平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2013年11月10日 神の義

2014-06-20 11:54:00 | 2013年
ヨブ記42章1節~6節
神の義

 ヨブは、義人として神様の称賛を受けていました。ところが、彼は、神様の試みに遭います。サタンが神様に、彼は理由もないのに、神様を敬うでしょうか、神様がすべてを守り、祝福されているので、彼はそのゆえあって、神様を敬っているのです、と言ったのでした。それで、神様は、サタンに彼を試みに遭わせることを許したのでした。その結果、ヨブは、自分の財産であった数々の家畜を奪われたあと、子供まで失うことになりました。
 そのときヨブは、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言って、神様を呪うことなく、罪を犯しませんでした。それから、今度は、重い皮膚病にかかります。妻は、「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言うのですが、ヨブは、「私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って、そのときもまた、神様に対して罪を犯さなかったとあります。
 しかし、さすがのヨブも、次第に弱ってまいりました。生身の人間であれば当然なことでした。彼は、一日のうちにほとんどの財産と愛して止まなかった子どもたちとを失い、そのうえ、今度は、重い皮膚病にかかってしまったのですから。おまけに、身近にいた妻との関係もうまくいかなくなってしまいました。この中のどれ一つが起こっても、私たちは立ち続けてはいけないのではないでしょうか。それが、一時に降りかかってきたのですから、受けたものが、余りにも大きすぎました。
 彼は、そのうち、自分など生まれてこなかった方がよかったと、言うようになります。「わたしの生まれた日は消え失せよ。男の子をみごもったことを告げた夜も」。それは、間接的に神様を呪い、神様に否を言うことと同じでした。なぜなら、神様は、愛をもって私たちを創造なさっておられるからです。その自分の命を呪うことは、その命を賜った神様を呪うのも同じです。ヨブは、「日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。恐れていたことが襲いかかった。静けさも、やすらぎも失い、憩うこともできず、わたしはわななく」。ヨブの苦しみは、次第次第に深くなっていったのでした。すべてを失ってしまったむなしさい、重い病に苦しめられているわが身、どうしてなのですかという神様への問い、もろもろのつらい思いに打ちのめされていました。
 そのとき、ヨブの境遇に同情し、慰めようとしてやってきた3人の友人たちがおりました。彼らは、7日7晩(7という完全数を使い、十分にヨブに共感したようすを表している)、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった、とあります。それほどに、ヨブの苦しんでいるようすは、肉体的にも、精神的にも、すさまじいものでした。
 しかし、そのようななかで、彼らは言うのでした。「あなたは多くの人を諭し、力を失った手を強めてきた。あなたの言葉は倒れる人を起こし、くずれる膝に力を与えたものだった。だが、そのあなたの上に何事かふりかかると、あなたは弱ってしまう。それがあなたの身に及ぶと、おびえる。神を畏れる生き方が、あなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことがあなたの希望ではなかったのか。考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が断たれたことがあるかどうか」。
 彼らは、ヨブは、人を励まし、支えていたのに、自分の上に災いがふりかかると弱ってしまって、ふがいないではないか、と叱咤激励をしました。そして、彼らは、ヨブに何かの落ち度があったからこそ、このような境遇に遭ったのだと言いました。それ以降、ヨブと3人の友人たちの会話は、自分は潔白だとするヨブとヨブが何か神様に対して罪を犯したからだとする3人の水掛け論になります。はじめは、ヨブに同情していた友人たちも、ヨブのあまりにも自分は潔白だと主張する姿に、反発を感じたり、疑念を抱くようになります。そして、「あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか」と言う始末です。そして、「神様と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。・・もし、全能者のもとに立ち帰り、あなたの天幕から不正を遠ざけるなら、あなたは元どおりにしていただける」。
 つまり、友人たちの主張は、ヨブが、神様に対して罪を犯したから、このような境遇になっているのであって、それを認め悔い改めるならば、神様は、元のようにヨブにしてくださる、というのでした。一方、ヨブは、「死に至るまで、わたしは潔白を主張する。わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じることがない」とますます頑なになっていきました。そして、友人たちが責め立てるようなことは、何一つしていないし、罪を犯してはいないと言い張るのでした。
 信仰とは何なのでしょうか。神様を敬い、罪を犯さないようにして生きていたヨブでした。自分だけでなく、子どもたちがそうであることを願い、神様に対して罪を犯さないように心を配っておりましたが、それでも、もし、少しでも罪を犯したのなら、それはたいへんなことだと、定期的にこどもたちの罪の赦しを願って、こどもたちのために、その人数分の動物のいけにえを捧げて、罪を赦していただくほどでした。
 そのようなヨブを神様は祝福し、彼の財産を守り、おかげで東の国の一番の富豪となりました。サタンは、神様に「ヨブが利益もないのに、神を敬うでしょうか」と言いました。ご利益があるから、人は、神様を敬う、礼拝をするのです、ということでした。これは、人間の一般的な信仰心を言い当てているのではないでしょうか。しかし、ヨブは、自分の身に災いがふりかかったときに、神様を呪うことなく、「主が与え、主が奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言いましたし、「私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って、罪を犯すことをしませんでした。ここまでは、見事でした。
 ヨブは、サタンに勝利したかのように見えました。すべてのことを神様からのこことして、受け取り、神様に人生を委ねて生きていく姿があります。すべてのことを神様に信頼している姿がそこにはありました。それが、真の神様を信仰する者の姿だと思わされます。
 そして、この3人の友人たちは、人にもたらされる災いや不幸が、人間の罪のゆえだと捉えています。彼らの考えもまた、非常に一般的なものでしかありません。聖書は、そうではないと言っています。先週の説教でも引用しましたように、ヘブライ人への手紙12章5節からのところに「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」と言い、鍛錬、試練を忍耐しなさいと勧めております。神様は、あなたをご自身の子として扱われるがゆえに、愛するがゆえに、鍛錬にも試練にも遭わせられるというのです。苦難や試練に対しては、こうした理解の仕方があります。
 3人は、ヨブに語ることをやめます。その理由を聖書はこのように述べています。「ヨブが自分は正しいと確信していたからである」と。ヨブは、この3人の友人たちに対して、最後まで自分の潔白を主張し続けました。3人はもうヨブは自分たちの言葉を聞くことをしないと判断したのでしょう。
 そこで、エリフという人物が登場します。彼は、神と争おうするヨブの姿勢が誤っていると解きます。エリフは言います。『「わたし(ヨブ)は潔白で、罪を犯していない。わたしは清く、とがめられる理由はない。それでも神はわたしに対する不満を見出し、わたしを敵視される。わたしに足枷をはめ、行く道を見張っておられる。」ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます。なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない』。
 そして、エリフは「神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない」と述べるのです。エリフは、神様が私たちになさることには理由があるけれども、それを神様はわたしたちにいちいち説明されない、と言います。それから、全能者であられる神様には、間違いなど決してないのだ、ということでした。この神様は正しく、間違いはないということは、確かに、私たち信仰者の前提になっていることだと言えます。
 そして、最後に、嵐の中から神様はヨブに応答なさいました。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというのなら、理解していることを言ってみよ」という言葉で、神様の創造の業について、知っていることがあれば応えよ、と問い続けられます。
 そして、42章の2節からのヨブの応答になります。「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。これは何者か。知識もないのに、神の経綸(国家を治め整えること)を隠そうとするとは。そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。聞け、わたしが話す、お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」とヨブは、応えました。
 ヨブは、神様の創造の御業、神様のご計画など、壮大でわからないことばかりであることに気づきました。しかし、実際は、神様が応答なさってくださった、それだけで、ヨブは、十分だったのではないでしょうか。何の応答もない、そのことこそが、私たちにはもっともつらいことだと言えるでしょう。ヨブは、友人たちに、もうあなたたちとは話をしたくない、ただ、神様とだけ、話をしたいのだ、と言っていたように思います。
 私たちには祈りがあります。苦しいときに、祈ることが許されています。一方的な祈りで終わっているように思うことも多いのですが、しかし、私たちは神様と一対一で話をし、そして、神様からの応答をいただくことができる、そういうときも多いはずです。そのとき、私たちは、大きな力をうることができます。それは、信仰の確信ともなります。
 私も最近、疲れていて弱音を吐きました。神様に祈りました。道を示してくださるように、祈りました。神様は、御言葉を示してくださって、すぐに応答してくださいました。そのことによって、私は再び力を得ることができました。神様の強力な後押しをいただいたように思えて、力が湧いてきたのであります。
 ヨブ記の最後は、ヨブが悔い改めたことにより、これまで以上の祝福に与るのでした。財産は二倍になったとあります。そして、ヨブを責めた3人の友人たちは、神様から、神様のことについて、ヨブのように正しく語らなかったと非難されます。つまり、3人の神理解は、間違っていたということです。少なくとも、神様は、神様に対して罪を犯しているから、災いや苦難の類を与えるのではない、ということでした。
 この世における苦難の数々は、罪の結果ではないということです。それでは、この世の苦難をどう理解したらよいのか。一つには、神様が私たちを愛しているから与えられる苦難や試練である、ということです。それから、神様は一つ一つ私たちにこれは何ゆえに起こったことである、といった理由を説明されることはない、ということです。しかし、それじゃ意味もなく、人の人生に起こる苦難の数々はあるのか、というとそれも違います。神様は、あるご計画をもって事を起こしておられるということです。
 エリフという第4番目の人物は、神様は正しく、間違いをされない、と言いました。人間は、もちろん皆この前提に立っております。ですから、神様のなされることを受け入れ、忍耐します。神様は、義なるお方です。
 しかし、人間の義というものは、自分たちのなかにはありません。聖書は、人間はすべて神様に背いて生きており罪を犯している、と言います。ヨブ記は、神様の義もさることながら、人間の義の問題もテーマになっていると思います。あの神様から推奨され義なる者とほめたたえられたヨブでが、最後には、自分の命を呪うという形で、神様を間接的にですが、呪い罪を犯してしまいます。
 人間は、どのようにして神様の前に義とされるのか、ということですが、それは、本日の招詞にありましたように、ローマの信徒への手紙5章の8節からのところですが、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのめに死んでくださってことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」とあります。
 私たち人間が神様の前に義とされるのは、イエス様が、私たちのために死んでくださったことによるのだということ、そして、そのことを受け入れることによってです。それ以外にはありません。私たちの行為でもって、自分を義なる者としての扱いをしていただこうとしても、ヨブほどの信仰があって、日々罪を犯さないようにしていたとしても、それでもなお、人間は弱く、神様の前に罪を犯してしまうものであることをヨブ記は教えています。人間の義は、イエス様をとおして現れた神様の義を私たちが受け入れることです。それ以外にありません。


平良師

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