犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

虚礼

2011-03-24 00:09:29 | 言語・論理・構造
 震災が起きてから、「拝啓」に続く季節の挨拶が書きにくくなりました。ビジネス文書のマニュアル本を見ると、3月の欄には、「春光天地に満ちて快い時候」「木々の緑日毎に色めく季節」「天も地も躍動の春」「ものみな栄えゆく春」といった例文が目白押しです。さらには、「日の光には春らしさが感じられ心まで浮き立つ思いが致します」「高校野球の球音が聞こえるようになると春たけなわの感が致します」といった凝りすぎのものも並んでいます。

 震災後は、「ますますご清栄のこととお慶び申し上げます」といった素っ気ないもので済ませるようになりました。私の心の奥底には、人間としてそのような気持ちになれるはずがない、という倫理観があります。しかしながら、現実にそのような行動を取っている動機は、非常識な人間だと思われたくないという保身です。今は世間的に何を言うとヒンシュクを買うのか、場の空気を読んでいるわけです。

 それでは、「拝啓」に続いて「被災地の皆様に心よりお見舞いを申し上げます」「1日も早い復興をお祈りいたします」といった挨拶が書けるかというと、これも書くことができません。いわゆる「相手方に失礼な表現」にあたるからです。私自身、このように書かれた文書を受け取りましたが、一瞬、何とも言えない違和感を覚えました。私に向かって祈られても困りますし、お見舞いを言われても困るからです。

 ビジネス文書において、「心よりお見舞い申し上げます」「復興をお祈りいたします」といった表現が適当なのは、不特定多数への通信の場合です。この媒体としては、ダイレクトメール、FAX、電子メール、電子掲示板などがあり、震災以降はどれも判で押したようにお見舞いとお祈りが行われています。そして、この媒体はどれも「関係者各位」に向けられたものであり、被災者が目にすることはまずありません。すなわち、お見舞いをしていること、祈っていることそれ自体が目的です。

 人間の倫理の筋としては、被災地の苦しみを一緒に苦しみたいが、自らが経験していない苦しみはなかなか苦しむことができない、という手順を取るのが自然であると思います。しかし、効率性が最重要のビジネスの現場においては、このような筋に沿って物事を考えることは、非常に困難であると感じます。私自身、「目の前で肉親が津波に流されることに比べれば計画停電など大したことではない」と思っていたはずが、いつの間にか計画停電による不便が最大の問題となってしまっています。その上で、ぬけぬけと「被災地の皆様に心よりお見舞いを申し上げます」などと書いています。