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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大津市いじめ自殺問題(3)

2012-07-12 23:42:06 | 時間・生死・人生

 人生は一度きりであり、命は1つしかない以上、生死の力関係においては、殺した者が強者であり、殺された者が弱者です。殺した者は生きており、殺された者は生きていない現実が動かぬものであれば、法は、法を守らない者を守ることになります。死者は帰らず、失われた人生は戻りません。ここでの復讐や報復という価値は、人が法を守れないことを示しているのではなく、法が人を守れないことを示しているものと思います。

 そして、このような法治国家において、殺人者よりもさらに強い地位を得るのが、他者を自殺に追い込む者だと思います。死者の行為の外形は、あくまでも自分の命を粗末にしたものであるのに対し、他者を死に追い込んだ者は、法の裁きを免れます。そして、死者の生きられなかった時間を生きる者には、その倫理的な罪の十字架を背負って苦しむ人生を送るのか、あるいは過去を忘れ去ってのうのうと笑って生きていくかの選択が可能であり、いずれにしてもその後の人生が保障されています。

 主役であるべき死者を置き去りにした議論の盛り上がりは、生き残った者の優越感に覆われ、死者の立つべき地位を奪い取るように思います。マンションから飛び降りないよりも飛び降りることのほうが望まれる心理状態を察しようとすれば、それは全身の痛み及び死の絶望を人生の最上の価値とすることであり、現に生きている人間にこの先の思考は不可能と思います。従って、人間になし得ることは絶句と沈黙のみであり、本来であれば議論の余地はないと思います。

 学校や教育委員会の初期対応の拙さについては、「なぜ昨年10月の出来事が今頃になって問題になるのか」という疑問とともに、組織内で揉まれた者においては、かなり腹黒い意味を与えられるものと思います。すなわち、なぜ上手く揉み消せなかったのか、どこで根回しや裏工作が失敗したのかという点の拙さです。このような老獪さを示す秀逸な言い回しに、「子供じゃないんだから」「ここは学校ではなく会社だ」というものがあります。学校という場で子供が死を選んだ事実の前では、手の打ちようがないと思います。

 いじめと自殺の因果関係の有無を大真面目に議論して争うのは、悪い冗談であるとの印象を受けます。この種の議論の大義名分として、二度と同じようなことが起きないようにするための生産的な活動であることが求められますが、これが実現したためしはないと思います。因果関係の有無は、あくまでも生き残った者の後知恵です。そして、我が子を救えなかった親の絶望は、怒りや悲しみを通り越して感情を失くすものである以上、因果関係の解明によって怒りや悲しみが癒されたり、乗り越えられることはないと思います。

大津市いじめ自殺問題(2)

2012-07-10 00:02:21 | 時間・生死・人生

 いじめ問題について、以前にはかなりの力を持っていたのが、「子どもの人権」から演繹的に考える理論であったと思います。すなわち、体罰や校則による管理教育がストレスを生み、生徒間での人権を守る意識を低下させているのであり、この点を改めればいじめは改善されるとの主張です。私は個人的に、いわゆる山形マット死事件を機にこの種の理論に幻滅を覚え、恐怖すら感じるようになりました。ここでのいじめ問題は、学校の民主化という総論に対する各論に過ぎず、より大きな正義の前に死者の命は容赦なく踏みにじられるとの印象を持ったからです。

 今となっては、いじめ問題への有効策と思われたゆとり教育が大失敗の烙印を押され、学校裏サイトには手の打ちようがなく、大人の職場でのパワハラ・モラハラも蔓延し、かつてのいじめ論議が遠い昔のことのように思われます。試行錯誤を重ねた結果、想定外の状況の対応に追われ、万策尽きて真面目に議論に疲れ果てれば、多くの人間はそこで思考を断ちます。そして、「同級生の名前がテレビで透けて見えた」などの叩きやすい失策を非難することにより、その空気に乗って、正義の側に立っているとの安心感を得るしかないのだと思います。

 学校や教育委員会による事実の隠蔽、あるいは教師による生徒への口止めという事実を捉えて、今回の問題の元凶のように非難するのは、あまり上品な姿勢ではないと思います。いかなる組織であっても、いわゆる「現場の悲鳴」を肌で感じている者は、桁違いの修羅場がもたらす精神の疲弊を知り抜いており、かつその苦悩は外部からは理解されないことを悟っています。そして、人は危機が大きければ大きいほど「自分の身は自分で守るべきだ」という自己責任論を投げつけられるのであり、組織の論理に逆らって自己の良心に従う余地は皆無に等しいと思います。

 亡くなった生徒は、マンションの14階から飛び降りたとのことですが、すでに全身を完膚なきまでに打ち付けられている状態では、改めて飛び降りて物理的に全身を打ち付けることに対する解釈は行き止まりだと思います。これは言い古されたことであり、誰もが解っていて解らなくなっていることだと思いますが、他者の痛みを理解する感覚の欠如は、情報や欲望の増大による個人の自意識の肥大と比例しています。この点につき、現代社会の多くの大人は、人生の先輩として中学生に語り掛けられる言葉を持っていないものと思います。

大津市いじめ自殺問題(1)

2012-07-09 23:35:07 | 時間・生死・人生

 少子化問題の議論においては、「産み育てた我が子はいじめを受けて自殺しない」という安全神話があるものと思います。人が親になるということは、1人の人間を肉体的にも精神的にも一人前に育て上げるという大仕事であり、この世で最も難しい仕事だと感じます。その我が子が、他の「我が子」からいじめを受けて親よりも先にこの世を去る可能性があるという事実は、多くの人が気付きながらも避けている部分だと思います。しかしながら、少子化の大きな原因は、このような教育環境がもたらす命の軽さの感覚であり、あらゆる社会環境が「生きにくい」と感じられる点にあるのではないかと思います。

 この世の中では起こったことしか起こらず、起きていないことは起きていません。防げたことは最初から存在せず、何の賞賛も浴びませんが、防げなかったことに対しては容赦ない非難が浴びせられます。数年前、いじめを苦にした自殺予告により期末試験や体育祭を中止した出来事が相次いだことがありましたが、その時には、毅然たる対応が取れなかった学校に対する非難の論調が主流だったと記憶しています。自殺が起こらなかったという圧倒的な事実の前には、「人命最優先」の理屈の説得性は落ちます。そして、逆に自殺という圧倒的な事実が起これば、この論理は簡単にひっくり返ります。

 「生きていれば必ずいいことがある」というのは大嘘だと思います。これに対して、いじめ自殺で我が子を失った親が、「一生引きこもりであろうと不幸であろうと単に生きていてほしかった」と語る言葉に嘘が入る余地はないと思います。自殺のSOSは、自殺した後に初めてそれとして把握できるものです。自殺という事実が存在しなければ、何回も学校を訪問して訴える親は、単なるモンスターペアレントに過ぎません。これは、過酷な学校現場で疲弊した教師の側の過労やうつ病の問題であり、この場所に生徒のSOSが存在する余地はないと思います。部外者の非難はすべて結果論であり、後知恵です。

 いじめ自殺と言えば、「鹿川裕史君」「大河内清輝君」という名前が、顔写真や遺書とともに思い出されます。25年前の中学生は、今回の件では生徒の親の年代に当たるものと思います。社会科学的な問題解決の手法は、中学生なら中学生と対象を固定化したうえで、その理論を実践に移すのが通常です。しかし、その間に社会が先を行ってしまい、後を追い掛けても理論が追い付かず、気が付いたら自分が歳を取っていたという事態が生じがちだと思います。25年前の「生きジゴク」「葬式ごっこ」に衝撃を受けた者ほど、25年後の「自殺の練習」を前にしてなす術がなく、生じるのは虚脱感ばかりだと思います。

「交通事故遺族の会休止後も活動続ける 福岡の夫妻」 その2

2012-05-19 23:26:49 | 時間・生死・人生

 国家権力による復讐代行か、あるいは社会全体の修復か、国民1人1人が刑罰のあり方に対して責任を負うといった議論を主眼とする刑事政策論は、各種の「遺族の会」に対しても二元的な評価を行いがちだと感じます。すなわち、厳罰感情を維持・増幅する団体には消極的な評価が、厳罰感情を抑制・緩和する団体には積極的な評価が向けられるということです。しかし、これも私が見聞きした範囲での結論ですが、それぞれに不幸である家庭が集まった各種の「遺族の会」は、法律家が机上で考えた図式には収まりようがないと思います。

 取り替えが効かない人生において突き詰められた死生観は、客観的評価を拒みます。全ての色が失われた世界において、富や名誉が無価値となったとき、人が頼れるものは言葉のみです。それだけに、絶望の状態を支え得る言葉、あるいは心が弱っている時に耳が傾けられる言葉は、他人にも適用が可能な原理主義的なものにならざるを得ないと思います。すなわち、ある世界を強烈に信じることを前提とした現状の正当化であり、価値相対主義の入る余地がなく、他者への強制が必然となる種類の思想です。

 ここでの柱は、「いつまでも悲しんでいては死者が喜ばない」、「人は死別の悲しみを乗り越えることによって成長する」といった言葉に集約されるものと思います。これが人生の意味にまで拡大されれば、「人は誰もが試練を乗り越えるために生まれてきたのだ(神は乗り越えられない試練は与えない)」、「この交通事故にも何かの意味がある(起きていることはすべて正しい)」といった論理に至ります。そして、それぞれに不幸な家族を一瞬にして幸福に転化させようとする力は、一瞬にして「遺族の会」に不協和音を生み出すように感じます。

 刑事政策論は、心のケアによる厳罰感情の緩和の必要性を簡単に述べ、各種の「遺族の会」に対しては被害感情を抑制する限りで積極的な評価を与えがちだと思います。しかし、現実はそう単純ではないと感じます。私が見聞きした範囲での結論ですが、「遺族の会」の内部での食い違いは、政治的な内ゲバの形式ではなく、至って内向的であり、狂気を含んでおり、それぞれが自問自答しており、利権が生じることもなく、外部からは想像もつかない論点が生じ、それぞれの不幸は一点にまとまりようがなく、既成概念に頼れない種類のものと思います。

 デモ行進などによる政治的発言力の拡大が世の中を変える言動力だと信じられている社会において、活動の休止後も「同じような目に遭った人をこれからも支えたい」として地道に相談や提言を続ける原田さんご夫妻に対して私が感じるのは、純粋な敬意と畏怖のみです。そして、この敬意と畏怖は、このような相談の成果に便乗して「被害者遺族も厳罰を求めていない」と主張し、難なく寛大な刑を得ている実務家への軽蔑の念の裏返しです。また、社会に対して自分の発言を売り込むことしか考えていない学者への軽蔑の念の裏返しでもあります。

「交通事故遺族の会休止後も活動続ける 福岡の夫妻」 その1

2012-05-18 23:42:38 | 時間・生死・人生

毎日新聞 5月17日朝刊より

 「全国交通事故遺族の会」(井手渉会長、東京都中央区)が3月末、会員減少などのため約20年に及んだ活動を休止した。同会福岡県連絡所(福岡県福津市)代表として九州各地の遺族を支えてきた原田俊博さん(62)と妻美津子さん(58)はそれでも、二人三脚で相談や提言を続ける。2人は「同じような目に遭った人をこれからも支えたい」と話している。

 夫妻の生活が一変したのは1994年12月のことだ。長女未麻ちゃんが小学校への登校途中、自宅近くでトラックにはねられた。意識が戻らないまま、約1ヶ月後に亡くなった。8歳だった。美津子さんは数ヶ月後、知人を通して知った「遺族の会」の集まりを訪ね、最愛の娘を奪われた苦しみをはき出した。よみがえる悲痛に耐え切れず、号泣してトイレに駆け込んだ。「あなただけじゃない」。息子を亡くした女性が声をかけてくれた。

 「苦しんでいる人はもっといる」。そう思い立ち、96年5月、自宅に専用電話を引いて相談を受ける活動を始めた。各地の遺族から「涙ながらに駆け込むように」(俊博さん)電話が続いた。ほとんどは子供を失った母親から。語り口がソフトな美津子さんが主に応対し、俊博さんが集会であいさつするなど、自然と役割分担ができた。毎年「世界交通事故犠牲者の日」(11月第3日曜日)に合わせてキャンドルで死者をしのぶ催しを続け、交通事故加害者への厳罰化などを仲間とともに中央省庁に何度も提言した。

 地道な取り組みの結果、加害者への厳罰化は進み、捜査機関も遺族の心情に配慮するように変わった。俊博さんは振り返る。「被害者遺族なのに心ない言葉を言われ、理不尽なことが多すぎた。その怒りが突き動かした私たちの活動は、制度改正に貢献したと思う」。 「遺族の会」は91年、高校3年生の娘をダンプカーによる事故で失った井手会長らが設立した。その年、1万1105人に上った全国の交通事故死者は昨年4611人になった。事故減少の流れに沿うように、会員はピーク時の1100人から380人になり、活動休止が決まった。

 それでも悪質な事故はなくならない。夫妻は、地元福岡で全国最悪水準の飲酒運転事故が続くことに胸を痛める。「あの日」から18年。夫妻は今秋に都内で開かれる解散式で、支えてくれた仲間にお礼を伝えるつもりだ。自宅の仏壇脇には今も未麻ちゃんの小さな遺骨がある。美津子さんは「暗いところにいれるのは可哀そう」とつぶやいた。「これからも事故で肉親を失う人を減らしたい」。それが2人の共通の願いだ。


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 幸福な家庭はどれも似たようなものであるのに対し、不幸な家庭はそれぞれに不幸であらざるを得ないと思います(アンナ・カレーニナ)。それぞれに違う交通事故で肉親を亡くした家庭のそれぞれの不幸に関しては、言うまでもないことと感じます。そして、それぞれの実存の深淵に根差した不幸がどんなに集まっても、それは「数の論理」が支配する政治的主張とは一線を画するものだと思います。

 厳罰化の中央省庁への提言といった活動も、究極の目的が「交通事故で肉親を失う人を減らしたい」という地点にある限り、活動の消滅という自己矛盾を含むはずと思います。これは、勢力の拡大を常時志向せざるを得ない政治的な団体とは異質のものです。活動によって死者が元通りに戻るという最大の希望が奪われている以上、この自己矛盾は解消しようのないものだと感じます。

 政治的な団体は、その主張に反する事態が生じた場合、怒りによって活動が勢いづくのが通常と思います。すなわち、横断幕やプラカード、ビラや拡声器の出番であり、デモ行進によるシュプレヒコールが行われます。ここでは、先に答えが用意されている結果、安易な理論武装に流れ、似たような幸福に転化する傾向があるように感じます。人は、他者との議論に勝つためには、自分自身の考えを疑ってはならず、自問自答してはならないからです。

 これに対して、「交通事故で肉親を失う人を減らしたい」とそれぞれに心底から願わなければならない不幸は、どんなに全国で悲惨な事故が続発したとしても、勢力拡大による活気とは無縁であらざるを得ないと思います。ここでの勢力拡大は、交通事故の増加と死者の増加を意味する点において、イデオロギー的であることを拒むからです。

(続きます。)

群馬・藤岡の関越道バス事故 その3

2012-05-04 00:04:27 | 時間・生死・人生

 「命を返してほしい」という言葉は、これを聞く者の構えによって、最も重い言葉にもなれば、最も軽い言葉にもなるように思います。「何をやっても死者は帰らない」という現実を前提として、事故はいつでもどこでも起き得るものであり、かつ現にあのような形で事故は起きており、他方で事故はそれ以外の形では起きておらず、生きている者は自分が努力したから生きているのではなく、死者は自分が努力しなかったから命を失ったのでもないと見抜いたとき、「命を返してほしい」という言葉は、最も重い言葉になります。これは、死者自身が肉親や知人の口を借りて話さなければならない論理です。

 現在の日本社会で、「命を返してほしい」という言葉を最も重い意味で聞くことは、なかなか困難なことだと思います。人間の心の中は画像には絶対に映らず、その語った言葉も内心そのものではありませんが、取材と報道のカメラは人間の顔を映し、かつ語られた言葉を字幕で流します。そして、この映像は、画像に映らない人間の内心の把握を妨げます。このような中で視聴者に伝えられた「命を返してほしい」という言葉は、必然的にお涙頂戴の白々しい台詞になるものと思います。これは、報道の自由やプライバシーの権利の問題意識とは異次元のものです。平時の報道の質が軽ければ、視聴者もこれに影響されます。

 失われた命を戻すという不可能があえて要求されるとき、「それなら一体どうすればいいのか」という問いが生じます。そして、この要求が自己目的であることが判明したとき、これは最も軽い言葉として受け止められることになります。現代の情報化社会では、被害者特権を利用して同情を得ることへの感度が敏感であり、これに対する批判も辛辣だと思います。実際のところは、命が返って来ないのであれば、原因究明も再発防止も意味がなく、世の中の全員が不幸になればよく、地球が滅亡すればよいことが言外に示されており、批判されるべき内容は桁外れに巨大だろうと思います。

 「命を返してほしい」という論理は死者自身が語り得るものですが、「死を無駄にしない」という論理は遺された者の解釈であり、死にたくなかった死者はこれを語らないだろうと思います。生きている者が言葉にならない言葉を絞り出すならば、死を無駄にしないことだけがせめてもの意義だと言うしかないですが、そこで言われていることは、本当は意義など存在しないということだと思います。死を無駄にしなかったのであれば、死に意味があったということになりますが、死はあくまで無意味でなければならず、意味付けが拒まれるべきものです。死を無駄にしようがしまいが死者は戻らず、「命を返してほしい」という言葉が残らなければならないのだと思います。

群馬・藤岡の関越道バス事故 その2

2012-05-02 23:57:04 | 時間・生死・人生

 世の中の経済を回しているのは、ビジネスの第一線で活躍するビジネスリーダーと、寝食を削って働くビジネスマンです。すなわち、ビジネスモデルを構築し、市場のトレンド及び顧客のニーズを読み、コンサルティングを行い、マーケティング戦略に優れ、コストパフォーマンスに精通し、カスタマーサービスによってリピーターを獲得し、リスクマネジメントによってトラブルを予防し、コンプライアンスは適当にやり過ごし、経営資源であるヒト・モノ・カネを上手く使える者が、経済社会を担っているものと思います。ここでは、人の生死すらもビジネスチャンスの材料となり得ます。

 居眠り運転が完全に予防できないとなれば、人命が失われないバスや道路を作るべきだという議論に流れるものと思います。すなわち、バスの車体の軽量化や、防音壁とガードレールに隙間があったことの問題です。これは、単に行き場がなくなった議論が向かう必然であり、企業の体力や人件費について検討しているわけではなく、このような問題意識が長続きすることはないと思います。ビジネスの現場において最も力を持つ問題意識は、事故が経済に与える影響です。どんな大事故や大災害に接しても、反射的に株価の上下に頭が回る能力のある者が、実際に経済社会を動かしているからです。

 ツアーバスの最前線の従業員からは「いつか起きると思っていた」「明日は我が身」との声が聞かれ、法令が無視されていた常態が明らかになっています。これらの実態に非難を浴びせ、徹底的な原因究明を求めるに際して、自己欺瞞の心情が混じらないのは、世間知らずの批評家だけではないかと思います。需要と供給の力学の中で労働力を売る者の無力感や、肌で感じる上下関係や権力関係の抗い難さは、確かに不況の社会では目立ちやすいと思います。しかし、好景気であれば、やはり儲け優先となり、法令が無視される状態は変わらないはずです。

 私は1人の人間として、新聞の1面に載る大事故に接するたびに、「このような事故がなくなることを願う」無名の個人の小ささと、それに安住していることの偽善性に苛まれます。しかしながら、このような絶望の仕方こそが自惚れであり、半径数メートルの小さな世界から途中を全て飛ばして、世界に向かって独り相撲を取っているような感もあります。事故の原因を遡って考えるならば、自分が把握している世界の側を入口とせざるを得ないことは確かだと思います。「いつか起きると思っていた」にもかかわらず、これが防げなかったことの理由の認識は、この方法でなければ空論に堕するだろうと感じるからです。

(続きます。)

群馬・藤岡の関越道バス事故 その1

2012-05-01 23:53:05 | 時間・生死・人生

 大事故の報道に際して語られる言葉は、論理の流れそのものが固定観念の内にあり、受け取る側もそれ以外の論理の想定が困難となるように思われます。これは、現実を前にして言葉を失うという事態とは異なり、言葉が慎重に選ばれた結果、口が噤まれている事態です。平時に根拠を伴って論証されている主張は、いかなる場面にもあてはまる普遍的な真実のような形をしています。しかしながら、極限まで問い詰められると破綻するような論理は、有事には門外漢を装わざるを得なくなるものと思います。

 大事故の検証に際しては、「安全教育」「過重勤務」「過当競争」「労務管理」といった四字熟語が多くなる一方、カタカナで表記される抽象概念は姿を消すように感じます。例えば、「コンプライアンス」です。企業の社会的責任の不履行、不祥事による信用失墜といった捉え方は、大事故で失われた人命の前には軽すぎるものと思います。「リスクマネジメント」も同様です。不測の損害を最小の費用で効果的に処理する経営管理手法は、死者に向き合う論理としての適格を有しませんので、事故の直後には語れなくなるように思います。

 「ビジネスモデル」「コストパフォーマンス」「マーケティング」といった用語も同様と思います。利益を生み出すサービスに関する事業戦略や収益構造、費用対効果といった考え方は、まさに事故を促進する要因として非難される場面であり、世論の顔色を窺いつつ後退せざるを得ないものと思います。価格破壊による過当競争が安全を犠牲にしたという分析は、もはや言い古されたことであり、人の命が失われなければ忘れられます。経済社会は、人命尊重はビジネスとして成り立たたないという認識で回っているものと思います。

 「カスタマーサービス」など、顧客の命が奪われた場面では不相応です。「コミュニケーション能力」「キャリアアップ」といった将来への投資は、人の命は次の瞬間にも保障されていないのだという現実の前には無意味です。「メンタルヘルス」など、突然肉親を喪う価値観の崩壊を想定したものではありませんし、「ビジネスマナー」は席の場所で生死が分かれた現実とは次元を異にします。「モチベーション」など、有事に際して人間の極限的な精神力が問われる場面では語りようがないと思います。

(続きます。)

千葉県館山市 小学生死亡事故

2012-04-29 00:12:24 | 時間・生死・人生

4月28日付け 日刊スポーツニュースより

 4月27日午前7時35分ごろ、千葉県館山市大賀の県道で登校のため停留所で路線バスを待っていた同小の小学生ら6人の列に軽自動車が突っ込んだ。軽自動車は車道から左側にはみ出し、この4月に小学校に入学したばかりの館山小1年の山田晃正君(6つ)をはねた後、約3メートル先の石塀に衝突した。その後、山田君をひき、巻き込んだ状態で約25メートル走行したとみられる。

 山田君の母親は路上に横たわる息子を抱え「こう君、こう君、お母さんだよ。目を開けて」と泣き叫んだ。50代の男性会社員も「6人はいつも同じ時間に立っていて、小学生はうれしそうにバスを待っていたのが印象的だった。京都でも同じような事故があったばかりなのに……」と声を詰まらせた。


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 ここのところ、急に交通死亡事故が急に増えたように思われがちですが、年間約5000人が交通事故で亡くなっています。1日に10人以上です。私が裁判所で立ち会った数々の自動車運転過失致死罪の裁判も、9割以上が新聞に取り上げられることもなく、私を含めた限られた人間の記憶に残るのみです。

 「お母さんだよ。目を開けて」という言葉は、世の中に五万とある言葉の中で、私が知り得る限り、人間の尊さや哀しさ、この世に起きてしまう事実の残酷さ、さらには窮しても転じることのない足元の崩壊による穴を最も正確に語る言葉であり、破壊力が時空間の内に凝縮されたまま人の解釈を拒んでいる状態を示しているように思います。この言葉を聞いて胸が張り裂けない者は、人間の名に値しないと思います。また、胸が張り裂ける状態を手放したままに語られる未来、立ち直り、癒し、再生といった理屈は、地に足が着いていない机上の空論だと感じます。

 私は、子供を事故で失って法廷で意見陳述をする母親の姿を前にするたびに、「命の重さ」という言い古された成句が無意味であることを思い知らされてきました。母親は、「子供と代わってやりたかった」と述べます。母親が子供と代わってしまったら、子供は母親を亡くして一人ぼっちで残されてしまうではないかといった心配は、現実には不可能なことであり、無意味な理屈です。この言葉がこの言葉として言われざるを得ないのは、この世には不可能を不可能と知り、比較の対象がないことを前提としつつ、その比較論を語ることによって現実を語るしかない現実があるということだと思います。

 私は、現に生きている母親の姿を前にして、その「命の重さ」を感じることができず、またこれを感じることは彼女に対して僭越な態度であることを知りました。母親が子供の死と同時に命を失っていれば幸福だったのかと問われれば、そうとは結論できないものの、不幸であるとも判断できませんでした。私は、彼女に生きるべきことを内心でも求めることができず、かと言って死ぬべきであるとは断じて思えず、少なくとも「命は重い」という常識論の無効を突きつけられました。それは、どんな人間も生きているだけで価値があるのだといった、死刑廃止論で用いられる論理とは次元を異にしていました。

 「お母さんだよ。目を開けて」という言葉が意味しているものは、母親が息子に対して目を開けてほしいと願っている、ただそれだけです。加害者の運転手を許すも許さないも意味しておらず、法律の定める刑罰が重いも重くないも意味しておらず、国や地方の道路政策を責めるも責めないも意味していません。ただ、目を開けてほしいという思いの破壊力が、その言葉の意味を知る者の精神を崩壊させ、政治的な一切の解釈を拒絶しているのみと思います。あれほどマスコミで聞かれた「絆」ですが、母親の言葉に対して「親子の絆」が語られないのは、絆が断ち切られる場合のことは想定していなかったからだと思います。

JR福知山線脱線事故から7年

2012-04-25 23:50:03 | 時間・生死・人生

 この7年間、私は自分自身が組織に揉まれ、あるいは組織に揉まれている人々に接する仕事を通じて、経済社会のルールを学んできました。その主要なルールは、「経済効率のためには安全は軽視されざるを得ない」ということであり、さらには「人命は全てに優先するわけではない」ということでした。また、いわゆる大企業病、官僚病といった単語が意味するところも、深い脱力感と無力感を伴って全身で理解できるようになってきたと思います。

 数分の遅れを取り戻そうと暴走し、高速でカーブに突入した運転士の心境を、私は容易に想像できます。私自身、組織人としての規則や義務、あるいは組織内部での保身の欲求が入り混じり、周りが完全に見えなくなることが多いからです。そのような状況に置かれた場合、自分以外の人間は邪魔であり、突き飛ばされるべき存在となります。組織の中で分刻みのスケジュールに追い回されている者であれば、当時の運転士の焦燥感は手に取るようにわかるものと思います。いわゆる日勤教育が事故の遠因であったか否かという議論自体は、後知恵の結果論であり、議論のための議論に堕するものと思います。

 事故現場にいたJRの社員が救助にあたらず、普通に出社して仕事をしていたことがマスコミで取り上げられ、世論の非難を浴びていました。私は、もし同じ立場に立たされたのであれば、出社を選ばざるを得なかったと思います。脳化社会における巨大なシステムがひとたび回転を始めれば、人間は組織の歯車にすぎず、自分自身の良心に従った行動をすれば職務倫理に抵触するからです。自分の欠勤によって処理すべき仕事の流れが滞ることの不当性は具体的な切実感をもって迫ってくるのに対し、電車の中に挟まれた状況は想像もできないものであり、重大さの判断に逆転が生じるのだと思います。

 事故の日の夜、JRの社員がボウリング大会を中止しなかったことも詳しく報道され、世論の非難を浴びていました。この点に関しても、組織内での実務的手腕に優れ、書店に並んでいるビジネス書を読み込み、順調に出世するような社員は、恐らくボウリング大会を中止しないだろうと思います。組織の中で責任を果たすということは、「そのような気持ちになれない」といった個人の内心、あるいは「そのような気持ちになるべきではない」といった他者への要求ではなく、その結末が結論として通用するかどうかを見極めることだからです。これは、様々な思惑を有する人々を調整する能力の試金石です。

 組織内で激しく揉まれ、挫折に打ちのめされる者は、現代は人命が最優先にされない社会であることを知り抜いているものと思います。これは、他者の人生の存在を実感するには、経済社会は余りにも自分自身の人生を生き抜くことに懸命にならざるを得ず、人命尊重など考えている余裕がないという裏側からの証明です。行き場のない攻撃の感情の対象として、事故後の対応の不味さが指摘されてバッシングを受ける場面は、ここのところも多く見られました。命の重さを理解すべき義務に駆られたとき、人は悪者を叩くことによって、死者や遺族の側に立っている安心感を得ることができるのだと思います。

 7年前の4月に繰り返し言われていたことは、経済効率のために安全が犠牲にされてはならないということであり、人命は全てに優先するということでした。そして、そのような認識が薄いJRの体質が批判され、その流れでボウリング大会の開催が批判され、二次会で乾杯をしたかどうかが問題にされていました。私もその流れに乗り、二度とこのような公共交通機関による死亡事故が起こらない正義のために、JRを批判していたように思います。7年後の私は、「人命は全てに優先するわけではない」という世界に完全に浸かりつつ、7年前に想像していた通りの7年後の世界を生きています。