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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

阪神・淡路大震災 17年 その1

2012-01-17 23:37:01 | 時間・生死・人生

 関東地方に暮らしていた私にとって、阪神・淡路大震災はテレビの中の出来事でした。画面の中で淡々と「家族の誰と誰が亡くなった」と語る方々の姿を見ると、私は「自分には何もできない」という無力感に苛まれましたが、これも日々の生活に紛れて長続きしませんでした。その後、毎年1月17日が来るたびに私が感じていたのは、実際に震災を体験した方々との温度差の拡大です。私が毎年風化させていた記憶は、震災のニュースをテレビで見ている自分自身の心理状態でした。

 10年目を過ぎた頃から、毎年1月17日の「語り継ぐ」「忘れない」という言葉に、私は一種の重さを感じ、反射的に避けたいと思う気持ちが支配的になってきました。他方で、「復興」「再生」という言葉は、私の気持ちを楽にさせるものでした。これは、10年も経つと、1月17日以外はほとんど阪神・淡路大震災を思い出すこともないという現実があり、それに対する私の後ろめたさが反映していたものです。被災地は完全に復興したというニュースに喜びを覚えれば、私はこの大震災を終わった過去にすることができました。

 東日本大震災により、再び「復興」という単語を日常的に耳にする機会が増え、私は、この単語が被災地の内と外で使われるときの微妙な違いに思いが至りました。人間は当たり前のこととして、倒壊した自宅の下に思い出の品を求めざるを得ません。これは、震災が起きる前の昔とのつながりを確保するためです。また、元の場所に元の通りの建物を建てたいと願う方々の言葉をテレビでよく聞きました。体が家の間取りを覚えている以上、これも当然のことと思います。

 人は単語を辞書的に使っているわけではありませんが、「復興」という単語の使用に自然と現れる意味は、被災地の内外で異なるものと思います。「復」とは「戻る」「帰る」の意であり、熟語には「復元」「復旧」「復縁」などがあります。時間に方向性を見出すことはそれ自体が錯覚ですが、この時間軸の動きは、明らかに過去に向かっています。そして、被災地の方々における「復興」の言葉は、震災前の過去に戻りたいという思いと無関係ではあり得なかったと思います。これに対して、被災地の外側の解釈は、「復興」の言葉の中に、正反対の時間軸である未来を読み込んでいました。

(続きます。)

復興需要を被災者雇用に生かす その3

2011-11-28 00:03:12 | 時間・生死・人生
 被災地の雇用問題を復興需要に結びつける議論は、科学的・分析的手法を大前提としているように思います。そこにおける人間は、「使用者」「労働者」「消費者」といったように一般化され、学問的な思考の構造に引き付けて理解されています。すなわち、識者が把握する雇用問題の構造に応じて、社会のあらゆる場面が一定の形で理解され、震災の現場もその中の1つに入っているということです。ここでは、主はあくまでも雇用問題であり、震災は従たる位置づけです。
 このような議論の範疇に入っている被災者は、「働きたいが仕事がない」という者のみであり、「PTSDで仕事に戻れない」「虚脱感で働く意欲も湧かない」という被災者は度外視されているように思います。一般的にはニートの増加や生活保護制度の破綻の問題として語られている問題が、ここでは除かれているということです。「家族が行方不明のままで探し続けなければならず仕事どころではない」「再就職したところで仕事が手に付かず迷惑を掛ける」という場面は、雇用問題の枠組みでは受け止めることができません。

 もともと、科学的・分析的手法は、問題を論点主義的に捉える特徴を持っているように思います。例えば、失業率を低下させるという目的においては、前月よりもその数字が減れば、目標に近づいたということで事足ります。しかしながら、雇用された者においては、新たに長時間労働・低賃金・サービス残業・賃金未払い・パワハラ・過労死・過労自殺といった問題に向き合うことを余儀なくされます。これらの問題は、失業率の問題とは理屈の上では別ですが、個人の人生においては一連のものです。
 過労死や過労自殺で命を落とすのであれば、失業していたほうが良かったことは言うまでもなく、雇用されたのが間違いの始まりであったということになります。「働く人を大切に」「命を大切に」とのスローガンが空疎な理想論ではないとするならば、失業状態を脱して仕事を見つけることが、必ずしもプラスの価値にならない関係は認めざるを得ないものと思います。そして、通常雇用問題が議論されるときには、個人の大切さが叫ばれながら、個人の人生を単位として考えられることがないように感じます。

 被災地の声を真摯に聞くということであれば、「働きたいが仕事がない」という声よりも、「言葉にならない凄絶な体験及びその後の心境の変化に耳を傾けてほしい」という声に先に気付くことが、人間として正常な感覚であると思います。但し、後者の声を聞く場面では、お金は回らず、経済は動きません。そして、後者の声を聞く者の存在は、10年後、20年後にますます必要とされ、経済や労働の問題とは常時次元を異にし、交わることがないように思われます。
 知人の友人にとって、「復興需要を被災者雇用に生かす」という言葉が聞きたくないのは、その中に被災地の外からの圧力を感じるからだとのことでした。「いつまでも落ち込んでないで復興のために働け」ということです。彼は家族全員が無事であり、自宅にも被害がないため、事態を冷静に客観視していますが、想像を絶する被害を前にして気が張っている方々は、「復興需要を被災者雇用に生かす」という言葉を真剣に受け止めがちのようです。彼は、復興した後が本当に恐ろしいと語っていました。私もそう思います。

復興需要を被災者雇用に生かす その2

2011-11-26 23:46:03 | 時間・生死・人生
 人は目の前の仕事に集中することにより、その一瞬の間は他の苦しみを忘れ、気を紛らわすことができます。但し、仕事に集中できないほどの苦しみは、組織的な作業に支障を生じさせるものであり、問題の次元を異にするように思います。

 どんなに小さな企業であっても、2人以上の人間で仕事をする際には、お互いの脳内で抽象概念としてのシステムを共有することが不可欠です。そして、仕事の見通しが立たないとき、仕事の流れが悪いとき、人はイライラします。組織的に仕事をする際には、複雑な現象をステレオタイプに押し込めて単純化することが必要です。人間の情報処理能力には限界があり、短時間で情報を処理しなければ仕事は溜まる一方だからです。
 情報化社会のビジネスの現場を生き抜くには、人はこのステレオタイプに順応する必要があり、問題を効率的に処理する必要が生じます。さらには、これに伴う苛立ちや怯えといったストレスをやり過ごし、抑うつや人格障害に陥らず、精神衛生状態を健康に保つことが必要です。これが、震災前に一般的に言われていた労働環境の問題であり、被災地以外の場所で変わらずに続いている問題だと思います。

 人間は、仕事でミスをして会社に大損害を生じさせたり、不当に責任を負わされたりすれば、「大地震が起きて会社も何もかも潰れればいい」との希望を持たざるを得ないものです。また、理不尽な恫喝をする上司や取引先に対しては、瞬間的な殺意を覚えるものです。これが「社会の中で仕事をする」ということだと思います。
 この抽象概念を脳内で共有する同僚が津波で海に流されて3月11日の午後から戻らないこと、見えないシステムを可視化する書類やパソコンのデータは一瞬で無になるとを知ってしまったこと、これらの事実を前にしては、「社会の中で仕事をする」ことの価値は無意味となります。既存の価値観の壊滅を前にしては、競争社会に参加することも無意味であり、年収格差に嫉妬することも無意味です。

 「人はなぜ働くのか」「働くとはどのようなことか」という哲学的な問いは、実際に働いている人間が棚上げしている問題だと思います。人は生きなければならない、従って食べなければならない、よってお金を稼がなければならない、ゆえにお金を稼いで食べて生きるためには働かなければならないとなれば、問題は振り出しに戻ります。「復興需要を被災者雇用に生かす」との政策論は、被災地の問いへの解答となるものではありません。
 「働きたいのに仕事がない」との平時の問題意識は、被災地の雇用の問題には的外れです。少なくとも、肉親を失うこと、家を失うこと、財産を失うこと、職を失うこと、これらを並列したうえで復興に結びつける議論は、実際に被災地で苦しんでいる方々には雑音以上の暴力であるとの印象を受けます。

(続きます。)

復興需要を被災者雇用に生かす その1

2011-11-25 23:42:38 | 時間・生死・人生
 先日、被災地の知人のそのまた友人の話を聞く機会がありました。彼は家族を失ったわけではなく、自宅を流されたわけでもありませんが、仕事を辞めました。彼が語った率直なところと、私が考えたことを合わせて書いてみたいと思います。

 彼の周囲では、5月から9月にかけて自ら命を断った方々が数人います。このようなニュースは、「復興に向けた力強い歩み」の陰で扱いが小さいですが、そもそも「せっかく助かった命がなぜ失われるのか」という問いには答える気にならないと言います。遺書を書く余裕もなければ、その動機の推定は経済的な問題に集約され、本人の反論も許されないまま震災関連死と命名され、「一刻も早い対策が求められる」で終わりです。
 彼が今最も聞きたくない言葉が、「復興需要を被災者雇用に生かす」という言い回しだとのことです。復興を雇用に結び付けるとは、がれき処理や仮設住宅に関する公共事業に伴う仕事を被災者に回すということであり、具体的には建設業者に発注する際には被災地のハローワークで求人を行い、広く情報を共有するということです。

 私が感じたことは、不況による失業がもたらす喪失感、うつ病、自殺といった従来の問題に対応する場合の理論は、震災の場合には完全に的を外すということでした。被災地における喪失感の象徴が「がれき」です。これは、「がれき」と名付けられたことによりがれきになったものであり、3月11日の午前中までは「念願のマイホーム」や「思い出の詰まった家具」などと呼ばれていたものです。復興需要を被災者雇用に生かすとなれば、この辺りの繊細な感情は問答無用で切り捨てです。
 津波で全てが流されたにも関わらず、これが1日も早く復興できるということは、流されたのはその程度のものであったということです。3月11日の午前中まで積み上げてきた仕事が重いものであればあるほど、簡単に復興してしまっては、真摯に仕事に取り組んできた者にとっては救われないはずです。「復興などできない」と言われたほうが、よっぽど救いようがあると思います。

 このようにして復興した先にある仕事は、その中に破壊の不安を含んでいます。これは、今後30年で三陸沖北部から房総沖で再度M8以上の地震が発生する確率が30%であるという具体的な数字の話ではなく、人間が平時には棚上げしている実存不安の問題です。すなわち、真面目に物事を考えれば必ず突き当たるところの、「なぜ働くのか」「なぜ生きるのか」という根本的な問題です。

(続きます。)

ある日の弁護士の日記 その2

2011-11-03 00:01:53 | 時間・生死・人生
 私はその後、今日まで5人の依頼者の死を経験してきた。依頼者の親族から死の一報を聞かされた瞬間の衝撃は、やはり言葉にならない。しかしながら、哲学的な生死の問題意識の糸口を上手く掴めなくなってきたことだけは確かである。私は、「せめて最期の瞬間くらいは法律的な心配から解放されて、少しでも安らかに逝ってほしい」と通俗的に願い、自分の仕事がそれに寄与しているであろうと決めつけ、自分の気持ちを誤魔化した。その思いすら、香典をいくら包むかという現実問題の前には流された。
 私の仕事は常時忙しく、不倫の慰謝料請求、ネット上での名誉棄損に対する慰謝料請求、不動産の立ち退きや賃料不払いなど、同時並行で目が回りそうな時もあった。そして、このような状況の真っ只中に、依頼者の死の報を受けたとき、私は自分の生命に対する感覚が鈍っていることを思い知らされた。「弁護士という生き物は、どうして犯罪や事故の死者に対して冷たいのか」という学生時代の謎も、徐々に解けてきた。それは、次々と効率的に事務を処理している者の目から見ると、哲学的な生死の問題は浮世離れしているという単純な理由であった。

 私が依頼者の死を体験した2人目は、70代の男性であった。最初の30代の女性との違いは、初対面の打ち合わせの段階で、本人の口からガンの病状と余命が私に説明されていたことである。彼は小規模な建設会社の社長を長年務めていたが、不況の影響で業績が悪化し、倒産が避けられない状況となっていた。時を同じくして、体調不良を感じ病院の検査を受けたところ、進行ガンが発見され、すでに手術は難しい状態であった。
 彼の話は豪放磊落であり、私には余命を宣告されている者の言葉とは思えなかった。彼の周囲では、中小企業の社長が脳卒中や心筋梗塞で突然倒れることが多く、彼もそのような死に方をするものと思っていたとのことである。中小企業の社長は、仕事のストレスで命を縮めることが多く、そのストレスを解消するための暴飲暴食によって命を縮めることも多い。人は、どんなに命を縮めるとわかっていても、その時にはそうとしかできないことがある。私は、まるで自分自身の生活習慣を指摘されているようであった。

 倒産寸前の会社は、人間の私利私欲を露わにする。弁護士の腕の見せ所は、使途不明金の説明をいかに上手く付けるか、脱税や偏頗弁済が疑われる証拠をいかに上手く処理するか、といった点にあると言ってもよい。社長からの依頼の趣旨は単純であった。自身の死を前にした身辺整理である。すなわち、会社の倒産と社長の死によって、妻と兄妹には社長の個人保証の債務が相続されるため、プラスの財産をゼロにし、相続放棄をすれば済むような状態を作っておくことであった。私は形だけの株主総会議事録を作り、その瞬間に妻も会社の代表者となった。
 社長が法律事務所に来ることができたのは、最初の1回だけであった。以後は私が定期的に電話していたが、やがて社長は話ができる状態ではなくなり、妻が社長の携帯電話に出るようになった。妻は私に対し、日に日に衰える夫の状態を涙ながらに語り、夫に死なれる恐怖を訴えた。私の当初の悩みは、電話口でただ頷くことしかできない無力感であった。電話の回数が増えると、私の悩みは、山積みの仕事を前にした長電話が深夜残業をもたらし、不規則な食生活が私の命を縮めている点に移ってきた。

 社長の妻から彼の死を電話で聞かされたとき、私はほとんど動揺しなかった。私は慎重に言葉を選び、無理に声のトーンを低くした。社長の最後の望みは、「最後くらいお金を好きなように使わせてほしい」とのことであった。私は、その望みを正義であると判断し、そのお金を債権者への返済や滞納している税金の支払いに充てることを不正義であると判断し、弁護士としての屁理屈を駆使して正義を実現した。私の中には、このような悩みは悩むに値しないとの妙な確信があった。
 私の思考が混乱したのは、やはりボス弁の言葉がきっかけであった。何件もの倒産事件を手掛け、裁判所と破産管財人を相手に苦労してきたボス弁は、この案件が簡単に進むことを喜んだ。依頼者というものは、つい感情が先走り、弁護士との打ち合わせに反して余計なことを裁判官に話してしまう傾向があり、それが面倒な仕事を増やす。しかしながら、依頼者が死者であれば、その心配が全くない。しかも、危ない質問については、弁護士は「すべて社長が勝手にやっていました」で逃げればよい。私は、「下手に長生きされないで助かった」とのボス弁の言葉を聞き、自分の心はそれを否定できないことに気付いた。

(続きます。)

ある日の弁護士の日記 その1

2011-11-01 00:04:58 | 時間・生死・人生
 自分が死ぬ。他の誰かではない、この自分が死ぬ。
 自分はこの世に生まれて来た以上、いつかは必ず死ななければならないこと、この真実は当然理解しているはずである。しかしながら、人生の残り時間が明確に突きつけられたときの覚悟については、全くできているとは言えない。自分の死は、必ず訪れるとしても、それは未だ遠い先の日のことである。そして、私は社会に出て、責任ある仕事を任され、目の前の仕事に没頭することにより、その日をさらに遠ざけてきた。
 哲学的な思考を純粋に深められた学生時代の自分に言わせれば、今の自分は、「日々の雑事」に埋もれて頽落している状態である。他方で、学生時代に至ったはずの「その日」への覚悟に関しては、やはり机上の空論に過ぎなかった。何らの社会経験を経ず、生死に関する思考を明確に掴んでいた自分は、自分を含めた客観性に関して切羽詰まってはいなかった。

 私が弁護士として、学生時代に達した生死に関する認識を最初に打ち砕かれたのは、3年前のことである。その債務整理案件の依頼者は、30代の女性であった。彼女は買い物依存症に陥り、カード破産寸前であった。弁護士の介入によってグレーゾーン金利は減り、残債務については夫の協力も得て、何とか一括払いで片を付けることができた。
 彼女は、法律事務所での打ち合わせに3回来所した。私は、冗談を交えて彼女を励まし、人々を買い物依存症に誘い込む現在の消費社会の問題点を指摘し、彼女の硬い笑顔をほぐそうと努めた。そして、今後は買い物依存症に陥ることのないよう、精神科医からの知識を借りて、丁寧にアドバイスをした。私は、彼女が今後は借金の心配などしない人生を送ることを心から祈り、自分が行った処理がその役に立つことを確かに願っていた。

 その2か月後、彼女の夫からの電話により、私は彼女の死を突然知らされた。彼女は、初めて法律事務所に来た時から、すでにガンに冒されていた。夫によれば、医師に余命を宣告された後も、彼女は生きる希望を失わず、弁護士への依頼もいわゆる身辺整理ではなかったとのことである。私は、つい2か月前に彼女が座っていた椅子を目の前にしながら、彼女の明るい笑顔に一瞬よぎった影を思い起こし、自分の迂闊さと愚かさを恥じた。そして、彼女の目が見た法律事務所の光景や、彼女の耳が聞いた私の声の記憶はどこへ行ってしまったのかと思った。
 彼女は、30代の若さで死ぬことを断じて受け入れていなかったのであれば、私が行なった将来へのアドバイスも、彼女の希望と一致している。自分の思考がこのような方向に逃げようとしたとき、私のアドバイスを笑いながら黙って聞いていた彼女の心中を想像し、私は谷底に突き落とされた。私は彼女に軽蔑されていた。病状について自分にも教えてほしかったと願うことが愚かだと知りながら、その願いを消すことができなかった。

 私が彼女から依頼された案件は、単に彼女の死後、夫や親族にマイナスの相続財産を残さないための法的処理である。そして、私はその案件を完璧にこなした。彼女の死について、私は彼女から全く相手にされていなかった。彼女が私に託した「死後の世界」は、彼女を抜きにして進んでいくこの経済社会であり、私は現に「彼女の死後の世界」を生きている。そして彼女自身の「死後の世界」について、私は何も責任を負わないで済むということは、自分の将来に死が大きく口を開けていることに他ならない。
 彼女の死を知り、ボス弁は私に対し、本当に彼女の病気を知らなかったのかと問い詰めた。もし死期が近いのであれば、支払いを先延ばしして彼女の死を待ち、そのうえで家族が相続放棄をすれば済む話であり、夫が債務を肩代わりする必要はない。従って、払う必要のないお金を夫に払わせてしまったのではないか、弁護過誤により彼女の夫から懲戒請求を受ける危険はないのかというのが、ボス弁の懸念であった。私は、ボス弁に対し、自分は本当に彼女の病状を知らなかったのだと繰り返し弁解した。これが私の頽落の始まりであった。

(続きます。)

宮城県山元町・常磐山元自動車学校の裁判

2011-10-28 00:04:23 | 時間・生死・人生
(10月14日 毎日新聞ニュースより)

 宮城県山元町の常磐山元自動車学校の送迎車に乗車中や徒歩で帰宅途中、東日本大震災の大津波にのまれて亡くなった教習生25人の遺族が14日、学校側などに計約19億円の賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。「安全配慮義務を怠った」などと主張している。提訴したのは、死亡した18~19歳の教習生の遺族で、宮城と福島県に住む46人。
 訴状によると、学校側は巨大地震後、教習生らをバス内に待機させ、発生から約50分後の午後3時35分~同45分ごろ送迎車を出発させた。大津波は同50分ごろ沿岸部に到達。送迎車4台が津波にのまれ、乗っていた23人が死亡したほか、路上教習先から学校に戻されて徒歩で帰宅途中だった2人も死亡した。
 遺族側は、警察や消防が避難を呼び掛けており、テレビやラジオでも大津波警報と高台への避難が放送されていたと指摘。危険が予見できたのに迅速な対応を取らず、地震の際の防災マニュアルも整備されていなかったとして「安全配慮義務違反は明らか」と主張している。遺族側は7月、示談を申し入れたが、学校側は「大津波は予見できず、過失はない」と拒否していた。


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 私は裁判に関する仕事に日常的に携わっていますが、このような裁判のニュースを耳にした瞬間、自分の思考が停止するのを感じます。自分の仕事との関連付けが上手くできません。毎日満員電車に揺られ、給料日を心待ちにし、緊急の仕事に追われてあたふたし、段取りが上手く行かなくてイライラしつつ、その一方で「安全配慮義務の有無」を考えようとしても、机上の空論に陥ります。これは、多くの法律実務家も同じだと思います。

 近年の犯罪被害者保護法の整備については、被害者保護の世論が高まった成果であると言われる一方、刑事法学からは「大衆の激情による厳罰化」との批判が聞かれます。私は、この法学者の高い目線、すなわち知識人が大衆を見下ろす態度には反発を感じるものですが、他方で「死者の無念」「遺族の無念」を自身の賛成・反対論に利用する短絡的な激情にも恐怖感を覚えるものです。これは、被害者は被害者らしくステレオタイプに収まっている限りにおいて支持を受けるのであり、その枠を超え、世論の多数決の針が微妙に振れると、一気に正反対のバッシングに転化する危険を内包しているからです。

 例えば、飲酒運転により突然命を奪われた被害者を責める者は皆無に等しいと思います。ここでは、「死者の無念」「遺族の無念」の文法が圧倒的です。これが、顔見知りの間での殺人事件となると、この文法は後退を余儀なくされます。さらには、医療事故を受けて医師や病院を訴えたとなると、これは非常に微妙なバランスの問題となります。死の受け止め方といった極めて個人的な問題について、他人が僭越にも意見を述べる場面をよく目にします。そして、今回の常磐山元自動車学校の裁判の報道において、私は「死者の無念」「遺族の無念」を叫ぶ世論の針が逆方向に振れる場面を多く目にしました。

 裁判のルールは、「人の命はお金を払えば取り返しがつく」という決まりのもとで運営されています。失われた命は取り返しがつかないとしても、それを言っていては社会が回らないため、社会を回すためには命はお金で取り返しがつくことにしなければならない、このようなルールが確かに共有されています。その代わり、命の値段を記す示談書に誤字脱字があったり、賠償金の振込み先の銀行口座番号を間違えたりすれば、これは絶対に取り返しがつかないことになります。私を含め、法律に日常的に携わっている者の職業病として、人の命が失われても大して驚かないのに対し、書類を間違えると大騒ぎになるという矛盾が普通に生じています。

 「自動車学校を訴えても誰も幸せにならない」と言われれば、全くその通りだと思います。そもそも裁判は誰かを幸せにするための制度ではなく、これは突き詰めれば三権分立の司法権の性質に行き着くものと思います。「死者の無念」や「遺族の無念」の文法が圧倒的ではない場面であればあるほど、その無念さは想像を絶し、当人ではない者との距離は広がります。そして、当人の気持ちを想像したり想像できなかったりする地位にあるということが、「自分は当事者ではない」という幸せの再確認につながっており、「裁判を起こしても誰も幸せにならない」という思考の傾向を生み出しているように思います。

石巻市・日和幼稚園の裁判

2011-10-24 00:02:01 | 時間・生死・人生
(10月12日 毎日新聞ニュースより)

 東日本大震災で石巻市の私立日和幼稚園の送迎バスが大津波にのまれて園児5人が死亡した事故で、5人のうち4人(当時5~6歳)の遺族が、同園を運営する学校法人「長谷川学院」と当時の園長を相手に計2億6680万円の損害賠償を求めた訴訟の第1回口頭弁論が11日、仙台地裁であった。園側は請求棄却を求める答弁書を提出し、争う姿勢を示した。
 園側は答弁書で大津波について「これまで大規模な地震があっても市街地まで到達するような大津波が発生したことはなかった」として「予見することは不可能だった」と主張した。一方、遺族側の弁護士が意見陳述し、「地震発生後、危険がないことを確認できるまでは海に近づかず、高台に避難することは常識」と指摘。さらに「園児らの命は津波によって失われるはずのない命だった」と述べた。
 訴状によると、日和幼稚園は3月11日の巨大地震発生直後に、園児を帰宅させようと2台の送迎バスを発車させた。1台は園に引き返し無事だったが、沿岸部に向かった1台が津波で横転。園児5人が車内に残されたまま津波後に発生した火災に巻き込まれ、死亡した。


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 人の考えは1人1人違うことを大前提とすれば、一言で「被災地の声」と言ったところで、被災者1人1人の考えが違うのは当然のことだと思います。従って、被災しなかった者が被災地の声に真摯に耳を傾けることは、そもそもおこがましい行為であり、無意識のうちに聞きたい声と聞きたくない声を分けているものと思います。これは、マスコミによって被災地のある部分が切り取られたならば、そこに映らないものは存在しなくなることとも関係しているようです。
 震災に関するニュースに接した時の自分自身の心の動きを観察してみると、やはり精神的に楽なものと、精神的に苦しくなるものとは厳然として分かれています。スポーツ選手が被災地を訪れて子ども達に勇気を与えたニュースや、復興に向けたイベントで参加者が元気をもらったといったニュース対しては、その気楽さに違和感を覚えながらも、情報を全身で受け止めるべき緊張感は生じません。これに対し、日和幼稚園の裁判のニュースを耳にした時には、私はとにかく情報に対して身構えることを余儀なくされます。

 「被災地の声に真摯に耳を傾ける」「被災地の現実を知る」という言葉に対して、口先だけではなく責任を持とうとすれば、人は日和幼稚園の裁判について、原告側・被告側の双方から毎日その言葉にならない思いを自分自身のこととして想像し、苦悶せざるを得ないものと思います。これは、正義・不正義の一方に与するものではなく、双方の正義と双方の不正義に目が回り、出口がない状態に陥ることです。
 しかしながら、人が社会生活を送るとき、その精神状態は正反対の方向を向くのが通常です。そして、「1日も早い復興を祈る」という外側からの解釈は、このような被災地の裁判に対して、「被災者同士が争ってどうするのか」「天災に対して裁判を起こすのは人間のエゴだ」という非難をも可能とするようです。また、このような人間の精神の流れは、時間の流れとともに加速するように見受けられます。

 暦の上では時が流れているはずなのに、震災の日から時が止まっていると感じられるならば、なぜそのように感じられるのか、この裁判はその問いを問うているように思います。また、人の生と死は紙一重であることは事実であるとしても、なぜ現に生きている者は生きており、なぜ現に死んだ者は死んだのか、この問いの存在も裁判を起こさざるを得なかった必然性を示しているように思います。
 もちろん、裁判所が哲学的な問いに答えられることはありませんが、それでも裁判を起こすことによってしか問えない問いがあり、被災しなかった者が「被災地の声」を聞くとすれば、この裁判に勝るものはないと思います。それは、人間が歴史の中で生成してきた弔い、悼みといった概念が、この現実の法制度の範囲内で採ることのできた唯一の形です。もちろん、この裁判は被災地の復興にはつながりませんし、前向きでも未来志向でもありません。

 震災以降、私の周囲では、弁護士が張り切って動き回る姿が目につきます。特に目立つのが、原発被害者支援弁護団の結成・拡大であり、「子どもを守る」というスローガンが広く語られています。私自身、原発に対しては特定の意見を持ちかねていますが、「子どもを守る」という合言葉に対しては、政治活動に子どもを利用する危うさに違和感が拭えないでいます。原発被害者支援弁護団の弁護士のほとんどが、日和幼稚園の裁判には何らの関心も示していなかったことも、私の違和感を増大させています。
 子どもを思う親心の深さという点を突き詰めてみれば、「原発から子どもを守る」という政治的主張の深さは、我が子の死を前にした日和幼稚園の裁判の原告の親心の深さの前には一歩退かざるを得ないものと思います。但し、社会生活の中でこの深さが受け入れられるか否かは別の話です。天災の中に人災を見つけてそこに議論の足場を作ることが、人間の精神がやり場のない限界に達したときの逃げ道として残されているならば、日和幼稚園の裁判が過失論の定型に収まり、他方で原発被害者支援弁護団の動きが活発化していることは、対照的な結果だと思います。

行方不明

2011-06-22 23:04:32 | 時間・生死・人生
 大学の法学部で初めて民法を学び、失踪宣告に関する議論に接したとき、奇妙な感覚に捕らわれたことがあります。それは、ある者が失踪から戻ってきたとき、失踪宣告の取り消しによる遡及効により、別の場所で行われた法律行為の効果が問題になる場面です。私は、この「別の場所」が存在するという事実が妙に引っかかりました。客観的・鳥瞰的な視点を仮構していながら、結局は平凡な社会常識に従って、失踪されて残された側の「場所」を無条件に上に置いているだけだと思われたからです。但し、私の疑問は他の人にはなかなか通じず、哲学的な思考の癖を持つ者は、法律の客観的な思考には向かないことを思い知りました。

 東日本大震災から100日以上が過ぎても、行方不明者は7000人超であると聞きます。他方で、身元不明の遺体は1700人以上にのぼっていると聞きました。そもそも、あの凄まじい地震と津波に襲われた状況では、行方不明者の数字には信憑性がないそうです。一家の中で1人でも生き残っていれば、他の家族を行方不明者として届け出ることができますが、一家が全滅していたとなれば、行方不明者として届け出る者が誰もいなくなる状況が生じるからです。身元不明の遺体は1700人という報道を聞くと、戸籍や住民登録といった制度に関する細かい問題は、議論のための議論でしかないとの感がします。

 津波で一家が全滅した場合と、一家の中で1人だけ生き残った場合とを考えてみると、私個人の直観としては、「1人だけでも生き残ってよかった」とは素直に思えません。もちろん、一緒に亡くなっていたほうが幸せだったとは断じて思わず、人の命は何よりも重いという命題を譲ることはできませんが、その抽象論が現実に起きていることに全く結びつかない感じがします。あるテレビ番組で、家族で1人だけ残された被災者の姿を追い、「私が泣いていても家族は喜ばない」「前向きに生きる」というテーマでまとめているのを見ました。恐らく、庶民のお茶の間に入り込むマスコミは、無理をしている歪みの底にある狂気を報道することは不可能なのでしょう。

 私には、津波で一家が全滅したその全員の心情を想像することはできませんし、一家の中で1人だけ残された者の絶望を想像することもできません。胸が張り裂けるレベルにも達することがなく、この世にこのようなことが起きるのかと信じられない気持ちになり、実はその裏側では起こったことを信じています。世間的には、「生き残った命を大切にしたい」という論理は簡単に理解されますが、「このような人生には生きる意味がない」といった逆説的表現が理解されることは非常に稀だと思います。法律の客観的な思考においては、相続放棄の熟慮期間(3ヶ月)の延長といった現実問題のほうが重要でしょうが、人間が作ったルールの不備によって生じた人為的な問題であり、このような議論に足を取られていることに心が痛む感じがします。

大川小学校

2011-06-15 23:54:40 | 時間・生死・人生
 その日の午前中まで被災地ではなかった場所に「被災地」という呼び名が強制的に付され、その瞬間まで生きていた人間が「遺体」と呼ばれ、物質的ではないすべての価値観が津波で崩壊させられた日から、暦の上では3ヶ月以上が経ちました。「被災地」という呼び名が付されなかった場所で暮らしている私は、その惨状に言葉を失った瞬間の全身の感覚が、徐々に思い出せなくなりつつあります。
 このような中で、絶句の瞬間に引き戻される言葉がいくつかあります。そのうちの1つが「大川小学校」です。全校児童108人のうちの死者・行方不明者が74人、教職員13人のうちの死者が10人であった石巻市立大川小学校です。

 言葉が語られることによって過去と未来の区別が騙られ、過去は結果論を唯一必然の結果として騙り、未来は推測を反証不能の可能性として騙ります。この嘘は、一般的には嘘と呼ばれるものではありませんが、それゆえに聞く者よりも語る者が騙されるように思います。
 「未来ある多くの子供達の命が奪われた」という言い回しは嘘です。子供達に未来があり、無限の可能性があるならば、その未来や可能性がないことはあり得ず、子供が大人にならずに子供のまま死ぬことはないからです。それならば、「多くの子供達の未来が奪われた」と表現すれば嘘にならないかというと、これも嘘です。何かが奪われるならば、それは奪われる前に一度は存在しなければならず、一度も存在しないものが奪われることはありません。

 「小学校時代は生涯にわたる人間形成の基礎を培う時期である」「人は小学生の頃にその先の人生を生き抜く力を獲得する」「この国の未来を担う小学生」などの言い回しも真っ赤な嘘です。「生涯」や「その先の人生」が存在しないならば、それが存在するかのような語りは虚偽だからです。少なくとも、命を落とした子供達においては、これらの存在しない将来を目的として獲得された価値(自立性・社会性・豊かな感性・創造性など)は無駄となっています。
 また、「この教訓を生かして未来の子供達には同じ思いをさせないようにする」という結論の出し方は、生き残った者の特権に甘えた大嘘だと思います。「この教訓」というものが、未来を担うはずの子供達は必ずしも未来を担うわけではないとの事実を再認識させられたことにあるならば、その不確実な将来の一点に未だ存在しない人間を誕生させて片を付けることは、虚構に虚構を重ねるものです。

 大川小学校に関しては、様々なメディアで取り上げられており、私自身の感覚も動いています。壊滅した小学校の跡地で我が子の痕跡を探す両親の姿を見ると、絶句するしかなく、私の時間も3月11日で止まります。これに対し、津波が来るまでの24分間でなぜ逃げられなかったのか、他に採るべき方法があったのではないかという検証の報道を見ると、私の時間は動きます。言葉はいくらでも嘘をつくことができ、それによって時間は止まったり動いたりするものであると感じます。
 大川小学校で起きた出来事を語るとき、時間が止まっていることを共有しなければ、その言葉は不正確さを免れないと思います。時間が動いている限り、形而下的な問題意識は「責任の所在」を問い、行き場のなくなった議論は「死んだ者は永遠に帰らない」との形而上の観念に飛び、さらに「過去を振り返らず未来を見る」との結論が幅を利かせることとなります。この文脈で語られるのは嘘ばかりだと感じます。