犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東日本大震災

2011-03-13 23:56:22 | その他
 その時私は、東京の真ん中のビルの中にいました。倒壊の危険を感じて外に飛び出ると、すべての建造物が大きく揺れ、無数の人々が道路に飛び出していました。地鳴りのような音を聞きながら、「狭い地球の表面に貼り付いて重力に逆らってビルを建てた人間の文明の儚さ」などという陳腐な台詞が頭に浮かんでいました。
 震源地が東北地方であることを知ると、私は「被災者とそれ以外」の二分法に従って安全地帯に移り、被災地を対象化して捉え始めていました。私には、これ以上被害が増えないことを祈り、亡くなられた方の冥福を祈ることしかできません。情けないです。

 先の先の復興政策を語り、中長期的な展望を語る政治家が嫌いです。時間は、今この瞬間しか存在せず、しかも「その瞬間」で時計が止まったならば、動くことはないと思います。
 自分のプレーで被災者を元気づけたいと言っていたスポーツ選手が嫌いです。何の力にもならないと思います。喪章も免罪符のようで好きではありません。
 被災者の悲喜劇のストーリーを無理に描いていた番組が嫌いです。先の1月の阪神淡路大震災16年の追悼行事の取り上げ方の小ささを思い起こすと、信用ならないと思います。

 「これほどの規模の津波は想定されていなかった」と淡々と語る専門家が嫌いです。自然の猛威の前に人智の無力さを語るのではなく、結果論としての精緻な分析を展開し、被災者の生活の破壊を前にして科学者の立場を守るのは欺瞞だと思います。
 天変地異の原因を為政者などの外部に求め、主義主張に転化する非科学的な思想を語る人が嫌いです。神や仏がいるのであれば、こんな悲しいことは起こりません。天変地異によって人類に警告を与える神は、それを信じる人間が勝手に作った神にすぎないと思います。
 これらの理屈を述べる人々に比して、被災地で理屈も語れず汗と涙を流している人々に対しては、敬意と畏怖以外の感情は湧いてきません。

 震災の翌日、メールで首都圏の帰宅難民の悲惨さと武勇伝を自慢してきた友人が嫌いです。「今から仙台で不動産屋でもやるか」と言っていた同僚も嫌いです。ここぞとばかりに耐震工事の営業に来たリフォーム会社の社員も嫌いです。
 これらの人々に対して愛想笑いをし、追従笑いをし、大人の対応をしている自分が嫌いです。
 歯切れの悪い記者会見をする東京電力や原発施設の関係者にはイライラします。しかし、これに対して矢継ぎ早に厳しい質問を投げかけ、常に正義の側に立っているマスコミの人々はもっと嫌いです。
 普段の仕事では同じような会話を繰り広げ、揚げ足取りと保身しか考えていない自分を省みて嫌になります。

 地震の直後に、メーリングリストで義援金の提供を募ってきた団体が嫌いです。この団体の内部では、先方からお礼状や「義援金を頂いた方々」の公表がないと、不満のメールが飛び交います。単なる売名行為だと思います。
 福島原発の爆発が起きた直後に、メーリングリストに鬼の首でも取ったかのようなメールを送ってきた原発反対活動家が嫌いです。被災者への支援活動と政治利用は紙一重であり、鈍感でありたくないと思います。

 好き嫌いはすべて解釈であり、自分が考えたいように考えることが可能です。これに対して、あらゆる不要な情報を取り去った後、最後に残るのが安否確認の情報です。ここでは、「心より震災のお見舞いを申し上げます」といった言葉は無価値です。
 奇跡の再会と、悲しみの対面とは、天国と地獄であると感じられます。そして、新聞やテレビでこの天国と地獄を交互に見ていると、心が整理できなくなり、言うべき言葉が何も出て来なくなり、余計な言葉しか書けなくなります。

 天国の場合には再会した両者の視点が存在するのに対し、地獄の場合には残された者の視点しか存在しない点において、死者からの視点は強制的に除かれます。「生存者の捜索」と「遺体の収容」の違いを分けて考えることも、言葉で無意識に線を引き、上から目線の安全地帯に逃げているように思われます。
 悪夢を前にして全身で生きている人々に対し、私は傍観者としてこれ以上被害が増えないことを祈り、亡くなられた方の冥福を祈ることしかできません。本当に情けないです。