犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある法律事務所事務員の苦悩 その2

2009-11-13 23:14:57 | 実存・心理・宗教
法律事務所で働いている彼女には、「何となく苦手なお客さん」が数人いた。神経質に細かく質問をし、ほんの少しの失敗でも見逃さない人。口調がいつも喧嘩腰で、揚げ足を取るような質問ばかり返してくる人。異様にお金に細かく、不正な経理をしていないか定期的に調べる人。そんな顧客と弁護士との連絡係を務めるのは、彼女にとってなかなかストレスの溜まる仕事であった。そのような中でも、彼女にとって特別に苦手なお客さんが2人いた。それは、医療過誤で3歳の娘さんを亡くし、病院を訴えようとしている夫婦であった。この夫婦と連絡を取り合う時の苦痛は、他の苦手な顧客に対する時のそれとは、本質的に種類が違った。他のうるさい顧客の場合には、クレーマーという便利な単語を用いて、対象を客体化して向こう側に放り投げておけばいい。これに対して、この夫婦との連絡の際には、彼女の心が内側から責められるような居心地の悪さがあった。そして、この繊細な感情は、次から次へと事務を効率的に処理すべき事務所においては邪魔であった。

その夫婦は、彼女の勤める法律事務所のホームページを見て、「この弁護士にお願いするしかない」と直観的に悟ったとのことである。弁護士が専門の業者に制作を任せたホームページには、「親身になって…」「相談者の立場で…」「綿密にご連絡を取り…」といった言葉が見事に散りばめられていた。彼女は、弁護士がこのホームページの制作に全く関わっていないこと、その内容をろくに読んでもいないこと、現実の顧客に対する視線は全く逆であることを知っていた。事務所の経営者である弁護士は、まずは人の心ではなく、懐具合(財布の中身)を見極めなければならない。これは、弁護士という職業にとって必要不可欠なスキルであり、恐らく全世界の弁護士の99パーセントにとって至極常識的な考え方である。そして、彼女の事務所の弁護士がこの医療過誤の事件を引き受けたのは、報酬の獲得が確実に見込めるからであった。弁護士は事件の内容については全く興味を示していなかったが、病院側の過失がかなりの確率で認められる状況であると知り、先の見通しもなく契約を結んだのである。

彼女が電話を受けると、娘さんを亡くした父親は、いつものように穏やかな口調で語り始めた。契約から3か月も経ち、100万円の着手金も支払ったのに、証拠保全も始まっていない。状況はどのようになっているのか。彼女は「何となく苦手なお客さん」の相手をするうちに、咄嗟の弁解もかなり上手くなっていたが、この時には言葉に詰まってしまった。この両親には、全てを見抜かれている。両親が初めて事務所に来たとき、2人は口々に語っていた。「裁判を起こしたって、裁判に勝ったって、そんなもの何もなりません」。「人生なんて、何をしても無駄なことだと冷め切っています」。「私達は娘の死を受け入れていませんので、娘の死の責任を裁判で争うなんて、変なことをしていると思います」。「でも、何かをしていないと狂ってしまうし、娘のことを忘れて他のこともする気になれないので、今できることは裁判を起こすことだけです」。弁護士は両親の話に逐一頷いており、彼女も横で弁護士の人間としての良心に触れたように感じていた。しかし、契約書を取り交わし、最後に弁護士がポロッと述べた一言によって、両親の顔には一瞬にして暗い影が差し、彼女の心臓は凍った。「少しでも多くの賠償金を取れるように頑張りますよ。そうすれば、私の報酬も上がりますし」。

娘さんを亡くした夫婦が事務所に来所すると、弁護士はいつものように流暢に話し始めた。法律事務所では、弁護士1人あたり、常に100件以上の事件を抱えていなければ経営が回らない。そして、これだけの事件を同時並行で処理する以上、どうしても後回しにせざるを得ない事件がある。誰しも、自分の事件だけは最優先でやってほしいと要求してくるが、それは無理というものである。そして、この医療過誤事件の証拠保全は、それほど急ぐ必要はない。この辺のところは、社会一般の了解事項として、常識の範囲内でご理解を頂きたい……。両親が穏やかな顔で聞き入り、納得したように頷いているのを見て、弁護士は安心したような表情を見せた。彼女は、やはりこの両親には全てを見抜かれていると思った。人間社会の習慣や社交儀礼など、どれもこれも無意味である。ほとんどの人間は、嘘と偽りで塗り固められたこの世間において、自らの感性の鈍感さに気付こうともせず、「社会人」やら「社会常識」やらの概念の周りで言葉遊びをしている。「社会一般の了解事項として、常識の範囲内でご理解を頂きたい」と言われたら、今さら何を反論する必要があろうか。たとえ目の前の弁護士が、自分の高級車の手入れには時間と労力を惜しまず、平日の昼間からゴルフに行っていることを知ってしまったとしても。

一本の電話が入った。過去の依頼者からであり、裁判が終わったあとの弁護士への報酬が支払えず、猶予を願い出る内容のものであった。彼女がメモを手渡すと、彼女の予想どおり、弁護士は夫婦を置いて隣の部屋に行き、電話に出た。その数分後、彼女と夫婦が残された部屋に、ドアを突き抜けて弁護士の怒号が聞こえてきた。「あなた、随分と失礼だねえ」。「日本は法治国家なんですよ」。「3日以内に、耳を揃えて持ってきなさい」。「胃がん? そんなこと知らないですよ……」。彼女は、真っ青な顔をして小刻みに震えている夫婦の顔をまともに見ることができなかった。弁護士が元の部屋に戻り、夫婦のただならぬ様子に気付くと、一瞬「しまった」という顔をした。そして、その場を取り繕うように、いつもの世間話を始めた。「いやあ、先日初孫が生まれましてねえ。女の子なんですよ。まあ可愛くて可愛くて……」。彼女は居たたまれなくなって、用事を思い出したふりをして、隣の部屋に逃げた。その数分後、事務所の玄関から逃げるように出て行く夫婦の後ろ姿を確認すると、彼女は元の部屋に戻った。机の上には、弁護士の辞任届の写しと、100万円の着手金の返還を求めない旨の両親の念書が残されていた。

(フィクションです。)