犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

上田閑照編 『西田幾多郎随筆集』より その5

2012-02-11 23:45:35 | 読書感想文

p.315~ 鈴木大拙あて書簡より (明治35年10月)

 今の西洋の倫理学という者は全く知識的研究にして、議論は精密であるが人心の深き魂の経験に着目する者一もあるなし。全く自己の脚根下を忘却し去る。パンや水の成分を分析し説明したるものあれどもパンや水の味をとく者なし。総にこれ虚偽の造物、人心に何の功能なきを覚ゆ。
 余は今の倫理学者が学問的研究を後にし先ず古来の偉人が大なる魂の経験につきてその意義を研究せんことを望む。これすなわち倫理の事実的研究なり。


p.329~ 山本良吉あて書簡より (昭和2年2月)

 人間というものは時の上にあるのだ。過去というものがあって私というものがあるのだ。過去が現存しているという事がまたその人の未来を構成しているのだ。7、8年前家内が突然倒れた時は私は実にこの感を深くした。自分の過去というものを構成していた重要な要素が一時になくなると共に、自分の未来というものもなくなったように思われた。喜ぶべきものがあっても共に喜ぶべきものもない。悲しむべきものがあっても共に悲しむものもない。


p.12~ 「或教授の退職の辞」より (昭和3年12月)

 幼時に読んだ英語読本の中に「墓場」と題する一文があり、何の墓を見ても、よき夫、よき妻、よき子と書いてある、悪しき人々は何処に葬られているのであろうかという如きことがあったと記憶する。


p.334~ 和辻哲郎あて書簡より (昭和4年12月)

 私のこの10年間というのは静な学者的生活を送ったというのではなく、種々なる家庭の不幸に逢い人間として堪え難き中を学問的仕事に奮励したのです。そして正直に申上げれば今は心の底に深い孤独と一種の悲哀すら感ずるのです。


p.338~ 山内得立あて書簡より (昭和6年6月)

 本当に何も分らないで孤児となってゆかれる幼子の行末をおもえば何の慰めの語も出ませぬ。また幼き児らを残してゆかれる御令室の心中も誠にいかばかりかと思います。人間死生の際のみ、本当の真実というものが味われ平素の虚偽の生活をおもうて頭が下がるものです。


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 立場の違いを巡って争われる議論は、そもそも「どの立場からものを言っているのか」を確定しなければ始まらず、それゆえに相互の立場を否定することによって議論は噛み合い、しかも決着がつかないのが通常のことと思います。むしろ激しい議論が起きるのは、その立ち位置が他者に誤解されるときであり、これは言語を有する人間が本能的に反論しなければならない事態です。そして、立場を表明する際の言語はもともと不正確である以上、当為命題においては激しい断定が用いられざるを得ないのだと思います。

 これに対して、随筆や書簡のような表現は、心の底からそうだと思えないことをわざわざ書く意味がないため、そこでは自分自身の客体化が必然的に起こります。主観的であろうとすると、自分自身を客観的に見なければならないということです。これは客観的な証拠を用いて議論しようとするとき、そこでは必然的に主観的な意見を述べなければならなくなることと好対照です。言語はそれ自体が価値であると自覚しているのか、言語を道具として用いているのかの違いでもあると思います。