犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

上田閑照編 『西田幾多郎随筆集』より その1

2012-02-04 00:07:33 | 読書感想文

「我が子の死」 p.73~

(前略)誠というものは言語に表わし得べきものでない。言語に表し得べきものはすべて浅薄である。虚偽である。至誠は相見て相言うあたわざる所に存するのである。我らの相対して相言う能わざりし所に、言語はおろか、涙にも現わすことのできない深き同情の流が心の底から底へと通うていたのである。(中略)

 回顧すれば、余の14歳の頃であった。余は幼時最も親しかった余の姉を失うたことがある。余はその時生来始めて死別のいかに悲しきかを知った。余は亡姉を思うの情に堪えず、また母の悲哀を見るに忍びず、人無き処に到りて、思うままに泣いた。おさな心にもし余が姉に代りて死に得るものならばと、心から思うたことを今も記憶している。

 近くは37年の夏、悲惨なる旅順の戦に、ただ1人の弟は敵塁深く屍を委して、遺骨をも収め得ざりし有様、ここに再び旧時の悲哀を繰返して、断腸の思未だ全く消え失せないのに、また己が愛児の一人を失うようになった。骨肉の情いずれ疎なるはなけれども、特に親子の情は格別である。余はこの度、生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。

 余はこの心より推して一々君の心を読むことが出来ると思う。君の亡くされたのは君の初子であった。初子は親の愛を専らにするが世の常である。特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。情濃やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである。甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。

 これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある。しかしこういう意味で惜しいというのではない。女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどといって、慰めてくれる人もある。しかしこういうことで慰められようもない。


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 東日本大震災で親を亡くした子どもの数は1300人を超えるとの報道を聞きました。他方、子どもを亡くした親の数の報道はされていないようです。被災地での心のケアの必要性を語るならば、これからが絶望的な長丁場であり、問題は無限に拡大せざるを得ないと思います。しかしながら、現在の報道の形に馴染みにくい人間の心の中の苦悩は、早くも置き去りにされているとの感がします。

 震災関連(原発事故を除く)の報道と言えば、(1)復興のために何をどうすべきかの政治的論争、(2)次に震災が起きたときに備えた防災論、(3)前向きに生きている被災者の元気な姿、この3種類に集約されているように感じます。「あの震災を機に日本人の死生観は大きく変わった」と言われても、被災地以外では嘘だろうとしか思えません。

 日本を代表する哲学者である西田幾多郎が、娘の死に際してこのような随筆を残していることは、日本人の1人として救いに思います。震災にあたって天下国家を論じる知識人からは、「被災者1人1人の心のケアに付き合っている暇はない」との空気を感じるだけに、文化勲章を受章した京都大学教授の言葉が貴重に思えます。