犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

法と自由と民主主義

2011-03-21 23:00:19 | 国家・政治・刑罰
 法と自由と民主主義の思想は、自然災害の被害者に対して、それなりの理解を示すものである。私はこれまで、漠然とこのように考えていました。人災である犯罪被害の場合と異なり、国家権力による刑罰権の発動の問題が生じないからです。しかしながら、震災の発生から10日が経ち、被災地の外で行われている法律家の議論を聞くにつけ、この思想が「被害」というものに対して鈍感である事実を色々と認識させられています。

 報道各社がすべて通常の番組を改編し、緊急報道番組を放送したことにつき、憲法21条(表現の自由)との関係で問題があるとの意見を聞きました。明るい番組を控える横並びの自粛の風潮に対し、戦前のような思想統制の危険性を感じるとのことです。常に憲法の基本から物事を考える姿勢としては、実に正しいと思います。そして、人の死に対する洞察が浅く、実に情けないと思います。
 義務や強制によって被害者に共感しなければならないと考えているのか、あるいは自由や自発によって被害者に共感しようとしているのか。さらには、共感したいが共感など不可能であると気づいて苦しんでいるのか。この差異は、己の人生に向かう構えの違いのようなものであり、理屈では説明できないと思います。そして、政治的な自己主張の強さは、天災と人災とを通じて、「被害」の捉え方の浅さにつながっているように感じられます。

 福島原発が危機的な状況となり、法律家の間では、平成18年3月24日の金沢地方裁判所判決の重要性が語られるようになってきました。法曹界では「志賀原発運転差止め訴訟」と言われているものであり、我が国で初めて原発の運転差止めを認めた判決です。この地裁の裁判官と東京消防庁の職員とを称賛しつつ、差止めの判決を覆した高裁の裁判官を強く非難する意見を多く聞きました。
 福島原発での命を賭した活動に対しては、それを見守る無力な国民の1人として、心から敬意を表し、無事を祈ることしかできません。ここでは、法律の抽象論は無意味であり、目の前で起きている人間の限界的な姿に圧倒されざるを得ないと思います。法律の議論が、この緊迫した状況下でも過去の判例を出発点としている点については、法律を学んだ者として愕然とさせられました。原発周辺の住民は、ここでも「被害者」として正義の側に引き込まれることになります。

 首都圏では、計画停電や交通機関の運休による支障が生じています。社会正義の実現を標榜する各種報告会・勉強会も無期限の延期を強いられ、「被災地の一刻も早い復旧をお祈りします」との枕詞ばかりが繰り返されています。自らの主張を世に問う活動についても、被災地の現実を前にして、ひとまずの休戦を強いられた状態です。世の中が落ち着いた頃を見計らって、一刻も早く活動を再開したいという本音も聞かれます。
 人間の基本的な姿は、平穏無事の状況ではなく、極限的な状況において表れるものだと思います。それは、綺麗事が通用せず、人間の醜い本性と高貴な本性とが同時に表れる状況です。そして、ある真実が真実であるのならば、それはいかなる時においても、いかなる場所においても妥当するはずです。その意味で、震災が起きると休戦を余儀なくされ、その間は真実ではなくなるような真実はあり得ないと思います。

 天災と人災とを問わず、人間にある日突然に突きつけられる「被害」というものへの洞察の浅さを感じるのは、上記のような法曹界の議論に接したときです。被害による絶望は、絶望以外の何物でもない以上、将来的には希望に転化するはずの仮の状況であるとの言説は、何らかの偽善を免れないと思います。法と自由と民主主義の思想は、天災の被害に対しても鈍感であると感じます。