犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「正しい」ということについて

2013-03-01 22:23:05 | 言語・論理・構造

 1月19日~20日に行われた大学入試センター試験において、国語の平均点が過去最低となり、小林秀雄の難解な文章が出題されたせいではないかとの分析が見られました。私も昔にセンター試験を受けた者として、最近感じていることも含め、考えるところが色々ありました。

 知的エリートの陥穽として言い古されていることは、マークシート方式の問いでは「正しいもの」をマークする技術を身につけていれば、必ず点数が取れるということです。対策をすれば点数が取れ、しなければ取れないという簡単な法則です。そこでは、採点する側の身になり、出題者の意図に応えることが必要になります。これは、限られた時間内で勝負が決まるルールの枠に従うということです。

 ここで求められることは、「自分はこう思う」という意志を排して、「ここでの正解はこちらだろう」という見極めを行い、出題者に媚を売るということです。決められたルールに従って正解を選ぶ作業のすべては、義務や強制ではなく、自由意志に基づくものです。読解力がありすぎる者ほど、ここでは正解が出しにくくなります。ゆえに、この矛盾が気にならない能力とは、競争社会で生き残る能力に類似するものと思います。

 私が法律に携わる仕事に就いて気がついたことは、資格試験の難関を突破した者が有している独特の「正義」の感覚でした。すなわち、正解を選び取る能力に長けた人物が有しているところの「正しい」という概念からの派生です。法の正義の起点は、各人の「正しさ」の捉え方に左右されるからです。そして、論理によって選び取られた正義は、悪を断罪します。客観性のある理由付けを伴って、「あなたは正しく理解していない」という批判が可能になるということです。

 しかしながら、人生における真に深刻な問題は、正解のない問題です。これを解こうとするということは、過酷な運命を生きつつ、人生そのものの生き様において問題に立ち向かい、倒され、あるいは最初から立ち向かえずにいることです。このような人生の難問を抱えた者と、「正しさ」に対して確信のある司法エリートが会話をする場面は、非常にちぐはぐになります。正しさの内容が問われないまま、「正義」という形式だけが自信満々に主張されるからです。

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