犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

下関駅殺傷事件など3人の死刑執行

2012-03-30 23:53:26 | 国家・政治・刑罰

 3月29日、3人の死刑が執行されました。報道を聞いても、この3件の殺人事件はどのようなものだったか一瞬思い出せず、世の中で無数の出来事がぶつかり合って相互に風化を促進していることへの虚無感に苛まれます。また、思い出したように語られる「死刑に関する国民的な議論を盛り上げていくべきだ」との意見に対しては、死刑の議論によって「死」への洞察を遠ざけ、「死刑は人の命を奪う点において他の刑罰と質が異なる」という問題の出発点において矛盾を犯しているとの感を覚えます。

 「何年ぶり何人の死刑が執行され、どの法務大臣では何人目だ」という捉え方は、事実の報道としてはそうとしか語れないとしても、死を論じる場合の入口は逆だと思います。「死刑」はその中に「死」を含みますが、人の通常の日常生活はその場から死を遠ざける営みです。ゆえに、死を遠ざけることが不可能であり、あるいは死を遠ざけることが望まれない状況で、死にながら生きている者の言葉は、政治的な死刑の存廃論の言葉とは次元を異にしているように感じます。

 平成11年9月の下関駅通り魔事件で犠牲となった被害者の家族の方々は、「これまでの苦しかった日々が思い出され涙がこみあげた」「人の命の重さを考えると死刑が執行されてうれしいという気持ちはない」「事件のことは決して忘れられず死刑囚のことは決して許せない」「すぐには心の整理がつかないが特別な思いはない」といった言葉を述べておられました。当事者ではない私には、行間を読むに読めない苦しさと自己嫌悪だけが残ります。ただ、これらの言葉を差し置いて、政治的な死刑の存廃論に熱中できる人々の良識を疑うのみです。

 事件の日から13年にわたり、そして今後も犠牲者よりも長く生きている限り、自己の内部に支離滅裂さを抱えざるを得ない者の言葉は、死刑制度の論じる際の原点であると思います。これに対し、日常生活から死を遠ざけている世間的な常識論が、急に真面目に「死刑に関する国民的な議論を深めるべきだ」と言われたところで、ろくな結果にはならないはずです。「長年の目標が実現するのは喜びではない」「夢は叶わない」といった絶望からスタートする最初の時点で、ほとんどの議論は振り落とされるものと思います。

 死刑論議に関しては、すでに古今東西の識者及び庶民によってあらゆる論点は出尽くしており、水掛け論しか起きないと聞いたことがありますが、私もその通りだと思います。ここにおいて、国民的な議論を盛り上げるべきだとの主張を行うことは、これ以上議論は深まり得ないことを前提としており、単に現状を変えるための政治的な主張に過ぎないとの感を強くします。すなわち、「死」を遠ざけながら「刑」を問題にし、死刑は「刑」の中でも「死」が問題なのであるという問題を語りながら、その問題を見落とすという誤謬に無自覚であるということです。

 「被害者の家族は死刑執行にも喜びはない」という部分を捉えて、死刑は被害者遺族のためにもならないと述べる廃止論の主張を聞くことがありますが、死刑の存廃論を超越して、このような理屈には全身から力が抜ける気がします。「死刑が執行されても犯人が憎い」と言えば心が醜いと言われ、「犯人にも命があったこと考えれば喜べない」と言えば行動が矛盾していると言われ、何をどうすればよいのかという感じです。自我が膨張し、欲望がぶつかり合うのが常である人間社会において、よりによって最も辛い思いをしている立場の者がなぜ聖人君子にならなければならないのかと思います。