犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

五木寛之著 『下山の思想』より その2

2012-03-08 00:07:05 | 読書感想文

p.109~

 私たちに唯一、絶対といっていい真実とは、私たちはやがて死ぬ、ということである。それは、究極の真実である。この世に絶対などというものは、なかなかないものである。人間にとってもっとも確実、かつリアルな問題こそ「死」だ。とはいうものの、「死」は目の前に迫るまで実感できないのが普通である。

 私たちは真実を実感することが難しい。できないと言っているのではない。困難だ、と思うのである。それはなぜか。人間はみずから欲するものしか見ないのだ。私たちは広角レンズよりもなお広く、世界と現実の隅々まで見渡しているかのように錯覚している。しかし、それは明きらかに錯覚である。

 人間というものは、自分が欲する現実しか見ていない。レンズの焦点のようなものだ。何か1点につよくピントを合わせる。するとその問題だけがクリアに浮かびあがる。すると、背景や周囲はおのずとボカシ効果が生まれる。そうすることによって焦点がはっきりと浮かびあがるのだ。

 「死」などということは、念頭にない。「人生は苦である」といわれても、それはそうだけれども、と首をすくめるだけだ。私たちは未来を見通すことのできない愚かな存在なのだ。ちょっと冷静に考えれば、おのずと見えてくる真実から、あえて目をそらせようとする心の働きをもっている。

 たしかに絶望は病いであり、生存には役に立たない。しかし、絶望とか、希望とか、そういう境いを超えて、真実を真実として認識することはできないものだろうか。


***************************************************

 東日本大震災が起きるまで、世論を左右するマスコミにおける「希望」という単語の使われ方は、「希望がない」「希望が見えない」というものが圧倒的だったと思います。現に、若者の7割以上が「この国の将来に希望が見えない」「自分の将来に希望が持てない」と感じているとの世論調査の結果もありました。

 巨額の財政赤字、社会保障制度の破綻、少子高齢化、就職難、低賃金、増税と来れば、希望が持てないのは当然のことだと思います。何の裏付けもなく「希望を持て」と言われれば、何という甘い認識か、そのような生温い言葉で誤魔化すなと一蹴されるのが関の山です。震災前の日本の「希望」とは、私の記憶によれば確かにこのようなものでした。

 震災後、この抽象的な「希望」という単語は、世論において絶対的な地位を獲得したように思います。希望があると言っている限り、本物の絶望からは逃げられるからです。それは、当初は「希望」という言葉に苦しむ人がいてもお構いなし、とにかく国全体として希望を語らなければならないのだとの政策論であったものが、今は「希望」という言葉に苦しむ人などいるはずがない、という常識論が確立しているように思います。

 絶望のどこがいいのか、希望が悪いわけがないと言われれば、反論は非常に難しいと思います。五木氏が述べるように、希望に強くピントを合わせれば、絶望は背景や周囲に追いやられるからです。こうなると、「時間は悲しみを解決しない」、「1年が経って悲しみは深まる一方」、「あの日から時間が止まっている」、「一歩も前に進めていない」といった言葉は全て背景に回され、その意味を受け止められる人間の数は減っていきます。