犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

五木寛之著 『下山の思想』より その1

2012-03-07 23:54:13 | 読書感想文

p.120~

 視点を変えれば、とか、発想をチェンジすれば、とか、よくいわれる。たしかにプラス思考で、世の中の明るい面だけを見て生きていけば、良いことが沢山あるだろう。世の中というものは、古代から現代にいたるまで、明るい面と暗い面が常に同居してきたはずだ。人はどんな苦しみのなかでも、希望を失わずに生きることが大事だろう。それはわかる。しかし、一見、豊かに見える私たちのこの国にも、見方によっては深く暗い闇がある。


p.216~

 現実から目をそらし、過去を追想することは、はたして逃避だろうか。それは恥ずかしい行為だろうか。私はそうは思わない。現実とは、過去、現在、未来をまるごと抱えたものである。未来に思いをはせて希望をふるいおこすことと、過去をふり返って深い情感に身をゆだねることと、どちらも大したちがいはないのだ。人は今日を生き、明日を生きると同時に、昨日をも生きる。

 歴史とはなにか。過去を確かめて、未来への針路をさぐる、などという功利的な手段ではない。歴史は役に立たなくてもいい。事実と異なっていても一向にかまわない。私たちがそう勝手に思いこみたがっている方向へ歴史は描かれていく。百年前の歴史すら、正しくは伝わらないものである。いま、この時代の真実すら、私たちには見定めがたいのである。日々、私たちの目の前におこり、ジャーナリズムがこぞって報道する出来事は、はたして真実か?


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 1年前、震災が起きる直前に報道されていた出来事はどんなものだったか、それによって私自身も世論にどのように流されてきたか、今となっては正確には思い出せません。確か、大学受験のカンニング事件、大相撲の八百長問題、市川海老蔵の暴行事件といったものが連日報道され、世論を形成していたと思います。基本的なスタンスは、「人の不幸は楽しい」ということです。私も人の不幸を十分に楽しんでいました。

 震災からわずか数ヶ月で報道も元の状態に戻り、「人の不幸には共感して苦しむべきである」という倫理観も長続きせず、わずか1年で風化の懸念まで生じてきました。ここに来て思い出したように震災関連の報道が増えたことも、1年が過ぎれば再び潮が引いたように報道が減ることも、被災地の外側にいるほとんどの日本人にとっては想定内だろうと思います。「人の不幸は楽しい」という価値観の中で生きていたほうが楽だからです。

 テレビに映る被災者の方々は、軒並み「前向きに」「復興に向けて」といった言葉を語っていますが、取材陣が去った後にどれだけの涙が流されたことか、私は想像すると虚しくなります。メディアというものの性質上、ひとたび取材を受ければ、「大丈夫です」「頑張ります」と答えるしかないのだと思います。質問の形が期待される答えを前提としており、空気を読まされる側が大人として受け答えするならば、同調への圧力に反抗できないということです。他人に誘導された「自分の気持ち」を語っている事態だと思います。

 私は震災の後、このような自分の考えを周囲の人々に語ったことがありましたが、全く支持されませんでした。物の見方がひねくれ過ぎているという指摘や、「被災者は本当に笑顔を見せて元気になっていたではないか」、「お前はカメラが帰った後で泣いているところを自分の目で見たのか」という批判を受け、私は人間関係を壊すことを避けるため、その後は黙っていました。それは、「被災地の外に生きる者には被災者の計りきれない悲しみは想像を超える」という絶望とはまた違った種類の絶望でした。私は被災地の外にいる者として、カメラに映っていない部分の絶望を想像することの偽善性に直面しました。