犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ヘルマン・ヘッセ著 『デミアン』

2012-08-13 23:45:14 | 読書感想文

p.162~
 私はそのころ18歳くらいの並はずれた青年で、いろいろな点で早熟であったが、また別ないろいろな点ではきわめて遅れており、たよりなかった。ときどき自分をほかのものに比較すると、私はよく得意になり思いあがったが、卑屈にもしょげてしまうことも同様に珍しくなかった。私は自分をしばしば天才だと見なしたが、同時にしばしば半分きちがいだと見なすことがあった。私には同年輩の友だちの喜びや生活を共にすることができなかった。

p.169~
 われわれの見る事物は、われわれの内部にあるものと同一物だ。われわれが内部に持っているもの以外に現実はない。大多数の人々は、外部の物象を現実的と考え、内部の自己独得の世界をぜんぜん発言させないから、きわめて非現実的に生きている。それでも幸福ではありうる。しかし一度そうでない世界を知ったら、大多数の人々の道を進む気にはもうなれない。

p.215~
 しるしを持っている私たちが世間から奇妙だ、狂っている、危険だ、と思われたのも、もっともかもしれない。ほかの人々の努力や幸福探求が、その意見や理想や義務や生活や幸福を衆愚のそれにますます密接に結びつけることを目ざしていたのに反し、私たちの努力はいっそう完全な覚醒を目ざしていた。われわれ、しるしのあるものが、新しいもの、孤立したもの、来たるべきものへの自然の意志を表わしていたのに反し、ほかのものたちは固執の意志の中に生きていた。


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 法学の理論においては、すべての法は憲法を頂点とした価値序列の中にあり、憲法の中にも価値序列があります。日本国憲法における頂点は、個人の尊厳と幸福追求権を定める13条であり、ここから演繹的に展開される論理は強固な体系を形成しています。そこでは、宗教については信教の自由に、哲学については学問の自由に回収されることになります。

 「世間の人々の幸福追求は、その意見や理想や義務や生活や幸福を衆愚のそれに結びつけることを目指す」といった分析は、憲法の体系からは厳しく拒絶されることと思います。「衆愚」などという物言いは個人の尊厳について正しく理解していない証拠だと批判されたうえ、その作品に対しては表現の自由・思想の自由の保障が与えられるのみだと思います。

 人の世の罪を裁いて罰を与える際に、憲法の体系の下にある刑法・刑事訴訟法による処理がなし得ることは、物事のある一面の部分のみであると思います。この一面とは、「外部の物象を現実的と考えることの非現実性」に依拠した部分です。ここでは、証拠から殺意を認定しようとして行き詰まったり、精神鑑定をしているうちに誰が何を探しているのか解らなくなる事態が避けられないものと思います。