犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

上田閑照編 『西田幾多郎随筆集』より その3

2012-02-06 00:02:40 | 読書感想文

p.76~

 死にし子顔よかりき、をんな子のためには親をさなくなりぬべしなど、古人もいったように、親の愛はまことに愚痴である。冷静に外より見たならば、たわいない愚痴と思われるであろう。しかし余は今度この人間の愚痴というものの中に、人情の味のあることを悟った。

 カントがいった如く、物には皆値段がある。独り人間は値段以上である。目的そのものである。いかに貴重なる物でも、そはただ人間の手段として貴いのである。世の中に人間ほど貴い者はない、物はこれを償うことが出来るが、いかにつまらぬ人間でも、一のスピリットは他の物を以て償うことは出来ぬ。しかしてこの人間の絶対的価値ということが、己が子を失うたような場合に最も痛切に感ぜられるのである。

 ゲーテがその子を失った時「死をのりこえて」というて仕事を続けたというが、ゲーテにしてこの語をなした心の中には、固より仰ぐべき偉大なるものがあったでもあろう。しかし人間の仕事は人情ということを離れて外に目的があるのではない。学問も事業も究竟の目的は人情のためにするのである。しかして人情といえば、たとい小なりとはいえ、親が子を思うより痛切なるものはなかろう。

 徒らに高く構えて人情自然の美を忘るる者はかえってその性情の卑しきを示すに過ぎない。「征馬不前人不語、金州城外立斜陽」の句ありていよいよ乃木将軍の人格が仰がれるのである。


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 西田幾多郎がその言葉を引用しているイマヌエル・カントは、死刑制度を「正義の要求」であるとし、死刑廃止論を詭弁であるとして批判しています(『人倫の形而上学の基礎付け』)。これは、「すべての人間に尊厳がある以上、死刑が適切である罪に対して死刑を避けることは、犯罪者の人間の尊厳を否定するものだ」という理由からです。

 西田幾多郎がカントの言葉を受けて述べるとおり、壊された物はこれをお金で償うことができますが、殺された人間はこれをお金で償うことはできません。ここから、人間の思考は正反対に分かれるものと思います。私は、「人間の尊厳」「絶対的価値」「償い」という概念の連関に加え、人間の思考の痛切さの限界であるところの「我が子が事件で殺された」という地点に畏怖と絶望を覚えるとき、色々な理由を付けて犯罪者の死刑を避けようと試みる行為は、犯罪者自身の人間の尊厳を否定するに等しいことだと直観します。

 もっとも、この直観は直観であるがゆえに、「なぜ人の命を奪うのが人間の尊厳なのだ」と問われると回答に窮します。また、「死刑にしてもしなくても犠牲者は帰ってこない」「人の命の重さを人の死で示すのは矛盾する」と理詰めで来られると、私は上手く反論できません。反論するのが面倒くさくなり、堂々巡りで反論する気力もなくなってくるというのがこれまでの経験です。

 我が子の死という絶望から逆算した場合、唯一議論が噛み合うのが、死刑囚の親が「人殺しでもあっても我が子は我が子である」と述べる場面だと思います。他の子供の死を棚に上げる自分勝手は承知の上、我が子だけは助けてほしいということです。ここでは、死刑賛成派は何の権利があって犠牲者の親に同調できるのかと批判されるのと同様に、死刑廃止派は何の権利があって犯人の親に同調できるのかという批判が該当するものと思います。ここで対立しているのは、理不尽な死と、償いとしての死です。