犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件・最高裁判決 その6

2012-02-28 23:45:47 | 国家・政治・刑罰

本村洋氏の会見より

 「裁判が終わっても、ずっと事件のことは考えていくと思っている。死刑判決が下ったからといっても、ふとした瞬間に思い出して、考えながら生きていく。多くの犯罪被害者の遺族は(犯人の判決が)無期懲役、懲役が当たり前で、気づけば犯人が社会復帰していることに比べれば、穏やかな生活ができる。その点は感謝している。」

 「自分の子供が13歳になっていたなんて、そういうことすら考えなくて、いつまでたっても妻は23歳、娘は11カ月のままです。」

 「判決が述べられた後、(死亡した妻の弥生さんの)お母さんに『長い間お疲れさまでした』と声をかけ、お母さんから『ありがとうございました』と言われた。自分の父親からは『よくがんばった』と背中をたたかれた。また裁判が始まる前、(弥生さんの)お父さんから手紙をもらった。普段あまりしゃべらない方だが、『今まで何も言わなかったけど、よくがんばってきたね』という直筆の手紙をいただき、それがすごくうれしかった。いつも会見の場に私しかでないが、後ろから親族、家族に支えられていたということを改めて痛感した。」

 「私自身、2009(平成21)年にある女性と籍を入れて、細々と家庭を持っている。それには色々な理由があるが、私自身、1人で生きていくことがとてもつらくなり、精神的にまいっていた。そしてとてもすばらしい方と出会えたこともあった。いろいろ悩んだし、相手も考えたと思うが、私を支えてくれるということで、今、細々とだが、2人で生活している。その彼女は命日には一緒にお墓に行って、手を合わせてくれている。その人のおかげで、こういった場に立てる。感謝している。」


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 本村氏の具体的な言葉の1つ1つを聞いて改めて感じることは、修復的司法の理論がいかに机上の空論であるかということです。修復的司法は、「事件によるダメージの修復」及び「コミュニティの関係性の修復」を図り、事件を終結させて行くことを目指しています。しかし、死者が戻ることはなく、一度狂った人生の歯車が戻ることもない以上、修復や終結は常識的にあり得ません。修復が語られる場面では、被害者や家族は特殊な地位に祭り上げられ、平面化されるのが通常です。しかしながら、不幸の形は不幸な人間の数だけ存在しており、一般化を拒むものです。

 若くして配偶者を殺されれば、当然ながら再婚が問題となります。ここでは、自分の両親や兄妹、亡くなった配偶者の両親や兄妹、さらには再婚相手の両親や兄妹、加えてそれぞれの祖父母・親戚・友人の人生が相互に関係せざるを得なくなります。人間であれば、各自の立場があり、思惑があるものと思います。そして、一般的な家庭での様々な問題、例えば進学・就職・転職・借金・別居・離婚・病気といった出来事から推測しても、本村氏が遭ったような犯罪の後のそれぞれの思惑の違い方は、時間的・内容的に桁外れにドロドロです。ここでの意見の対立による精神の消耗は、容易に死に至るものと思います。

 修復的司法が主眼とする「恨みの克服と赦し」の理念は、被害者遺族側を一括りにしているように思われます。しかしながら、加害者によって派生的に人生の歯車が狂わされた人間の数は膨大であり、相互間の裁判に対する考え方の違いも厳しく、不幸の加速度が緩むことはないと思います。また、配偶者が殺されて再婚する場合には、亡くなった配偶者の子供と新しい配偶者の子供と微妙な関係(異母兄弟・異父兄弟)が生じ、これは一生続きますが、修復的司法がこのような点まで考慮しているようには見えません。一定の時期を設定して事件の終結のラインを引くのは、かなり強引な手法だと思います。

 被害者や家族が平面化されれば、その集まりは心のケアを行う自助団体と評価され、あるいは組織的に厳罰を叫ぶ集団と評価されます。しかしながら、不幸の形は人それぞれです。本村氏が述べるとおり、殺人事件の被害者遺族の立場はそれぞれ異なります。すなわち、(1)犯人が不明で迷宮入り、(2)指名手配で逃亡中、(3)責任能力がなく不起訴、(4)冤罪で無罪判決、(5)死刑を求めたが無期懲役、(6)死刑判決といった格差が生じざるを得ません。ここで生じる差異は、極めて繊細かつ内向的であり、歩み寄りの余地がない種類のものです。すべてに当てはまる一般論が存在するとすれば、それは眉唾物だと思います。