犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

角川歴彦編 『テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト』

2011-03-25 20:50:07 | 読書感想文
中島義道 「テロに匹敵する世間的暴力について」より p.90~

 ハイジャックされた民間旅客機がニューヨークのビルに激突したという事件が鮮明になったとき、私の頭をフトよぎったことは「これもまた決定されていたのかもしれない」ということであった。つまり、私の脳髄を占拠したのは、大変な惨事だということでもなく、テロリストに対する怒りでもなく、イスラム原理主義に対する疑問でもなく、「アメリカの正義」に対する反感でもなく、世界経済の先行きに対する不安でもなかった。じつに、決定論と自由意志に関する古典的な哲学的難問であったのだ。

 「哲学は必要だ」と分別顔の善人どもは口を揃えて言う。しかし、それは真っ赤なウソである。彼らは安全な哲学のみ欲しいのである。哲学はその本性からして危険なものであり、社会的には大いに害になりうる。突然の惨事で5000人~6000人もの尊い人命が失われたというのに、何を血迷ったのか「それは決定されていたのかもしれない」などという不謹慎なことを思うことそのことが厳しく禁じられているのだ。たとえ思っても、断じて口に出してはならないのだ。

 真理を求めつづけるところに哲学の生命はある。だが、世の人々はこぞってこれを嫌悪する。いや厳しく禁止する。尊い人命が奪われているときに、「自由が存在するか否か」と問うことそのことを拒否するのである。それは、時と場所と状況を弁えて哲学しろという要求にほかならない。つまり、社会的な配慮が必要な場では哲学をするなという要求である。真剣な問いが「驚き」として生ずるところにこそ哲学は湧き出るのに、まさにそのとき哲学をやめよと命じるのである。


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 2001年9月11日の同時多発テロの後、この中島氏の文章を読み、哲学とは具体的な問題(解答を求める形の問題)には何の役にも立たないことを知りました。そして、同じく「テロ以降」の出来事である今回の大震災に際して、やはり哲学は具体的な問題(復興・再建・立ち直りの方法論)には役に立たないことを知りました。また、人為的なテロに際しても、自然災害においても全く同じように妥当してしまう理論は、このような役に立たない理論であると知りました。

 今回の大震災を表現する際のキーワードとして、「未曽有」と「想定外」が良く使われているように思います。「未曽有」も「想定外」も、決定論と自由意志に関する古典的な哲学的難問の入口であり、答えのない問いがこの世に存在することを示すものです。これらの言葉について、それをまた言葉によって強制的に思考を巡らせざるを得なくなる場所が、まさに被災地の現場であると思います。そして、被災地の復興を願えば願うほど、この思考は遠ざかるように思います。