犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件・最高裁判決 その4

2012-02-26 00:12:44 | 国家・政治・刑罰

本村洋氏の会見より

 「ずっと私を支えてきた言葉がある。事件発生当初から私の取り調べをして、その後も死えてくれた刑事さんが言ってくれた言葉で『天網恢恢、疎にして漏らさず』。『いくら裁判で君の望む判決がでなくても、天はきちっと見ていて、悪い人をその網からもらさず、必ず罰をあてる』という言葉を与えてくれた。その言葉を胸に抱いて、これまできた。」

 「判決は被告のものだけでなく、被害者遺族、何よりも社会に対して裁判所が言っていること。少年であっても身勝手な理由で人を殺害したら死刑を科すという強い価値規範を社会に示したことを社会全体で受け止めてもらいたい。私も極刑を求めてきたものとして厳粛に受け止める。」

 「妻と娘のように、無残にも人生をたたれてしまうような犯罪の被害者が生まれなくなることを切に願う。一番いいことは犯罪がなくなることで、そのことを社会には知っていただくことができたと思っている。」

 「この判決に勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者だと思う。社会から人が減るし、多くの人が悩むし、血税を使って裁判が行われる。結局得られるものはマイナスのものが多い。そういった中から、マイナスのものを社会から排除することが大事で、結果として、妻と娘の命が今後の役に立てればと思う。そのためにできることをやってきたということを(亡くなった2人に)伝えたい。」


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 法律実務家の中で「世の中から犯罪をなくしたい」と心底から願い、かつそうではない現状に真摯に苦しんでいる者は、恐らく皆無と思います。世の中のトラブルは、法律実務家のメシの種であり、犯罪者と実務家とは持ちつ持たれつの依存関係です。さらには、犯罪は社会に存在する矛盾への抵抗として、積極的な意味を付与されることもあります。「犯罪が起こった時点でみんな敗者だと思う」という本村氏の言葉を受け止める構えは、法律実務家には存在し得ないと思います。

 これとは対照的に、「世の中から冤罪を完全になくしたい」と願う法律実務家は、石を投げれば当たります。論理関係としては、世の中から犯罪が完全になくなれば冤罪も消滅しますが、ここでの問題はそのようなことではありません。罪刑法定主義(法律なければ犯罪なし)によって入口を逆にした以上、法律実務家にとって犯罪は存在してもらわなければならず、しかも警察や検察が捜査を誤ってもらわなければ困ることになります。冤罪をなくすための活動は、犯罪の発生と依存関係にあり、これも持ちつ持たれつの関係だと思います。

 本村氏が述べる論理を突き詰めれば、死刑廃止論に至るものと思います。当たり前のことですが、世の中からこのような出来事がなくなれば、死刑は自然に不要となります。全ては被告人の行為から死刑を論じなければならなくなったのであって、誰も好き好んで死刑を論じているわけではありません。また、本村氏の論理の筋を追ってみれば、法制度として厳罰化を望んでいるわけでもなく、冤罪の危険性を増加させているわけでもなく、これらの問題が自動的に解消する地点からの論理が述べられているように思います。

 「無残にも人生を絶たれる被害者が生まれなくなることを切に願う」という言葉は、刑罰論における自己目的化を拒絶した悲壮な決意であり、自問自答と破壊的衝動を経た上での言行一致の論理であると感じます。私は、これまで「世の中から冤罪を完全になくしたい」と願う法律実務家の言葉を多く聞いてきましたが、本村氏のような言行一致の絶望を含んでいるものはなかったように思います。絶望の代わりに論理の中心を占めていたものは、絶対的正義を得ている自信であり、その正義を実現しようとする高揚感であったと思います。