犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

天災と人災

2011-06-21 00:00:25 | 言語・論理・構造
 「誰もいない森の中で木が倒れたときには音がするのか」という哲学の問いがあります。一般常識に従えば「音がする」が正解となるでしょうが、音(空気の振動)と人間の知覚領域の関係が問われていることに気がつけば、このような逆説的な構造の問いには答えなど必要ではなく、問いを深めることが答えであるという結論に至るものと思います。そして、この問いを突き詰めていけば、「過去」はその個人の頭の中の記憶という形でしか存在できず、「未来」はその個人の死後には絶対に観察することができず、その実在性が危うくなります。こうなると、「過去」や「未来」という言葉も簡単には使えなくなってきます。

 人が誰も住んでいない場所で、どのような大地震が起きて地面が崩壊しようとも、津波が陸地を襲おうとも、それは「天災」とは呼ばれないものと思います。すなわち、人間以外の自然だけが存在し、人間が完全に排除された場所では、人災のみならず天災も起こらないということです。天災と人災の区別は、あくまでも人間の側から人間を中心に考えられ、使用されてきた概念だと思います。両者はこのような言語による分類である以上、天災の中にも人災は見つけられますし、天災と人災は二者択一であるとも二者択一でないとも言うことができます。これは、哲学的な逆説の問いに比べると、問いが深まらないと感じます。

 天災か人災か、少なくともその2つのいずれかに分類される出来事である限り、そこからは被害額の試算が行われます。それは通常、何十億円、何百億円という額であり、1人の人間が一生かかっても稼げない金額です。この金額の前に打ちのめされる現実が、人間の生存に直接的な影響と与えているように思います。結局、人が住んでいない場所で何が起ころうとも経済は動かないということであり、経済が動かなければ何も問題はないということです。そして、自粛や風評被害は経済を沈滞させ、復興は経済を活性化させる以上、生活再建や補償の問題が現実化する場面では、前者は後者に覆い尽くされることになるのだと思います。

 天災と人災の区別は、割り切れないものを割り切ろうとする場合に、二元論的な思考によって多用されているとも感じます。一時期、天災でも人災でもなく「菅災」(菅首相の災害)であるとの批判が高まったのが特徴的です。天災という捉え方は、人災ではない以上諦めなければならないとの強制力を有していますが、それまでの間に「地球にやさしく」などの思考で人間が自然を支配下に置いてしまえば、急に手のひらを返すのも難しくなると思います。ある特定の主張に「天災だから」との理由付けを用いるのであれば、同様の理由で「人災だから」との理由付けも用いることが可能であり、結局は両者の区別が問題にされているわけではないとの印象を受けます。

風評被害と安全神話

2011-06-18 23:45:59 | 言語・論理・構造
 以下の文章は、私が法律事務所で聞いた話をもとに、私自身の個人的な感想として書き留めておきたいと思ったものです。

 風評被害とは、その言葉の定義により、本来は安全であるものについても「危険である」との根拠のない噂が立てられ、あらぬ損害を受けることだと結論できると思います。そうだとすれば、その「本来は安全である」ことの根拠が、安全神話によって安全とされているのであれば、風評被害の定義も変わって来ざるを得ないように思います。風評被害と安全神話は連動しているからです。

 4月上旬、放射能汚染の有無が判然としないために商品の流通が妨げられ、先が全く見えないという何人かの業者の話を聞きました。業者が望んでいることは、政府が一刻も早く安全宣言を出すことでした。ここで求められているのは、慎重さ・正確さよりも迅速さです。そして、絶対にあってはならないことは、政府による生活の保障がなされないまま、「危険である」との判定が下されることです。ゆえに、政府による生活の保障ができないならば、それは線を引くことによって「安全である」とのお墨付きを与えるべきであるということになります。ここにおいて、安全と危険がきれいに分けられます。

 神話という言葉は、その定義により、超自然的・形而上的な内容を含み、ゆえに科学的な根拠のないものとして使用されています。そして、「安全」と「神話」が組み合わされて「安全神話」という単語が使用されている以上、ここでは絶対安全であるという信頼感は根拠のない思い込みであり、錯覚にすぎないという共通了解があるように思います。従って、それが崩れることは当然であり、崩れなければそもそも「安全神話」という単語は使用されていないとも思います。

 「安全神話の過信」「安全神話を疑え」と並べてみると、ニーチェの「神は死んだ」に倣って、「安全神話は死んだ」という言い回しが浮かんできます。ニーチェの言わんとすることが、大衆の作った神はすでに死んでおり、絶対的なものはないということであれば、現在の状況は非常に似ていると思います。しかしながら、人々がこの世で経済生活を回していく限り、安全神話は完全に死ぬことがなく、何度でも復活せざるを得ないものだとも思います。

 少なくとも私は、原発事故のために生活が立ち行かなくなり、「このままでは首を吊るしかない」との業者の切実感を目の前にすると、神話でも何でも国民の大多数で信じている状態が正常であり、これを根本から疑いつつ通常の社会生活を送ることは不可能であると感じます。

限界

2011-04-23 23:46:07 | 言語・論理・構造
 東日本大震災の避難所を訪れた政治家や東京電力の役員が被災者に怒鳴りつけられ、詰め寄られて答えられず、醜態をさらしている映像を何回も目にしました。私は被災地の生活を経験したことはありませんが、組織の利害関係において板挟みとなり、立場上何も言えずに頭を下げては相手方の怒りを増幅させ、心労を重ねた経験はあります。従って、怒鳴る側よりも怒鳴られた側の心情を察することのほうが容易です。しかしながら、被災地で政治家や東電の役員を前にして怒鳴ることをせず、無言で耐えている被災者に対する尊敬は、すべての心情に優先します。

 避難所の生活が限界に近づいており、ギリギリに来ているという声もニュースでよく聞きます。言葉は物事を実体化し、特に抽象名詞は可視化の錯覚を生み出す以上、この「限界」を突き詰めていけば、それぞれの語彙に込めた概念が異なる以上、お互いに言いたいことが上手く言えずにすれ違う状況に陥るものと思います。どこが限界なのか、あとどの程度で限界を超えるのかという問いは、唯一の答えが出る種類のものではありません。私は、実体化に実体化を重ねる表現ではあるものの、「限界」とは近づくものではなく、遠ざかるものだとの印象を受けています。

 被災地の「限界」の心情を想像するに、目の前で家族や友人が津波に飲まれ、その安否や身元確認のために遺体安置所を訪れ、身元を確認したといったような瞬間においてのみ、「限界」という言葉の使用が許されるように感じます。そして、この「限界」はその瞬間において限界であり、それ以降に限界に近づくことはなく、限界は遠ざかるものと思います。すなわち、近づいてくる限界は遠ざけることによって解決が可能であり、その可能性に救いを求めることができますが、遠ざかっていく限界は近づけることができず、わずかな可能性もないものと思います。そして、この意味での限界に直面した人々は、「限界」という言葉を口にしないのだと思います。

「がんばろう東北」

2011-04-18 00:14:20 | 言語・論理・構造
 仙台を本拠地とする楽天イーグルスが、ユニフォームに「がんばろう東北」のワッペンをつけて試合をしています。私は野球が大好きで、楽天も好きなチームですが、何とも言えない気持ちになります。被災地の人々は、野球から必ず元気をもらえることでしょうし、野球によって必ず勇気づけられることと思います。なぜなら、「野球などでは元気をもらえない」「勇気づけられるわけがない」という声は、表には出て来ないからです。

 楽天の元監督・野村克也氏がテレビで語っていた勝負の哲学を思い出します。野球は欲と欲のぶつかり合いです。相手のエラーにつけ込み、ミスにつけ込み、塁を奪い、点をもぎ取る競技です。実際問題として、被災地に思いを馳せながら守っていてはエラーしますし、被災地を元気づけることを考えていては打席に集中できないのは当然と思います。「自分のプレーで勇気を与えたい」という定型的な言い回しには、色々な大人の事情があり、論理の飛躍を指摘するのは幼稚な思考なのだとも思います。

 震災の直後に、日本ハムのダルビッシュ有投手が「正直自分が野球をしていてもいいのかと思う」とのコメントを述べていたのが、大変心に残っています。がれきの街での行方不明者の必死の捜索に比べれば、野球は単にボールをバットで打つゲームに過ぎないことを指していたのだと思います。津波で自宅が流されたことが信じられないならば、三振が四振になっても何の問題もないでしょうし、打った後で3塁に走る程度のことは訳もないことでしょう。ホームラン1本で肉親の死から立ち直れるならば、こんな楽なことはないと思います。

 先の選抜高校野球に際して、「東北高校を応援しているときには震災のことを一瞬忘れていた」との被災地からの声をニュースで聞きました。「勇気をもらった」よりも、この「一瞬忘れていた」との言葉が腑に落ちました。「野球にタラ・レバはない」と言われるように、野球は人生のある種の側面を端的に示しているように感じます。化け物のような身体能力と精神力を持つ者が集まり、限られたルールの中で必死に競い合うことは、それ自体に固有の意味があり、これを強引に震災と関連付ける必要もないのだと思います。

この1ヶ月を振り返って

2011-04-05 00:02:07 | 言語・論理・構造
 東日本大震災の発生から1ヶ月近くが経ちました。この間における「法律家」としての私自身の内心を振り返り、記述してみたいと思います。

 震災の直後、津波で壊滅状態となった被災地の映像を目の当たりにして、私の頭の中の抽象的な法体系も根こそぎ崩壊したのを感じました。
 私の主要な仕事の1つに、不動産登記に関する事務があります。不動産登記の申請に際しては、一言一句に間違いがないよう、細心の注意が求められます。一文字の誤記が何千万円もの損害を招き、会社が潰れ、何百人もの人生が狂う可能性があるからです。また、法務局から通知される登記識別情報は個人情報の最たるものであり、第三者への漏洩は絶対に許されません。
 実印と印鑑カードの管理など、個人個人が注意を払うべきことも多くあります。金庫がなければ、家の中の別々の場所に分けて保管することが望ましく、顧客にはそのように指導しています。

 今回の震災に際し、私と同じ仕事に就いている者の頭を一瞬よぎった思考は、大体同じであったと想像します。家が津波で流されて登記識別情報が無意味となり、家の中の別々のタンスに保管された実印や印鑑カードが一瞬にして流された圧倒的な現実は、法制度や抽象概念の体系を打ちのめしました。
 登記識別情報や印鑑登録証明書など、ただの紙切れです。「所有権」「占有権」「対抗要件」「物権変動」といった抽象概念は、家や車が流れて他人の土地の上に留まっている事実の前には、法律として何の価値基準を示すこともできません。この現実への洞察を押し進めて行けば、土地を区分して面積を測り、家を建てて登記をし、金庫に実印を保管するという人の営みそのもの虚しさに押し潰されてしまうものと思います。
 しかしながら、私と同じ仕事に就いている者が否定しにかかり、頭の隅に追いやった思考も、大体同じであったと思われます。物理的な現実が崩壊するならば、それに基づいて立てられた抽象概念も砂上の楼閣ですが、それが抽象概念であるというそのことによって、この崩壊を否定しさえすれば、抽象概念の崩壊は防げるということです。

 被災地以外の場所では、印鑑登録証明書や登記識別情報は、単なる紙切れではありません。引き続き、何百万、何千万ものお金を動かす「ご神体」です。経済社会という場所は、このルールにお互いに合わせて行かないと弾き出されるため、全員でこの神話を信じ続けることになります。不動産バブルの時期には、この神話が「濡れ手で粟」の莫大な利益を生み出しました。
 被災地では無数のマンションやアパートも壊滅し、法的紛争も無意味となったことと思いますが、被災地以外の法的紛争は何の影響も受けていません。賃料の値上げ、更新料の支払い、敷金の返還、賃料の不払いによる立ち退きなど、相互の自己主張と正当化の理屈がぶつかり合い、修羅場が展開されています。法律家である私は、その紛争によって飯を食っています。
 震災からたった1ヶ月ですが、私は「自分は自分の仕事をするしかない」と思っているうちに、私の頭の中の抽象的な法体系は復興されました。「所有権」「占有権」といった抽象概念も立て直されました。今では、津波によって建物が動くことよりも、売買契約書と移転登記によって建物の所有権が動くことのほうにリアリティを感じる状態に戻っています。

自粛ムード

2011-04-03 23:44:25 | 言語・論理・構造
 東日本大震災の後、「自粛ムード」という言葉が独り歩きして、経済活動に支障が生じているとの意見をよく聞きます。私も被災地以外に生きる者として、そのように一般的に言われているのと別の意味で、そのように思います。

 自粛の是非に関する議論の中で、外国語には「自粛」に相当する単語が存在しないとの識者の指摘を聞きました。私は単語の語源を探究する方面には疎く、興味もありませんが、「自」という文字に「みずから」と「おのずから」という正反対の意味を含めていることについては、非常に引きつけられるものがあります。言葉よりも先に意味があり、その言われているところの「それ」を言葉にした場合、「みずから」と「おのずから」という正反対の意味は同じ単語で言い表され、今日まで使われてきたということだからです。
 「自」という文字が含まれる熟語の多くは、「みずから」の意味のみに用いられているように思います。「自覚」「自信」「自己主張」などです。他方、「みずから」と「おのずから」の両方が混じっている熟語もあり、こちらのほうが意味に深みがあるように感じられます。「自由」「自分」「自身」などです。但し、現在では「みずから」の意味のみが認識され、言葉が軽くなっていると感じます。

 「自粛」という単語も、まさに「みずから」と「おのずから」が混じっている深い意味の単語だと思います。そして、現在では「みずから」の意味のみが認識され、言葉が軽くなっているようです。特に「自粛ムード」という言い回しは、「おのずから」の意味からは出て来ないはずだと思います。
 自粛ムードと言われるときの「自粛」とは、外からの強制力によって不自由を感じ、内心では不平不満を感じながらも空気を読んでいる状態だと思います。不謹慎だとの非難を浴びないため、周囲の顔色を窺い、無理に本音を抑えるという行動です。これは、「自由」という言葉の意味の捉え方と対応しているように思います。すなわち、権力からの自由という意味において「自由」を捉えれば、それは「みずから」の意味しか持たなくなり、「自粛」についても「暗黙の強制的ルール」という負の意味しか持たなくなるからです。

 本来、「おのずから」の意味を含む自粛とは、強制ではなく欲求であるはずだと思います。例えば、ニュースを通じて避難所を歩き回って肉親の安否を探る人々の顔を見たとき、自宅があった場所に呆然と立ち尽くす人の顔を見たとき、津波で両親を失った幼い子どもの顔を見たとき、がれきの周りで自衛隊の救出活動を見守るしかない人の顔を見たとき、私は被災地以外から何かを語ること自体が、何か分を越えたこと、分を過ぎたことをしているような気になります。この瞬間の気持ちは、決して遠慮や罪悪感などではなく、厳粛かつ粛然とした気持ちであり、「自粛」という単語が生み出された契機に立ち会っているような感じがします。
 震災後の「自粛ムード」が経済活動を停滞させることは、全くその通りだと思います。消費経済は、安い物では満足できず高い物が欲しくなる、古い物では満足できずに新しい物が欲しくなるという人間の欲望の発現において回るものだからです。これに対して、被災地で肉親が行方不明となり、「必ず生きている」という希望を持って避難所を探し回っても見つからず、「とにかく会いたい」という絶望の中で遺体安置所を探し回ることを強いられる人間の行為は、いかなる意味でも経済活動には結びつかないのだと感じます。

 被災地以外で従来通り生きる者は、「自粛」をムードとして感じる限り、いつまで自粛しなければならないのか、イライラせざるを得ないと思います。そして、被災地の人々から「私達も過度の自粛は望んでいない」との声が出れば、これにすぐに飛びつき、安心するのだと思います。

虚礼

2011-03-24 00:09:29 | 言語・論理・構造
 震災が起きてから、「拝啓」に続く季節の挨拶が書きにくくなりました。ビジネス文書のマニュアル本を見ると、3月の欄には、「春光天地に満ちて快い時候」「木々の緑日毎に色めく季節」「天も地も躍動の春」「ものみな栄えゆく春」といった例文が目白押しです。さらには、「日の光には春らしさが感じられ心まで浮き立つ思いが致します」「高校野球の球音が聞こえるようになると春たけなわの感が致します」といった凝りすぎのものも並んでいます。

 震災後は、「ますますご清栄のこととお慶び申し上げます」といった素っ気ないもので済ませるようになりました。私の心の奥底には、人間としてそのような気持ちになれるはずがない、という倫理観があります。しかしながら、現実にそのような行動を取っている動機は、非常識な人間だと思われたくないという保身です。今は世間的に何を言うとヒンシュクを買うのか、場の空気を読んでいるわけです。

 それでは、「拝啓」に続いて「被災地の皆様に心よりお見舞いを申し上げます」「1日も早い復興をお祈りいたします」といった挨拶が書けるかというと、これも書くことができません。いわゆる「相手方に失礼な表現」にあたるからです。私自身、このように書かれた文書を受け取りましたが、一瞬、何とも言えない違和感を覚えました。私に向かって祈られても困りますし、お見舞いを言われても困るからです。

 ビジネス文書において、「心よりお見舞い申し上げます」「復興をお祈りいたします」といった表現が適当なのは、不特定多数への通信の場合です。この媒体としては、ダイレクトメール、FAX、電子メール、電子掲示板などがあり、震災以降はどれも判で押したようにお見舞いとお祈りが行われています。そして、この媒体はどれも「関係者各位」に向けられたものであり、被災者が目にすることはまずありません。すなわち、お見舞いをしていること、祈っていることそれ自体が目的です。

 人間の倫理の筋としては、被災地の苦しみを一緒に苦しみたいが、自らが経験していない苦しみはなかなか苦しむことができない、という手順を取るのが自然であると思います。しかし、効率性が最重要のビジネスの現場においては、このような筋に沿って物事を考えることは、非常に困難であると感じます。私自身、「目の前で肉親が津波に流されることに比べれば計画停電など大したことではない」と思っていたはずが、いつの間にか計画停電による不便が最大の問題となってしまっています。その上で、ぬけぬけと「被災地の皆様に心よりお見舞いを申し上げます」などと書いています。

企業の顧問弁護士の思考術 その2

2010-12-08 00:05:38 | 言語・論理・構造
(その1から続きます)

 人事部長は堰を切ったように、休職中の社員に対する悪感情を語り始めた。この程度のことで社員に休職されては、会社としてはたまったものではない。組織内での理不尽な叱責など、世界中どこにでもある話であり、これに耐えられないような人材は不要である。使い物にならない。会社とは利益の追求が第一であり、役に立たない脱落者に足を引っ張られている暇はない。そして、このような社員の健康管理にまで会社が面倒を見なければならないとなると、会社としてコストがかかり過ぎる。
 問題の中心はこの点である。社員の精神衛生への対策を怠り、賠償金を支払ったという前例が一旦できてしまうと、会社としてはこの問題に取り組まざるを得なくなり、莫大なコストの問題が生じることとなる。従って、社員に精神面の健康を害されてはならない。そして、今回のトラブルについても、パワハラなど存在していては非常に困ることになる。個々の上司の行為がパワハラに該当するか否かについて、具体的な証拠を集めて正解を探ることは、実のところ本題ではない。
 人事部長が把握している問題の中心がこのようなものであれば、ここに切り込まない限り、問題は重箱の隅へと移る。しかしながら、彼が今回取り組むべき問題は、「パワハラの事実があったか否か」「上司の行為がパワハラに該当するか否か」のみである。問題の結論が利権によって左右される点はわかりやすいが、問題の立て方自体が利権によって左右されている点を見抜くことは難しい。そして、答えにくい問いや都合の悪い問いは、いつの間にか別の問いの形に変わっているものである。

 数週間後、人事部長が社員の辞表と手土産を携えて彼の事務所を訪れた。辞表には「一身上の都合にて退職致します。私事にて体調を崩し、貴社にご迷惑をお掛けしたことを深くお詫び致します」と書かれている。人事部長は、このお詫びは社会人として当然のことであると言った。パワハラなど存在していないにもかかわらず、実際に体調を崩したのだから、これは社会人としての健康管理を怠ったとしか考えようがないとも言った。彼は、上司によって心を折られた社員に最後の一撃を与えたのは人事部であると知った。
 法的定義によってパワハラと言われるところの事実が存在したのかしないのか。この事実を見誤らず、客観的かつ正確に把握するためには、複眼的な視点が要求される。結論を決めない状態のまま、対立する双方の立場からものを見てみなければならない。しかしながら、顧問先に敵対する側の立場からものを見て、軸がぶれてしまうことは、弁護士にとっては顧問先を失う恐怖を呼び起こす。従って、ここで言う複数の視点とは、あくまでも最初から結論を決めたうえで、相手方の弱点に付け込むものでなければならない。
 彼の知る限り、顧問弁護士というものは、誰しも最初から結論を決めている。病院の顧問弁護士であれば、医療過誤は存在しない。学校の顧問弁護士であれば、いじめは存在しない。そして、彼にとってもパワハラや過労死は存在しない。死人に口なしとばかりに、顧問先の行為と死との間には因果関係が存在しないことを主張する。これは、顧問料を受け取ることによって、死者を悼む気持ちをお金で売り渡したことを意味する。

 人事部長は、「また何かあればお願いします」と述べて、機嫌よく帰っていった。顧問弁護士にとっては、また何かあってもらわなければ困るところがある。会社がいつも平穏無事であり、法的トラブルが全く起こらず、弁護士への相談事も生じないとなれば、当然ながら高い顧問料がもったいないという話になるからである。これも会社のコストの問題である。弁護士にとっては、顧問契約を結んだ瞬間から、その打ち切りを言い渡される不安と向き合うことになる。
 顧問契約がこのようなコスト感覚のうえに成り立っている以上、彼としても、会社のコストの問題を第一として事実を捉えなければならない。パワハラや過労死についても、社員の人生や生命の側からものを見ることは、顧問契約上の義務に違背する危険を生じる。あくまでも経営者の側に立って、実際にパワハラや過労死が生じた場合の賠償金の支払いと、その予防にかかるコストを比較して、最も経済的に有利なアドバイスをするのが顧問弁護士の役割である。
 「お金にはならないがやり甲斐のある仕事」をするためには、顧問料による後ろ盾が是非とも必要である。しかしながら、顧問先の会社を失わないためには、その会社でパワハラなどのトラブルが定期的に起きてもらわなくては困る。しかも、彼に求められている仕事は、その会社にはパワハラなど存在しないと言い張ることである。顧問弁護士は、この自己欺瞞の空白を埋めるため、「お金にはならないがやり甲斐のある仕事」を求め、さらなる新規の顧問先の開拓を行う。他人の死に対する感受性はますます鈍る。そして、自分だけは死にたくない。すべてはこの点につながっている。


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フィクションです。

企業の顧問弁護士の思考術 その1

2010-12-06 23:08:17 | 言語・論理・構造
 弁護士を志す者は、多かれ少なかれ、当初は「お金にはならないがやり甲斐のある仕事」を求める。自分でなければできない仕事に人生を賭けたいとの希望を抱いている。ところが、実際問題として壁になるのは、やはり経済的な問題である。現実に何らかの不測の事態が起き、収入が途絶えた場合の不安については、自由業者は会社員と同等かそれ以上に切実である。
 経済的な恐怖感は、「お金にはならないがやり甲斐のある仕事」を求めていた当初の希望を、世間知らずの戯言であったとして自己批判の対象とする。経営感覚のない理想論を追求した挙句に収支を悪化させ、社会人失格の烙印を押されてしまえば、世間的な冷笑によって打ちのめされることになる。こうして、多くの弁護士が仕事を選ぶ際の第一の基準は、いつの間にか「元が取れるか取れないか」に変わり、さらには「儲かるか儲からないか」に変わっていく。
 それでは、このような圧力に流されず、あくまでも信念を通すために最も有効な手段と考えられているものは何か。それは、安定した顧問先を持つことである。弁護士は法律顧問が多ければ多いほど、定期の収入が見込めるからである。この確実性は、単発の収入とは格段の差である。弁護士は顧問料という後ろ盾によって、経営の問題のみに追い回されることなく、お金にはならない仕事に取り組む余裕が生じてくる。

 ある日、彼が法律顧問をしている会社の人事部長が、彼の事務所を訪れてきた。今回の問題はパワハラである。ある社員が上司から暴言や社内いじめを受けるなどして精神を病み、出社できなくなり休職中とのことであった。人事部長は、その社員に郵送する予定の連絡書を持参し、彼の意見を求めてきた。
 彼はその書類に目を通した。「人事部において事実関係を詳細に調査いたしましたが、パワハラに該当する事実は確認できませんでした。」「会社としましては、貴殿の属する部署にはパワハラなどない良き上司を配置しております。」「貴殿の主張は事実無根であり、これ以上貴殿が争われるのであれば、当社は顧問弁護士と協議のうえ法的措置を採ることを検討せざるを得なくなります。」
 この人事部長は、社員の体力を上手に奪う方法を心得ている。会社からこのような書類を送られた社員は、当初のパワハラによる絶望よりも、より質が悪くかつ根が深い絶望に直面する。これは直線的な絶望の並列ではなく、その絶望を否定するための根拠となる基準自体を破壊された状態であり、人は救いのないまま八方塞がりの状況となる。これがパワハラの特質である。そして、社員が「こんな会社辞めてやる」と思ってくれれば、人事部のシナリオ通りとなる。

 法律顧問である弁護士に求められていることは、パワハラに関する彼自身の政治的意見を述べることではなく、あくまでも法律文書のチェックである。必要なことを書き漏らしていないか。そして、後に問題となるような余計なことを書いていないか。人は自身が求めている仕事と他者から求められている仕事にギャップが生じた場合、それを何とか埋めようとする。それは多くの場合、仕事のほうではなく自身の求めを譲歩する。
 彼はパワハラの有無を人事部長に尋ねた。書類に書かれているとおり、人事部としては、社員が申し出たような事実を確認することはできなかったとのことである。そして、具体的なパワハラがあったという証拠や証言は出てきていない。人事部は、社員と上司の双方の話を公平に聞いたが、パワハラが存在したとの結論に至ることはできなかった。パワハラを受けたという社員が、自分でそのように言っているだけとのことである。
 次の瞬間、彼の事務所において、パワハラは存在しないことに確定した。ある人間の行為がパワハラに該当するか否か。それは、それを論ずる者の立場で決まり、その立場の上下や力関係によって決まる。顧問弁護士にとっては、会社内の立場や利権が直接に絡むことはない。それでは、彼において、パワハラが存在しないとの結論に至った決定的な理由はなにか。それは一言で言えば、「顧問先を失うことが怖い」という点に帰着する。

(その2に続きます)

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フィクションです。

示談交渉の打ち合わせの光景  その2・弁護士の事情

2010-06-14 23:34:07 | 言語・論理・構造
 弁護士にとって何よりも困るのが、「お金の問題ではない」と言う依頼者である。弁護士という仕事は、すべての問題に無理矢理お金で片を付けて終わらせることしかできない。これは弁護士の力不足のせいではなく、金銭的な損害賠償しか認めない法律のせいである。
 「お金などいらない」と綺麗事を言っていても、心底ではお金が欲しいのだという依頼者は、まだ説得がしやすい。このような依頼者は、単に私怨を晴らすために弁護士を使っているからであり、札束を見ればやはり目尻が下がるからである。この種の依頼者に対しては、「お金などいらない」という言葉を信じて安い金額で和解し、後になって職務怠慢を責められることだけに注意を払っておけばよい。
 これに対して、本当にお金に価値を認めない依頼者は、弁護士としては本当に困ってしまう。請求すべき賠償額が決まらないのでは、交渉の相手方に対して条件が提示できず、相手方の弁護士にも迷惑がかかるからである。さらには、依頼者を説得できない代理人だとして嘲笑の対象となるからであり、ひいては訳のわからない主張をする事務所だと言われて信用が下がるからである。

 依頼者の女性は、打ち合わせの際に、まずは加害者側の謝罪文を読みたいと希望した。そして、謝罪の意志が込められていない示談金など断じて受け取りたくないと言った。 弁護士としては、この言葉をそのまま加害者側の弁護士に伝えるわけにはいかない。法律的に洗練されていない主張を、そのままの形で交渉の場に出してしまっては、プロとして恥ずかしいからである。
 弁護士としても、お金の額ではなく誠意が問題なのだという依頼者の気持ちは、人間としては当然わかる。しかし、物事には相場というものがある。この事件の示談金の相場は、過去の判例からすれば、300万円程度である。そうであれば、依頼者にはこの金額を受け取ってもらわないと、弁護士としては立場がない。
 もちろん、この依頼者の女性は、本来300万円の賠償金が取れるところを、弁護士が真剣に交渉しなかったために取り損なったと文句を言うことはない。問題はその先である。いかに依頼者がお金はいらないと望んだところで、この業界には、300万円の事件は300万円の事件らしく解決しなければならないという暗黙のルールがある。
 ここで、相場よりも明らかに安い額での示談に応じることは、相手方の弁護士の値切り交渉に簡単に屈したということであり、力不足で自分の側の依頼者を値切ったということである。この抗い難い構造は、実際は違うのだといかに説明したところで、壊すことができない。従って、依頼者にはどうしても300万円を受け取ってもらわなければならない。

 示談交渉とは、勝負事である。しかも、あくまでも代理戦争である以上、代理人に対して相互に礼儀を尽くさなければならない。代理人同士が真剣に喧嘩をするのは恥すべきことであり、喧嘩腰は依頼者への表面上のポーズである。
 もしも300万円の賠償が相場なのであれば、被害者側としては、最初は400万円程度の数字を吹っかけておくのが常識である。そうすれば、加害者側からも200万円程度しか払えないという主張が出てくる。こうなれば、話は単純である。先方の金額とこちらの金額の差を徐々にすり合わせて、折衷案でまとめればよい。
 ほとんどの事件では、賠償金を請求する依頼者の不満は、「賠償金が安い」という点に集約される。そして、このような依頼者の説得は簡単である。お金に価値を認めるという根本の部分において、お金を支払う側と一致しているからである。「お金が欲しい」という者は「お金を払いたくない」という者を理解し、「お金を払いたくない」という者は「お金が欲しい」という者を理解する。
 これに対して、「お金の問題ではない」という依頼者は、どうにも説得ができない。よって、その説得は、「お金の問題である」という方向に強引に引きずり込むものとなる。

 弁護士は、300万円の札束を彼女の前に置いた。彼女の顔の筋肉はピクリとも動かなかった。あからさまに汚い物を見るようでもなく、苦痛に歪むわけでもなく、全くの無表情であった。お金に価値を認めないというのは、まさにこのようなことである。そして、弁護士にドッと疲れが押し寄せるのはこのような瞬間である。
 彼女は、この世にはお金以外に誠意を表す方法はないのかと訊いた。弁護士は言葉に詰まり、その場の空気を和ませるため、「金はいらないから一発殴りたいという方もいらっしゃいますが、そういうのは違法ですね」と言って笑った。彼女の顔には明らかな軽蔑の色が浮かび、弁護士の笑い顔は引きつった。
 お金ではない、言葉だけが信用できるのだと彼女は言った。弁護士は、「300万円払います」という言葉がどうして信用できるのかと聞き返した。口先の約束など、いくらでも破られる。実印を押した念書であっても、踏み倒された上に自己破産されてしまえば、ただの紙切れに等しい。信用してよいのは、目の前の現金か預金通帳の数字だけである。言葉での誠意ほど信用できないものはない。言葉はタダである。
 彼女は笑いながら、「やはり、誠意はお金以外にないんですね」と言った。弁護士が安心したように頷くと、彼女は続けて言った。「この300万円に誠意が感じられない理由がよくわかりました」。


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フィクションです。