犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件・最高裁判決 その1

2012-02-21 23:57:08 | 国家・政治・刑罰

本村洋氏の会見より

 「13年の長い間、裁判を続けてきた裁判官、検察官、捜査された警察官の方々、そして最後まで熱心に弁護をしていた弁護士の方々に深く感謝する。」

 「20歳に満たない少年が人をあやめたとき、もう一度社会でやり直すチャンスを与えることが社会正義なのか。命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか。どちらが正しいことなのかとても悩んだ。きっとこの答えはないのだと思う。絶対的な正義など誰も定義できないと思う。」

 「18歳の少年に生きるチャンスを与えるべきか、最高裁も非常に悩まれたと思う。反省の情があれば死刑にならなかったと思う。残念ながら、被告には反省の情が見られないということを理由に、死刑になったことが一番重いと思っている。」

 「自分の事件だけではなく、犯罪被害者のこと、日本の刑事裁判の在り方、少年の処罰の仕方について問題提起させてもらうことが私の使命と思い、精神力、体力が続く限り対応してきた。それが本当に良かったのか、社会の役に立ったのか、むしろ不快に思われていないかなどを悩んできたのも事実だ。」

 「今回の判例は18歳の少年が2人を殺害したら死刑になるという実績をつくったことになる。この事件以降、少年への厳罰化がもし進むのであれば、それは私がマスコミの前で発言してきたことの影響が多々あると思うので、私自身も責任を感じなければいけない。」

 「常に法は未完であり、完璧な判決はないと思っている。諸行無常の中で、世論の動きを敏感に感じて、そのときの価値観に合ったもの(判決)を出していくことがあっていいと思う。」


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 筆舌に尽くし難い犯罪に直面した者のみが、裁判や刑罰について正確に知ることができる、という考えが一方にあります。他方では、そのような犯罪に巻き込まれた者は、裁判や刑罰についての真実を見失う、という考え方があります。この逆方向のベクトルは、そのまま知的エリート集団の民主主義に対する視線の違いに対応しているのではないかと感じることがよくあります。

 我が国の司法エリートの頂点は、言うまでもなく最高裁の裁判官です。私は自分自身の仕事の経験を通じて、世の中には本当に頭の良い人達がいるのだということを肌で感じ、圧倒されてきました。最難関の司法試験を突破し、優秀な成績で任官し、さらに出世コースを登り詰めた最高裁判事は、この国を背負って立つエリート中のエリートです。抽象的思考・システム的思考の能力、頭の回転の速さや記憶力、数的処理能力、どれをとっても凡人の力の及ぶところではなく、同じ人間とは思えないところがありました。

 私は裁判所書記官として勤めていた当時、この遠い雲の上の上司に対し、1人の人間としての敬意を持っていました。それは、自分には到底敵う相手ではないという敗北宣言の変形であり、卑屈な尊敬の念でした。光市母子殺害事件が発生し、本村洋氏がテレビで語り始めた当時、私はちょうど地方裁判所の刑事部に配属され、日々犯罪に接していました。私は、自分自身の本村氏に対する敬意と、裁判官に対する敬意の質的な違いを直観し、ここを掘り下げた先には身の破滅があることを知りました。

 書記官として裁判官を尊敬すべき立場に常時置かれていると、自分自身は司法エリートではなくても、いつの間にかエリート的な思考の枠組みに染まりがちになります。これは、法律の素人である一般大衆を愚民と捉える優越感と、そのような集団から疎外されている劣等感とが入り混じっているようなものです。実際のところ、狭い共同体の中で連日内輪の会話をしていれば、この構造に抗うことは非常に困難だと思います。

 私は、刑事部の裁判所書記官として、何人もの犯罪被害者遺族に接し、苛酷な運命をそのまま生きている人生に対して深い敬意を持ちました。しかし、エリート的な思考の枠組みに染まっていた私の敬意は、どこか上から目線であり、不純なものでした。書記官は、裁判官のそれとは比べ物にはならないにせよ、最高裁大法廷首席書記官を頂点とする昇進レースに巻き込まれています。私は裁判所に勤めている限り、その犯罪被害者遺族に対する敬意の内実は、「人生が狂った脱落者への同情」であることを免れませんでした。

 犯罪被害者の刑事裁判への参加、被告人の刑罰に対する被害者の意志の反映といった施策については、司法エリートであればあるほど、賛成することは難しくなるように思います。これは、自分や家族は絶対に犯罪被害には遭わないという自信があるわけでもなく、逆に犯罪被害に遭うかもしれないという恐怖を受け入れるわけでもなく、そもそも犯罪被害者を含むところの非エリート、すなわち一般大衆の流入は不正義である価値判断が先に立っているということです。

 知的集団の思考を押し進めた場合、衆愚政治への嫌悪感は必然的に避け難くなり、直接民主制的なものは当然に排除されます。実際のところ、現在の民主主義の閉塞状況の打開策を語る有識者の議論において、「選挙権は民衆が時の権力者と戦って勝ち取った歴史的な権利である」という能書きは、その本来の意味からは遠ざかっているように思います。そして、このようなポピュリズムの拒絶の視点は、もとより違憲立法審査権により国民の多数決を覆し得ることの正当性を信じる司法エリートの思考の枠組みと親和性があります。

 私は、この長い裁判の間、本村氏の1つ1つの言葉に敬意を持ち、圧倒されてきました。そして、このような敬意は、刑法学の有識者からは眉をひそめられることを感じ続けてきました。また、司法制度に携わる裁判所書記官は、その立場において本村氏の言葉への敬意を公言することが許されないことも知りました。筆舌に尽くし難い経験をした者のみが、裁判や刑罰について正確に知ることができるのであれば、本村氏と最高裁判事の地位が逆転してしまうからです。

 判決後、専門家によって示された問題意識は、いずれも司法エリート的な思考を前提としたものであり、本村氏の会見の言葉とは好対照であったと思います。例えば、「永山判決と比べると死刑へのアプローチが変わってきている」、「被害者の立場を考慮するという流れの中での判決だ」、「より客観的な基準を示す必要がある」といったコメントです。両者の言葉のいずれに究極の理性を感じ取るのか、そして自己目的でない議論の立て方ができるのか、これは民主主義の成熟度の指標でもあると思います。