犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

3月3日 朝日新聞朝刊より

2012-03-04 23:24:56 | その他

● 『いま伝えたい千人の声』 第12回「わが子を亡くして」より

 「寂しさは増してきた。何年か後も同じかも知れない」。でも、いま、ここに子どもたちがいなくても、親であることには変わりない。

 「町はきれいになっていくのに、なんでうちの子だけいないんだろう」。

 「経済都市に戻るだけでなく、家族を亡くした人々の『気持ちの復興』をしなくては」。

 子どもを亡くした親たちによる「つむぎの会」(仙台市)の集まりが昨年7月、石巻で開かれた。すがる思いで参加した。みな同じ悲しみを抱く。「部屋に入ったとき、空気が違いました」。

 「周りの笑顔が受け入れられなかった」。慰めの言葉にさえ傷ついた。


● 『鎮魂を歩く』 第40回より

 イベントやら何やら、色々誘ってはもらうんです。ありがたいんですけどね、静かにしといてほしいんです。どこかの新聞社の人が前に来たときも、こう言いましたよ。つらい経験を乗り越えて前へ進もうなんて、そんな記事が書きたいんでしょう、お断りしますよって。(中略)

 別にだれを恨みもしないんです。ただ、悔しさは、悔しいのなっす。じいさんは年も年だから、まあ、あきらめもつきます。でも息子はこれからの人だもの。私の心は、私でないと分からないですよ。


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 東日本大震災の日より数ヶ月が経過した頃から、「責任の所在」を論じることができる原発事故の報道を除けば、マスコミで提示される論点の形は限られてきたように思います。がれきの受け入れの問題、風評被害の問題、その他「復興」に関連づけられた以後の問題が99%以上を占め、その日の事実が事実として報道されるものは1%以下に減っていたとの印象です。

 震災が起きる1ヶ月ほど前、解説者の池上彰氏が「マスコミは意図的に明るいニュースを取り上げるべきだ」と述べ、新聞の暗い紙面を戒めていたのを思い出します。震災が起きた数日後、評論家の森永卓郎氏が「単なる復旧ではなく従来よりも素晴らしい街を創らなければならない」と述べ、ピンチをチャンスに転化する方法を力説していたことも思い出します。

 震災に関するマスコミの報道は、その1つ1つが長年業界に生きる職業人のバランス感覚に裏付けられたものであり、現場を知らない者が勝手に抱く印象は無責任だと思います。のみならず、報道の内容に対して何の影響力も有していない者による批判は、負け犬の遠吠えです。そのような無力な私にとって、上のような記事は、少し救われる思いがするものでした。