犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

玄侑宗久著 『風化』より

2012-03-01 23:52:02 | 読書感想文

NHK文化センター『メンバーズ倶楽部』第59号 福島・三春町だより


 あまりに辛い体験だと、憶いだすのさえ辛い。人はできるなら、嫌なことは憶いださず、平穏な日常に戻りたいのだ。きっと無意識は、何事もなかったように思いたいのではないか。しかしこれは、あくまでも酷い体験をした当事者の無意識の心のはたらきである。それならやむを得ないと、誰もが思うに違いない。ところが今、この国に起こっている「風化」は、これとは全く別な事態だ。誰が言い始めたのかは知らないが、今回の東日本大震災という出来事そのものが、どんどん「風化」しているのだという。つまり、被災地の惨状がマスコミによって取り上げられなくなり、周囲の人々もすでに忘れつつあるのだ。

 何事もなかったように、周囲の人々だけが日常に還ってしまう。これは被災者にとっては何よりもキツイ。地震、津波、原発事故に風評被害、その4つの災害に「風化」を合わせ、「五重苦」などと呼ぶ所以である。そういえば、この国の人には「水に流す」習慣がある。しかし本来、水に流すのは被災者側のはずであり、彼らはまだまだそんな気分にはなっていない。それなのにどんどん忘れられ、勝手に水に流されてしまうのは、ニグレクト(無視)と呼ばれる虐めに近い。

 思えばこの国の報道では、無数の遺体を遠景としても映さなかった。泣き顔も全く映していない。それがおそらく、世界から賞賛された忍耐強い国民性とも連動しているのかもしれない。しかしたとえそうであったとしても、せめて資料としては、ありのままの現実を撮っておくべきではなかっただろうか。今になると、真冬の仮設住宅での暮らしを想像していただくにも、基礎データが足りないように思える。まっとうに現在の被災者心理を想像するためには、たぶん無数の遺体の遠景と、泣き顔のアップが必要なのだ。


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 最初からわかり切っていた話だと言えばそれまでですが、震災から1年を前にした報道は、風化を促進するものが大多数だと思います。「前に進めない」「前に進みたくもない」という収まりの悪いものはカットされ、「前に進みつつある」「前に進まなければならない」というまとめ方で報道がなされるとき、1年後という日は無理矢理にでも区切りの日とされます。震災報道に限らず、広くメディアリテラシーに関わる一般的な問題でしょうが、このような中で玄侑宗久氏の言葉は一種の救いです。

 津波の映像を見るとフラッシュバックが起きるという事実と、震災の辛い経験を風化させずに語り継ぐ必要性とは、現実の行動の選択としては相反します。しかしながら、これはあくまでも体験をした当事者が選択すべき問題であり、周囲の者が体験者の内心を推し量ることは僭越な行為です。そして、周囲の者が被災者に理解を示す場合には、フラッシュバックの防止に関するものへの比重が大きく、これは精神的に楽なほうを無意識に選んでいる結果だと思います。

 1年近くが経過して風化が取りざたされる以前に、すでに昨年の3月下旬には「津波の映像ばかりで心が暗くなって何になるのか」→「このような時だからこそ通常の生活をすべきだ」→「経済の停滞は被災地の復興にもならない」という論理の流れをよく耳にしました。玄侑氏が指摘するところの泣き顔については、私は何回かテレビで見ましたが、画面の中で編集されると、劇場と観客の断絶が生じます。情報化社会は人間の哲学的洞察の能力を低下させ、下司の勘繰りの能力を上昇させたように思います。