犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件・最高裁判決 その3

2012-02-25 00:07:26 | 国家・政治・刑罰

本村洋氏の会見より

 「私があずかり知らないことだが、事件からずっと裁判を見てきて、やはり被告の言動を見る限り、反省に欠けているところが多々見られた。最高裁では被告が出廷しないので、どういう心境なのかは計り知れないが、いま死というものが迫ってきて、死を通じて感じる恐怖から罪の重さを悔い、かみしめる日々がくると思う。大変な日々だと思うが、そこを乗り越え、胸を張って、死刑という刑罰を受け入れてもらいたい。酷なことを言っているかもしれないが、切に願っている。」

 「肉体的な年齢で線を引いて『ここからは死刑』と決めていいものなのかは、とても悩むところ。被告が拘置所から出した手紙で『自分は18歳と少しだから死刑にならない』とか書かれていた。そういった打算をして犯行に及んだら、年齢で線を引くことは悪い例になるかもしれない。」

 「妻と娘のように、無残にも人生を断たれてしまうような犯罪の被害者が生まれなくなることを切に願う。一番いいことは犯罪がなくなることで、そのことを社会には知っていただくことができたと思っている。」

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 私が裁判所書記官になりたての時に裁判官から受けた指導の中で、特に印象に残っているのが、「少年事件に熱心に取り組んでいる弁護士には十分注意しろ」という言葉です。私はその言葉を聞き、最初はさすがに言い過ぎではないかと感じていました。しかし、数年にわたり経験を積む中で、想像もしなかった形での色々な挫折を経て、その言葉自体が指し示す事態の正確さと救われなさに気付くようになりました。

 少年事件に熱心に取り組んでいる弁護士の前では、残酷な犯行を犯した少年は基本的に善であり、国家権力は基本的に悪です。私が仕事に誇りを持ち、誠実に職務を全うしようとすればするほど、それは国家権力による人権侵害となり、絶対悪の地位が確立されることとなりました。弁護士から容赦ない批判を浴びせられ、不正義の権化のような言われ方をされても、書記官は立場上個人としては反論できません。これは、国家権力の側で働く者の袋小路であり、真面目に人生に向き合う人間ほど苦しむ問題でした。

 裁判官が、人権派弁護士の中でも特に少年事件に取り組む弁護士に焦点を当て、新人書記官への指針としたのは、長年の経験による慧眼に基づくものであったと思います。どんなに残虐な犯罪を犯した少年でも更生できるという絶対的正義を前にすれば、これを妨げる国家権力は不正義以外ではあり得ません。特に、裁判所が少年に反省を強いることは、少年の内心の自由の侵害であるとして警戒の目で見られます。そして、この論理の中で生きることは、若く真面目な書記官であった私に、独特の心の折れ方をもたらしていました。

 犯罪を犯さない善を信じて生きてきた私にとって、非行少年の更生という絶対的正義を突きつけられ続けることは、その価値を実現する余地のない自分の人生を否定され、すでに過ぎてしまった自分の少年時代の足元を崩される経験でした。少年の更生が正義であるならば、その正義を実現するための大前提として最初に犯罪が犯されていなければなりません。そして、この正義が最も強力に主張されるのは、少年が殺人を犯し、死刑が問題になる場面です。その力関係を知ってしまった時の私の敗北感は、更生不可能な犯罪者の怨念と同じ方向を示していました。

 国家公務員の中でも裁判所で働こうという人は、基本的に真面目で地味な人間が多いですから、私の同僚も似たような環境で独特のストレスを抱えていたように思います。1人の少年を更生させるという目的のために、そもそも更生など必要のない人間がどれだけ深夜残業を強いられたか、弁護士への対応の巧拙を巡ってどれだけ書記官同士が喧嘩してきたのか、どれだけ酒量が増えて肝臓を壊したのか、やけ食いして体重が増えたか、睡眠導入剤や精神安定剤が必要となったか、ここには気が遠くなるほどの犠牲が払われているのが現実だと思います。

 少年の欲望によって自分の身が削られる虚しさを納得させるために、私の周りでも色々な理論が考えられていました。「我々は罪と罰に関する重い職責を背負っているのだ」という優等生の解答や、「ストレスの多い現代社会と上手く付き合う工夫をすべきだ」と言う功利的な解決法や、「公務員は身分保障があって安定している」という最強の逃げ道などがありましたが、私はこのような理屈に与したくはありませんでした。この世に人間として生まれたからには、誰が何と言おうと自分の頭で考え、自分自身に恥じない仕事をしたいと考えたとき、私にとって殺人を犯した少年の更生は希望ではなく、絶望でした。

 このような絶望で苦しんでいた私において、本村氏の存在は一貫して驚異でした。裁判所書記官の仕事はいつでも辞められますが、犯罪被害者の遺族であることは辞められません。私にとって、真面目に仕事に取り組んでいる自分の立場が、欲望の限りを尽くした犯罪少年よりも遥か下に置かれて弁護士からの非難を浴びることは、精神を病むほどに心を折られる経験でした。それだけに、私とは比較にならないほどの本村氏の精神力の強靭さは、想像を絶する次元の話でした。

 国家権力を悪とし、その悪と闘うことは、精神的には非常に楽だと思います。少年事件に熱心に取り組んでいる弁護士は、検察や裁判所に対して激怒ばかりしている印象がありますが、実のところは好きな仕事に楽しく取り組んでいたように思います。少なくとも私には、国家権力と闘う弁護士は、心がズタズタに引き裂かれる種類の苦悩とは無縁であったように見えました。これに対し、ある日突然すべての出口が塞がれた本村氏の苦悩の言葉は、どこか別の場所から降ってくるように私には感じられていました。