p.48~
物心つく頃には、すでに奈津子の希望と欲望は薄れていた。普通の女の子みたいに、アイドルになりたいとも思わなかった。母親みたいにスチュワーデスになりたいとも思わなかった。母親がそれを言っても、奈津子は自分に華々しい将来があるなどと、とても考えられなかった。
奈津子はすっかりあきらめていた。なにもかもあきらめていた。そして自分の身に起こる、理不尽や不公平、不幸について、何故そんな目に自分が遭わなければならないのか、よく考えることもしなかった。なるべく見ないようにして生きた。それは直視しがたいことであり、もし見てしまったら、血すらも流れない、不健全な、致死の傷を負うことになると知っていたからだ。
p.52~
彼は知らない。彼が漠然と考えている、すごい人間、すごい世界は、架空のものであるということを。確かに人生には、波があるのかもしれない。不幸があれば、幸せがあると思うのは健全な発想なのかもしれない。しかし、その波は、彼の満足いく形では訪れないだろう。その満ち潮が寄せた時の幸せというのは、彼の考える、すごい世界とやらの到来ではないのだ。彼にとっては、存在しないものに憧れる自分は正しくて、それになれないことが不正なのだ。
p.64~
おそらくこれも美しいものなのだろうと、奈津子はその絵を見つめた。自分にとってはさほど美しい絵でもないが、きっと他の人にはそうなのだ。そう考えて、自分が感じていることは違うのだと言う当たり前のことに、いまさらながら思い至る。自分ではない、他の人が美しいというものを見て、癒されようとしていた自分は不自然だ。
だけど周りの人がこれを美しいというのなら、それでも構わないと奈津子は思う。自分にとっていいものを今は追及する時ではない。美しいこと、正しいこと、そう言うことから少し離れて、休息してみたかった。今までは、そんな不自然な自分に、違和感を覚えながらも立ち止まることはなかった。とは言え、いつだって矛盾や理不尽について、語れる時を待ってもいたのだった。
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芥川賞が昔に比べてどうだとか、レベルがどうだとか、その辺の話はよくわかりません。 ただ、法律事務所で弁護士を相手に懸命に話して文章にしてもらっても全く救われない人が、小説家に話してその内容を文章にしてもらえれば、ある程度までは救われるだろうという気がします。また、小説家であれば、法律事務所での会話に30分でも同席すれば、あっという間に短編小説ができ上がってしまうだろうと思います。