犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「がんばろう日本」と「頑張れニッポン」

2012-08-06 00:04:46 | 言語・論理・構造

 「がんばろう日本」は言うまでもなく大震災の後に流布された言い回しであり、「頑張れニッポン」は言うまでもなくオリンピックの際に流布されている言い回しです。「頑張ろう」と「頑張れ」は似て非なるものですが、それぞれの言葉を洪水のように浴びせられて、私自身の感覚としては、それぞれの言葉の使い分けの場面の約束事が身に付けてしまっているような感じです。

 日本に限らず、国家というものは人間の観念による抽象名詞であり、目で見たり手で触ったりできる人間は皆無のはずです。逆に言えば、「がんばろう日本」「頑張れニッポン」と連呼する場所に、初めて日本という国が実体として発生するように思います。また、震災後の「頑張ろう」も五輪の「頑張れ」も、国威の発揚とは無縁であり、特定の敵国が存在するわけでもなく、とかく右と左の対立になりがちなナショナリズムの観念とも結びついていないように思います。

 私は「頑張れニッポン」と声援を送るとき、日本という国家を客体化しています。これは非常に気楽な状況だと思います。自分が帰属するところの集団において、肉体的・精神的な超人である選手に自分の存在意義を託しているのであり、日本が勝てば自分まで偉くなったような気がするからです。但し、存在意義の仮託が行き過ぎると、日本が負けることによって憤慨し、個人的に何の関係もない選手に怒りを覚えるという無意味な事態が生じるように思います。

 他方、私は今でも「がんばろう日本」という言葉が上手く受け止められません。「頑張れ」という命令形ではない自発的な連帯の形において、人々が国家の一員であることはわかるのですが、その言葉の意味とは逆に、日本という国家が他人事になっているとの印象を受けるからです。「頑張れニッポン」は紛れもない本音であり、気楽な状況で自発的に使われるのに対し、「がんばろう日本」のほうは心底からの欲求ではなく、かなり無理をしているような感じもします。また、その内容も空虚であるとの印象を持ちます。

 「がんばろう日本」という言い回しは、「被災地に向かって頑張れと命令しないでほしい」との過去の教訓を受けて、自然に定まってきたものと思います。それだけにこの言葉は、日本という国家を客体化しながら、日本という国家の一員である主体性を語っている不自然さを帯びているように思います。日本という国家は抽象的にすぎ、遠くにありすぎ、1人の人間の手の届く範囲にはありません。「頑張れニッポン」の正直さの前に、無理を重ねた「がんばろう日本」は後退を免れないと思います。

国民の声を聞け

2012-08-04 00:07:32 | 国家・政治・刑罰

 ここのところ、私の周囲では「政府は原発再稼動に反対する国民の声を聞け」「子どもたちの未来と命を守ろう」といった言葉が多く聞かれます。まさに国民全体が真剣に活動しているのに対し、政府がその声を聞いていないという感じです。そして、私の心が引っかかっているのは、原発の是非の問題とは別に、「子どもたちの未来と命」という使い勝手のよい定型句が連呼されている点です。

 私の引っかかりは、原発事故は現に東日本大震災によって引き起こされたものであり、現に被災地では石巻市立大川小学校を始めとして、多くの子どもたちの未来と命が失われたという事実に端を発しています。「死んだ人間は終わりであり、生きている人間が優先である」という社会のルールは、本来であれば人間の倫理観との激しい衝突を生じるはずでが、ここで「未来」「命」が連呼されれば、心が引き裂かれるような、身も蓋もない暴力性が生じるものと思います。

 この社会においては、震災によって我が子を失った親を始めとして、「子どもたちの未来と命」という言葉を聞くだけで絶望し、耳を塞がなければ生きていけない方々が無数に存在するものと思います。そして、「このような言葉を大声で叫ばないでほしい」という声も、紛れもない悲痛な国民の声であり、民意の一部です。しかしながら、人が本当に語りたいことは言葉にできず、声になりません。震災から1年を経過した日本の現状は、この力関係を示しているものと思います。

 誤解を恐れずに言えば、「被災地の心の復興」「震災体験の傾聴」といった繊細な部分を容赦なく踏み潰しているのは、子どもたちの未来と命を守る正義の声高な連呼である感じます。繊細な言葉は形になるまでに時間がかかり、他者に理解されず、伝わらず、その結果として沈黙を強いられます。他方で、国民全体の民意を代弁して主張し、政府に国民の声を訴える思考においては、沈黙されていることは存在しないに等しいのだと思います。

人々の怒りが社会を変える

2012-08-03 00:02:35 | 国家・政治・刑罰

 ここのところ、私の周囲では「怒り爆発の脱原発デモ」「原発再稼動に満身の怒り」といった言葉が多く聞かれます。まさに国民全体の怒りが充満しており、怒っていること自体が怒りとともに表明されているような感じです。そして、私の心が引っかかっているのは、原発の是非の問題とは別に、「怒り」という概念が絶対的正義と直結して用いられている点です。

 私の引っかかりは、原発に怒りを表明している法律家が、例えば危険運転致死傷罪の範囲の拡大などの厳罰化に反対する場面では、「怒りや憎しみからは何も生まれない」と述べている事実に端を発しています。厳罰化反対論では、犯罪被害者が負の感情を乗り越えて前向きに生きることや、怒りではない赦しの心を持つ必要性が説かれるのが通例です。

 主義主張や関心が異なっていれば、怒りのポイントも当然異なるのであり、怒りの使い分けについて揚げ足を取るのは無意味なことと思います。しかしながら、この種の理論は、その場面を超えて「怒りは(いかなる状況においても)社会を変える」「怒りからは(いかなる状況においても)何も生まれない」といった正当化を志向するため、この使い分け自体が認識されず、いずれも絶対的正義に至らざるを得ないものと思います。

 その結果、犯罪被害者はどんなに国家や社会の法制度の不当性についての考察を述べたとしても、それは加害者に対する個人的な怒りや恨み、あるいは復讐や報復の感情であると解釈され、「憎しみからの解放」という論点に変えられます。法律家における「社会を変える正しい怒り」と「乗り越えられるべき個人的な怒り」との使い分けは、このような構造になっているのだと思います。

池田晶子著 『私とは何か』より

2012-08-01 00:12:28 | 読書感想文

p.128~ 「住民投票に思うこと」より

 住民投票という「直接民主制」が、その名の立派な響きにもかかわらず、なんとも空疎な印象が否めないのはなぜでしょうか。それは、それらが結局はたんなる感情論、感情的議論の域を少しも出ていないからだと思われます。危ないもの、汚いもの、迷惑なものを引き受けるのは「いやだ」、まさにこの「いやだ」という感情のみが表面に出ているだけで、「なぜ」いやなのか、いやだと感じるのはなぜなのかという反省的な問いかけが、各人においてなされているとは思えない。

 我々は、各人の感情について議論することはできません。「いやなものはいや」、これでおしまいだからです。しかし、議論が議論として正当性を持つためには、各人の感情にではなく、各人の公共性の自覚に、それは基づいていなければなりません。「公共性」とは何でしょうか。逆説的に聞こえるかもしれませんが、私はそれを、各人の「実感」のことだと思います。感情ではなく実感、各人の実感の欠如していることが、あのような投票や議論の空疎である理由と思う。

 概念についての議論は、必ず空疎です。住民投票の人々は、「自分たちの問題」と言いながら、じつは「自分たちの問題」とは思っていない。他人事だと思っているから、「押しつけられた」という気持ちにもなるのでしょう。しかし、原発は自分たちの食料、産廃は自分たちの排泄物と、こう実感されていたらどうでしょう。他人事として議論するから、議論は必ず感情論になる。人は、このことをもっと自覚すべきです。

 私は、基地も原発も産廃も、住民投票によって各市町村にひとつずつあってもかまわないと思います。ただしこれは、その存在の「善悪」ということではなく、あくまでも公共性を各人が自覚するために、という話の筋です。もしも国が、原発をどこかにつくろうと決めるなら、永田町につくるべきです。また、名護市の基地の存否について、新宿区民も投票を行なうべきです。公共性を自覚するということは、まさしくそういうことだと思います。


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 著者は故人であり、原発やがれきの受け入れに関する現在の議論を知るはずもないですが、現在の問題についてそのまま論じていると捉えて全く違和感はないと思います。論理的であることは生理的な好悪を正当化することであったり、当事者であるか他人事であるかは地理的な遠近の問題のみだと考えられていたり、この種の議論の形は同じ方向に流れがちだと思います。

 「原発を作るなら永田町に作るべきだ」という主張は、作ってしまえば原発がゼロにならない以上、脱原発の論理とは矛盾します。この命題が単なる挑発や言いがかりでなく、右でも左でもない正当な論理として成立するためには、自分は誰でもあり得たという他者の人生との互換性の実感が必要になるものと思います。この種の民主主義は、各人の公共性の自覚によるしかなく、他人に向かって主張するのは空虚なことだと感じます。