犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『私とは何か』より

2012-08-01 00:12:28 | 読書感想文

p.128~ 「住民投票に思うこと」より

 住民投票という「直接民主制」が、その名の立派な響きにもかかわらず、なんとも空疎な印象が否めないのはなぜでしょうか。それは、それらが結局はたんなる感情論、感情的議論の域を少しも出ていないからだと思われます。危ないもの、汚いもの、迷惑なものを引き受けるのは「いやだ」、まさにこの「いやだ」という感情のみが表面に出ているだけで、「なぜ」いやなのか、いやだと感じるのはなぜなのかという反省的な問いかけが、各人においてなされているとは思えない。

 我々は、各人の感情について議論することはできません。「いやなものはいや」、これでおしまいだからです。しかし、議論が議論として正当性を持つためには、各人の感情にではなく、各人の公共性の自覚に、それは基づいていなければなりません。「公共性」とは何でしょうか。逆説的に聞こえるかもしれませんが、私はそれを、各人の「実感」のことだと思います。感情ではなく実感、各人の実感の欠如していることが、あのような投票や議論の空疎である理由と思う。

 概念についての議論は、必ず空疎です。住民投票の人々は、「自分たちの問題」と言いながら、じつは「自分たちの問題」とは思っていない。他人事だと思っているから、「押しつけられた」という気持ちにもなるのでしょう。しかし、原発は自分たちの食料、産廃は自分たちの排泄物と、こう実感されていたらどうでしょう。他人事として議論するから、議論は必ず感情論になる。人は、このことをもっと自覚すべきです。

 私は、基地も原発も産廃も、住民投票によって各市町村にひとつずつあってもかまわないと思います。ただしこれは、その存在の「善悪」ということではなく、あくまでも公共性を各人が自覚するために、という話の筋です。もしも国が、原発をどこかにつくろうと決めるなら、永田町につくるべきです。また、名護市の基地の存否について、新宿区民も投票を行なうべきです。公共性を自覚するということは、まさしくそういうことだと思います。


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 著者は故人であり、原発やがれきの受け入れに関する現在の議論を知るはずもないですが、現在の問題についてそのまま論じていると捉えて全く違和感はないと思います。論理的であることは生理的な好悪を正当化することであったり、当事者であるか他人事であるかは地理的な遠近の問題のみだと考えられていたり、この種の議論の形は同じ方向に流れがちだと思います。

 「原発を作るなら永田町に作るべきだ」という主張は、作ってしまえば原発がゼロにならない以上、脱原発の論理とは矛盾します。この命題が単なる挑発や言いがかりでなく、右でも左でもない正当な論理として成立するためには、自分は誰でもあり得たという他者の人生との互換性の実感が必要になるものと思います。この種の民主主義は、各人の公共性の自覚によるしかなく、他人に向かって主張するのは空虚なことだと感じます。