犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『沈まぬ太陽』

2009-11-22 23:56:55 | その他
以前、私の乗っていた飛行機が落ちそうになったことがあります。天候不良だか何だかで着陸が上手く行かず、何度もジェットコースターのように上がったり下がったりして、前後左右の乗客からは一斉に悲鳴が上がり、それでもまさか落ちるわけがないと思っていたところに、何かのトラブルで何がどうしたという機内放送が耳に入って、しかし放送の内容は全く耳に入りませんでした。ひょっとしたらこの飛行機は落ちるのではないか、飛行機が墜落する時はこんなものなのではないか、そりゃそうだろう、落ちるとわかってたら最初から乗ってないよと思った瞬間、再び飛行機が垂直に落ちたようになり、内臓だけが浮き上がって残りの体が下にストンと落ちて気持ち悪くなり、それが数回続いて吐きそうになりました。それにしても、ここで死ぬんだったら吐こうが我慢しようが変わらないじゃないかとの考えがよぎった瞬間、そんなことを考えたら本当にそうなってしまうと思って慌てて否定してみても、もはや他の飛行機ではなくこの飛行機に乗ってしまったものはどうしようもなく、隣の席の友人と顔を見合わせて強がった引きつり笑いを浮かべながら、シートにしがみついていました。

神様、仏様、もし助けてくれるのならばどの神様でも仏様でも信じますと言ったところでどうにもならず、とりあえず機長様を信じるしかなく、何でこの飛行機に乗ってしまったのかと後悔しても、現に自分がこの飛行機に乗っている事実がどうなるわけでもない。死を覚悟するなど全くの嘘っぱちで、まさか落ちるわけがない、自分がここで死ぬわけがない、落ちても自分だけは死なないと思っても、現に自分はこの飛行機に乗ってしまっており、逃げ出すこともできず、時間的にも空間的にもこの一瞬に捕らわれており、そんなことを考えられているうちはまだ墜落していない証拠で、古今東西のどんな立派な理屈も役に立たず、現にこの飛行機が落ちるか落ちないかだけが問題であり、それまでの人生が走馬灯のように思い出される余裕などなく、ただ目をつぶってその時に備え、全身を硬くした瞬間、飛行機は激しくバウンドしながら無事着陸しました。このようにダラダラ書いてみたところで、その飛行機が実際には墜落しなかったという事実の前には、何を言っても緊張感のない結果論になります。墜落するかしないかわからない、その瞬間の心情はどう頑張っても再現不可能です。

昭和60年8月12日の日航ジャンボ機墜落事故を描いたこの映画では、「亡くなられた520名の方々のご冥福」「ご遺族の方々のお気持ち」という台詞が何回も出てきました。ある時は航空会社の幹部から、あるいは現場の最前線で対応に当たる社員から、またある時はマスコミの人々から、それぞれの文脈の中で同じ単語が語られていました。そして、その同じ単語が、ある者からは腫れ物に触るように語られ、またある者からは正義の代弁者の偽善を伴って語られ、もしくは過剰な演技による大声をもって語られ、あるいは筆舌に尽くしがたい現実を目の前にした限界点から絞り出されていました。(これを演じ分けられる俳優という職業はすごいと思います。)全く同じ言葉が、ある時には虚しく表面をすべり、この人は何もわかっていないとの印象を与えるのに対し、ある時は聞く者に深く突き刺さり、この人はわかっているかも知れないとの直観をもたらす。この違いは、つまるところ、「自分はこの事故で死んでいない」「自分の家族はこの事故で犠牲になっていない」という安心感・優越感に対して、どれだけ自覚的であるかという点より生じるのだと思います。それによって、「亡くなられた520名の方々のご冥福」「ご遺族の方々のお気持ち」という言葉が、自由(自発)にもなり、強制(義務)にもなるように思われました。

なぜあの時私が乗っていた飛行機は墜落せず、日航123便は墜落したのか。これはいくら考えてもわかりません。落ちた飛行機に乗っていた人は努力が足りなかったわけでもなく、私が努力をしていたから自分の飛行機が落ちなかったわけでもなく、単なる「運」だとしか言いようがありません。「なぜ墜落したのか」という問いは、多くの場合には科学的な事故原因究明の問いに取って代わられ、現代社会ではこの「運」の問題が正面から直視されることは少ないでしょう。しかしながら、この「運」と格闘することなしには、「亡くなられた520名の方々のご冥福」「ご遺族の方々のお気持ち」という言葉が正確に語られることもあり得ないと思います。私自身、自分が乗った飛行機が落ちるかも知れないと思った時には、財布の中に入っているお札など紙切れであり、銀行に預けているお金など屁みたいなものであり、ましてや生命保険など人間を馬鹿にしたシステムでした。この紛れもない事実を思い起こすたびに、事故で最愛の人を亡くして日々苦しみあえいでいる方々の偉大さ、自責の念と後悔の中でも死を選ばずに生き続けている方々の尊さの前には、社会におけるほとんどの問題は取るに足らないもののように思われてきます。(山崎豊子さんは、この地点から主人公に「会社とは何か」「組織とは何か」という問いを語らせており、やはりすごい作家だと思います。)