犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

シリア 日本人 ジャーナリスト殺害事件

2012-08-28 23:45:46 | 時間・生死・人生

8月22日 日本テレビニュースより
「シリア:日本人記者死亡 ジャーナリスト・山本美香さん」

 シリアで取材中に死亡した山本美香さん(45)の遺族が、遺体の安置されているトルコへ向け、22日正午の便で出発した。出発を前に、山本さんの姉・品川留美さんは、声を詰まらせながら山本さんへの思いを語った。

 「しっかり現実を受け止めて、しっかり妹を引き取って、早く両親の元に帰して、ゆっくり眠らせてあげたいです。本人も言っていましたけれど、『誰かが実際の目で見て、誰かが伝えていかないと、本当の現実が知らせられない』。それは私たちもそう思っていますので、妹ながら、ジャーナリスト魂に長けた、素晴らしい人間だったと思っています。『よく頑張ったね。もうそんなに気を張らなくていいから、一緒に帰ろう』と言ってあげたいです」。


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 この事件については、他のニュースとの比較でみても、かなり詳細に報じられていると思います。そして、私はこの自己言及的な「報道現場での殉職に関する報道」につき、上手く言えませんが、何とも言えない違和感を覚え続けています。戦場カメラマンによる取材は、現場のその瞬間だけの声なき声を唯一掬い上げるものであり、人類社会に必要不可欠な究極の尊敬に値する職業だと思います。それだけに、世界中から寄せられた哀悼の声は、あまりに解りやすいストーリーであると感じます。

 シリアでは内戦が泥沼化しており、25日にはシリア全土で370人が死亡し、26日の死者数は少なくとも180人と報じられています。シリアの100人の死は統計であり、日本で生きている私には何の実感も湧きません。そして、私の感じている違和感は、この統計である死の中に、悲劇である死が1人だけ持ち込まれた点にあるのかも知れないと思います。1つしかない命の重さや儚さを語るのであれば、100人以上のシリア国民の死を統計と捉えるのは欺瞞であり、ここには人の死を美化する余地が残されているからです。

 私がこれまで仕事で接してきた多くの死は、日本国内で普通に歩道を歩いていて、あるいは横断歩道で信号待ちしていたというだけで、暴走車に轢かれて亡くなったというものでした。戦地で自らの命を危険にさらした山本さんの功績や偉業という価値観を出されてしまうと、私が接してきた死はあまりに惨めであり、無意味であると位置づけられているようで、亡くなった人も残された人も救われないと感じます。この直観が、「ジャーナリスト魂」「名誉の死」といった単語に対する私の何とも言えない違和感に結びついています。

 命の重さと軽さ、あるいは死の重さと軽さは、残された者の切羽詰まった自責の念において表われるものと思います。「何があっても生きていて欲しかった」「あと一度でいいから会いたい」という願いは、人類が持ち得る極限の願いだと思います。そして、その願いを持つ者であれば、敢えて戦場に乗り込んだ者の死に直面して、「仕事などいいから何が何でも危険な場所から連れ戻しておけばよかった」と自らを責めるのではないかと思います。私が「ジャーナリスト魂」との解釈や意味づけが可能な死に嫉妬のようなものを感じるのは、このような理由からです。