犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

姜尚中著 『続・悩む力』より その1

2012-08-19 23:46:04 | 読書感想文

p.148~

 海外、とくにキリスト教圏では、大きな災害などが起こったとき、各宗派が競ってそれについてのメッセージを出します。この災害は信仰の面から見て人間にとってこんな意味がある、といった意味づけを盛んに行うのです。

 ところが、東日本大震災についていうと、日本の宗教界では、その類の発言はほとんど行われませんでした。もちろん、キリスト教系や仏教系、神道やその他、さまざまな宗派、信仰者の集団が、復興に向けたボランティア活動などに目覚ましい働きをしました。しかし、大災害と多大な人命の喪失をどう宗教的に意味づけるのかという議論が、意図的に回避されたように思えます。

 一般的に、日本は無宗教な国民だといわれます。戦前・戦中に政治的イデオロギーを一種の宗教のように信仰した結果、手痛い敗北を喫したトラウマはとても大きいものでした。そのため、政治と宗教に対しては色をもたぬのがよいという教訓になり、ひいては何ごとに対しても無色透明であることが習い性のようになってしまったと思われます。

 だが、当然ながら、無色透明でないほうがよいときがあります。そのあたりの問題が、今回、「3・11」で露呈したのではないでしょうか。大震災や原発事故によってもたらされた夥しい数の人びとの死や自然の荒廃について、宗教的な立場からの何らかの意味づけがもっと語られるべきだったのではないでしょうか。


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 「神も仏も存在しない」「もし神や仏が存在するのであればこんな出来事は起きない」という現場を前にして退散する宗教は、偽物だと思います。また、「これは神があなたに与えた試練である」と地獄の真ん中で叫んで袋叩きに遭わない宗教は、やはり偽物だと思います。人は絶句や沈黙によってしか真実を語れないのであれば、平時は能弁であったものが危機的な状況に陥ると口を噤むというのは、話が全く逆だと感じます。

 無宗教の国の宗教にできるはずだったことは、「希望」「未来」「立ち直り」「乗り越え」という言葉が一神教のような力を持ち始めたとき、「絶望」「過去」「立ち直れるはずがない」「乗り越えられるはずがない」という言葉を語ることであったと思います。日本の無宗教性は、多くの場合、無神論の裏返しとしての科学信仰、イデオロギー信仰、あるいは似非宗教の信仰による安住という形に収まっており、無宗教による虚無の狂気を生きている者は圧倒的少数であると感じます。