仕事をしているのだろうか、見てみたいと思ったところで、私が、あと20数年生きていることを神様が許してくださるか、どうか、それはわかりません。あるいは、この二人の孫が、どうして、大名が始まった年に生まれ、二人とも同じ年に生まれ、どうして二人とも男の子で、いずれ、何となく互いに周りからは比べられるかもしれないと思ったりもするのですが、そうしますと、その意味はどこにあったのだろう、それを知りたいと思ったところで、そんなことには、何の意味もないと私の家族の者たちはいうでしょう。
 特に子供たちは、私の考えていることはナンセンスだと、二人の孫が、大名が建った同じ年に生まれたなんて、それらにつながりもないし、意味自体あるはずがないと。しかし、私は、この時期ですから思うのです。ひょっとしたら、私に、二つで一つの教会形成というものがいったいどのようなものなのか、知らしめようと神様はなさっているのかもしれない。何らかの意味を重ねておられるのかもしれないと。ほんとうにつまらないことですけれども、考えているのです。つまり、いかなることがあろうとも、二つの場所を同じように愛しなさいということを教えておられるかもしれませんし、いずれ、二つの場所で、どのような歩みがなされていくのか、楽しみにしなさいということを教えておられるかもしれないと勝手に思ったりしているのです。
 確かに、ここは二つの場所を持っているけれども、一つの教会の群れでできており、数年後、これまでにはない豊かさを生み出している教会になっているかもしれません。二つの場所で行われている宣教活動は違うけれども、二つで一つというあり方であったからこそできた、そういう内容に、それもとてもユニークな豊かな内容の教会になっているかもしれないのです。もちろん、そうあって欲しいと願い求めます。私たちの教会に与えられた祝福の年であり、神様のご計画に大いに期待せよ、という年として、神様が与えてくださった時であった、と理解しております。勝手ですみませんが。
 つらいことや悲しいことに遭遇した時、その意味を考えます。そのときには、それらの出来事が、とても時宜にかなっているなどと、誰が思うことができるでしょうか。特に、人の死は、とりわけ若い者の死は、それが時宜にかなっているなどとは、とても言えない、思えないのではないでしょうか。しかし、時宜にかなっている(時にかなって美しい)と宣言してくれることによって、私たちには、いかに悲惨で、厳しい状況の中にあっても希望がもてるのです。なぜなら、神様がなさった業だからです。無意味な出来事ではなかったのだと、信じます。
 11節の真ん中の箇所には、「永遠を思う心を人に与えられた」という文がでてまいりますが、これは、だからこそ、結論を先送りにできる、性急にならずにすむ、絶望に打ちひしがれずにすむ、ということになります。この出来事の結論はまだわかっていない、実は、結末はまだなのである、そのように考えるならば、少しほっとさせられます。希望がわき出てくるのではありませんか。
 さて、コヘレトの手紙の9章の11節12節に、再度、時について触れます。「太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競走に、強い者が戦いに、必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくものでも、聡明だからといって富を得るのでも、知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも望むが、人間がその時を知らないだけだ」。
 人は、誰でも、それが当然のごとくに考えることは禁物です。人が考える予測は、神様のみ心とは違うことがいくらでもあります。それは、喜び、楽しみの時と考えるけれども、実は、悲しみと苦しみの時であるかもしれません。「時と機会はだれにも望むが、人間がその時を知らないだけだ」とは、まさに、そのことを言っているともとれます。実際は、訪れている時が、そうではない時を伝えているのに、受けとる人間が、逆のことを感じとったり、正しい姿をとらえきれないでいるのです。
 その時が今訪れていることを知れ、そうしたことへの時を見極める目を持つことの勧めがなされているとも考えられます。神様のなさる業をしっかりと見極めることの勧めです。神様のそなえてくださった時が、今、訪れていると考えるならば、私たちはそのことにじっくりと取り組むことができるでしょう。しかし、それがわからないなら、私たちは、その苦しい出来事に右往左往させられるのです。
 ところで、神の業という言葉が、新約聖書にも出てまいります。ヨハネによる福音書の6章28節からですが、弟子たちがイエス様に問うのです。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。そこでイエス様が言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。神様のなさる業は、イエス様を神様がお遣わしになられたお方であると信じることだ。神様のなさることは、時宜にかなっている、神様のなさることは、その時にかなって美しい。イエス様は、私たちの罪のためにこの世に神様から派遣されました。そのことを信じる、それが、神の業になると聖書は伝えています。
 神様が与えられる時、神様のなさる業は、イエス様というお方にまとめることができます。すべてにおいて、このイエス様は、神様が私たちの罪の赦しのために派遣されたお方であること、そして、このイエス様は、今もなお私たちと共におられるということ、それらのことを信じることができるのなら、いかなる時も、その時がうれしい、楽しい、喜びのときとして、そなえられたときと信じることはもちろんですが、そうではなく、つらく悲しく、苦しい時として備えられることがあったとしても、私たちは、大丈夫であるということです。私たちに与えられる労苦は、イエス様にお預けすればよい、そういうことであります。
 フィリピの信徒への手紙の4章の4節からの御言葉を思い起こしてみます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。
 私たちのすべての時は、神様の時宜にかなっています。ですから、常に喜べと聖書は勧めております。そして、神様のなさる業の究極は、神様がイエス様を私たちの罪の赦し、救いのためにお遣わしになられたことでした。そして、その業には、そのことを信じる私たちまでもが含まれています。イエス様を信じる私たちこそが、まさに、神の業です。そして、今もなお共におられるイエス様に、私たちの悲しみも苦しみもすべて委ねることに致しましょう。


平良師

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