犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

人々の怒りが社会を変える

2012-08-03 00:02:35 | 国家・政治・刑罰

 ここのところ、私の周囲では「怒り爆発の脱原発デモ」「原発再稼動に満身の怒り」といった言葉が多く聞かれます。まさに国民全体の怒りが充満しており、怒っていること自体が怒りとともに表明されているような感じです。そして、私の心が引っかかっているのは、原発の是非の問題とは別に、「怒り」という概念が絶対的正義と直結して用いられている点です。

 私の引っかかりは、原発に怒りを表明している法律家が、例えば危険運転致死傷罪の範囲の拡大などの厳罰化に反対する場面では、「怒りや憎しみからは何も生まれない」と述べている事実に端を発しています。厳罰化反対論では、犯罪被害者が負の感情を乗り越えて前向きに生きることや、怒りではない赦しの心を持つ必要性が説かれるのが通例です。

 主義主張や関心が異なっていれば、怒りのポイントも当然異なるのであり、怒りの使い分けについて揚げ足を取るのは無意味なことと思います。しかしながら、この種の理論は、その場面を超えて「怒りは(いかなる状況においても)社会を変える」「怒りからは(いかなる状況においても)何も生まれない」といった正当化を志向するため、この使い分け自体が認識されず、いずれも絶対的正義に至らざるを得ないものと思います。

 その結果、犯罪被害者はどんなに国家や社会の法制度の不当性についての考察を述べたとしても、それは加害者に対する個人的な怒りや恨み、あるいは復讐や報復の感情であると解釈され、「憎しみからの解放」という論点に変えられます。法律家における「社会を変える正しい怒り」と「乗り越えられるべき個人的な怒り」との使い分けは、このような構造になっているのだと思います。