犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東日本大震災から1年

2012-03-11 23:31:55 | 時間・生死・人生
 
 3月11日が近づくにつれ、弁護士会や弁護士の周辺では、「被害者」の文字が書かれた書類のやり取りが増えてきました。これはもちろん、すべて原発被害者支援に関する書類であり、「原発いらない! 3・11大集会」などの抗議活動やデモに関するものです。3月11日は、福島・東京・大阪・札幌・福岡で抗議集会があり、多くの弁護士も奔走していようです。

 私が見る限り、昨年の3月12日から徐々に活発になってきた反原発活動は、当初の頃は地震・津波と原発問題を切り離してはいませんでした。型通りながらも、「亡くなられた方々のご冥福をお祈りします」という言葉は忘れられていなかったように思います。それが、半年も経たないうちから、福島原発事故は震災によらない単独事故であったかのような言葉ばかりになっていました。「私は原発事故の危険性を何年も前から指摘していた」としたり顔で語る弁護士において、震災や津波そのものは意識の隅に追いやられていたようです。

 原発について、私の考えは平凡です。無いに越したことはないですが、実際に原発を前提として回っている人々の人生設計に隅々まで目を配り、派生的に起きる無数の問題と現場の悲鳴と大混乱にどう対処するのかを想像すれば、急進的な施策は現実的ではないと思います。また、人の心の奥底の苦しみや哀しみに目を配れない者が、原発周辺の自宅に戻れない方々を支援すると言っても、それは被害者の複雑な苦しみを利用し、単に善の側から悪を糾弾しているだけではないかとの恐れを感じます。

 3月11日を何の象徴の日として位置づけるのかと考えたとき、「原発いらない! 3・11大集会」を正義とする者の頭の中には、地震と津波で亡くなった人の姿は存在しないように感じます。2万人近くの死者・行方不明者の存在は原発問題とは切り離され、原発に比すれば大した問題ではなく、このデモでは震災で亡くなった人のことは少しも考えていないということです。賛成・反対の対立軸では、そもそも天災は目に入らず、波に飲まれて窒息する苦しさを想像して苦しんでも社会は変革できないということだと思います。

 3月11日を慰霊の日の象徴として位置づけるならば、鎮魂、冥福を祈る、1つの区切りといった使い古された言葉がそこから生じ、人は黙祷する以外の方策を持たないものと思います。私は、どの言葉も違うと感じており、普段は天国も来世もないと考え、非科学的なものをバカにしていますが、実際に対案を出せるわけではなく、その日のその時間は黙祷するしかありませんでした。これは、たとえ今回の震災が他人事ではあっても、人は生と死の問題に他人事であることは絶対にできないということだと思います。

 想像を絶する数の人々が亡くなったその同じ日に黙祷から転換してシュプレヒコールを上げるエネルギーは、死者の冥福を祈ることの偽善性に苦しんでいる地点から見れば、全く次元が違うところの偽善のように思われます。人の死に軸足を置かない者が「命の重さ」を語っても、どうにも心に響かない理由です。犯罪被害者支援が死刑廃止のための懐柔策であれば、原発被害者支援は原発廃止のための多数派工作であり、私はここに善悪二元論の似たような雰囲気を感じていました。「命」「いのち」と繰り返されると、それに納得できない私は、命を軽視しているようで苦しくなります。