犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東日本大震災の保育所の裁判について その3

2014-03-26 22:58:05 | 国家・政治・刑罰

 求めている「何か」が何であるのかわからず、従ってその「何か」を模索せざるを得ないとき、人は訴訟を起こすか否かという決断を迫られれば、「起こす」というほうを選ぶものと思います。法秩序が実体法と訴訟法のシステムを用意し、人がその社会の中で生かされている以上、この結論は最初から決まっていると思います。実際のところは、裁判にかかる時間と費用、体力と精神力、世間体などの問題が絡んできますが、論理の根本のところは動かないはずだからです。

 「何か」が何であるかを問わないこと、すなわち金銭の請求でなければ何なのかを問うか否かという部分は、2種類の論理の違いを示していると思います。すなわち、「ロゴス」と称される論理と、「ロジック」と称される論理です。「何か」が何であるかを問わないのはロゴスであり、その「何か」はやるべきであり、やらねばならないことを認めるのはロゴスだと思います。他方、民事訴訟法の要件事実に基づく主張・立証の技術は、専門家の手腕を必要とするロジックです。

 世の中の争い事はどこかでキリをつけなければ社会の秩序が保てない、ここが法律の誕生の契機です。他方で、責任の所在などと細かく論じる以前に、そもそも命とは何か、死とは何かという疑問から出発しなければ一歩も動けないという現実的な哲学的問題を突き付けられれば、法律はお手上げだと思います。ロゴスは自分を含めた普遍的世界を語りますが、ロジックは自分を除いた客観的世界を語ります。そして、ロジックは、生きることと考えることを別のものと捉えます。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その2

2014-03-25 22:57:13 | 国家・政治・刑罰

 原告の最大かつ唯一の希望は、言うまでもなく命を戻したいということであり、これは比喩的ではなく動かぬ結論だと思います。同時にその絶対的不可能を請求の中に含むとき、論理は窮して何回も転じます。そして、生身の人間の頭と心には、通常はこれを整理する能力は備わっていないと思います。また、この絶句と混沌の中を手探りで論理を求めるとき、必ず行き着くのが、「真実を知りたい」という論理だというのが私の経験です。この真実は破壊的だと思います。

 これに対し、法律の論理は秩序を旨とし、破壊とは対極的な地位にあります。混沌とした状況を丸く収め、個々のトラブル終わらせたいという法の要請と、これを通じて理想の社会を建設に寄与したいという法律家の希望は、簡単につながるものと思います。従って、この秩序の確保のためには、ある種の真実の探求には否定的な姿勢が示されます。法律の規定に従って責任の有無を論じることになると、どういうわけか話が噛み合わず、食い違いは紛争に転化します。

 私の狭い経験、それも何件かの医療事故や交通事故裁判の仕事からの勝手な推測ですが、この種の損害賠償請求の目的が「お金が欲しい」であることは皆無であると感じます。とにかく自分が置かれた状況において、絶句と沈黙の真っ只中で「何か」をしなければならず、その「何か」を消去法で切っていった場合に、この世の合法的なシステムにおける「何か」というのは、それしかないということです。「何か」が金銭の請求になってしまうことは、本人の責任ではありません。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その1

2014-03-24 22:53:41 | 国家・政治・刑罰

3月24日 毎日新聞より
「園児遺族側が敗訴 仙台地裁、賠償請求棄却」

 東日本大震災の大津波で亡くなった宮城県山元町立東保育所の園児2人(当時2歳、6歳)の遺族3人が「町側が避難を指示しなかったため起きた人災だ」として、町に計約8800万円の賠償を求めた訴訟で、仙台地裁は24日、請求を棄却した。震災犠牲者の遺族が勤務先や学校などの責任を問う一連の訴訟で3件目の判決で、七十七銀行女川支店(同県女川町)訴訟に続き、遺族側が敗訴した。

 訴訟で遺族側は、町災害対策本部が震災発生直後、園に対し避難の必要がない「現状待機」を指示したために発生した事故だと主張。津波の情報収集にも不備があったとして「自力避難が不可能な乳幼児を預かる保育士と町職員が、適切な行動を取らなかったために発生した人災」と批判していた。

 一方、町側は、保育所が海岸から1.5キロ離れた場所にあったことなどから「津波襲来を予見できたとは言えない」と反論。「現状待機」指示についても「津波を予見できなかった以上、避難を指示する義務はなかった」としていた。


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 この裁判や判決の詳細に関しては、全くの部外者である私にはよくわかりません。民事法の専門家は、この判決文を読み込んで過去の判例との整合性を検討し、今後の判例の動向についての研究材料にするものと思います。また、当事者以外の一般的な国民は、マスコミを通じて伝えられる範囲の情報を真実と捉えつつ、裁判所の判断や当事者のコメントに対して、賛成か否かの意見を持つものと思います。そして、数日間ですぐに忘れてしまうのだろうと思います。

 私の仕事の狭い経験からですが、このような問題についての双方の話し合いは、訴訟を回避するよりも、逆に訴訟での激しい争いを避け難いものとするように感じます。すなわち、両者に歩み寄りの意志があればあるほど、それが不可能であることの絶望に直面せざるを得なくなるからです。その意味で「交渉決裂」「裁判沙汰」といった用語は不正確であり、現在の法制度の下では、これを利用しないことの決断には激しい精神の消耗を伴わざるを得ないと思います。

(続きます。)

高校野球のエースの連投について

2014-03-22 22:46:13 | 言語・論理・構造

 近年、高校野球を巡るニュースでは、主戦投手(エース)が連投して肩や肘を壊すことの問題点が多く論じられていると思います。そして、近時の我が国のブラック企業との類似性について指摘される意見も耳にすることがあり、私は妙に納得させられています。これは、論者の分析の鋭さによって初めて気付かされるというのではなく、人間の精神の構造や日本文化の体質に対する洞察の深さに驚くというのでもなく、理屈を言う前に単に結論が先にあって、端的に両者が似ているということです。

 現実問題として、目の前に勝ちがあり、是が非でも勝ちたい、負けたら何もかも終わりである、頼むから勝たせてくれという切羽詰まった状況のとき、その場を支配する権力を持つ人物が採る行動は、ほぼ決まっていると思います。すなわち、権力において劣り、かつ実力において秀でている者に対して命令し、かつその場を任せて頼り切ることです。勝利に全ての価値があり、敗戦には価値もない勝負の世界において、勝つ目的のための最善の行動を採らないなど意味がわからないからです。

 目の前の勝ちがあるというのに何故わざわざ負けを選ぶ奴があるか、お前は何をしに球場に来ているのか、つべこべ言わずに言われたことをやれ、寝言は寝て言えという絶対的な論理は、権力者の独断ではなく、戦う集団の一致した意志だと思います。上位進出のためにエースを温存したがために初戦で足を掬われるなど本末転倒であり、いったい何のために何をやっているのか、勝つために野球をやらないなら何の目的で野球をやっているのかと問われれば、この論理に対抗できる論理はないと思われます。

 高校野球をブラック企業になぞらえることは、汗を流してひたむきに1個のボールを追いかける球児に失礼だという意見も耳にしますが、これもその通りだと思います。両者を科学的に比較して分析することは無意味です。ただ、本当に無理な連投して肩や肘を壊し、野球人生に悪影響を残してしまうエースが非常に気の毒だと思うのみです。そして、「投げないことは許されない」という形の論理で、誰が許したり許さなかったりするのかが不明のまま、受動態の命令が示されることの絶対的な力を恐れるのみです。

『ひまわりの おか』

2014-03-16 22:53:43 | 読書感想文

※ 東日本大震災の津波により、石巻市立大川小学校に通わせていた子どもを亡くした母親の手紙をもとに作られた絵本です。

p.33~ 葉方丹氏の「あとがきにかえて」より

 ひまわりの丘をたずねるたびに、お母さんたちは、子どものことを聞かせてくれました。涙を流し、時には笑いながら話してくれました。お母さんたちの話は、子どもへの深い深い愛に溢れていました。そして、そのぶん、深い深い悲しみに満ちていました。子を想う母親の心は、果てがないと思いました。そのことを、できるだけ多くの人たちに伝えたいと思いました。そして、お母さんたちが書いてくれた、子どもたちについての手紙をもとに、この絵本をつくることになったのです。

 ひまわりは、日々、大きくなっていきます。お母さんたちは、ひまわりの世話をしながら、ひまわりに語りかけています。きっと、子どもと話しているのです。ネイティブ・アメリカンの人たちは、「この世の中、誰ひとり私のことを思わなくなったら、私の姿は消えてしまう」と信じていました。人は、人を想うこと、人に想われることで、生きていけるのです。お母さんたちは、いつもどこでも、子どもたちのことを想っています。子どもたちは、お母さんといっしょに生きています。


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 「事実が正確に表現されていない」「言葉が不正確である」などと評される場合の問題には、大きく分けて、2つの状況があると思います。その1つは、「客観的事実と言語とが対応していない」という場合であり、実際に体験していない者の議論は伝聞からの想像に陥らざるを得ない結果として、事実の歪曲や隠蔽の有無が争われることになる状況です。恐らく、言葉の不正確性が問題とされて争われる場合の99パーセント以上が、この部分から生じているのだろうと思います。

 ここでの客観的事実とは、紛れもない主観的事実のことであり、本当に我が身に起きた歴史的な出来事であればこそ事実が正確に記せるのであって、ここで客観的事実と言語とが初めて対応するのだと思います。実際に自身に生じた歴史的事実については認識や解釈を巡る議論も起こり得ず、単に体験の有無が決定的な差異を生ずるからです。東日本大震災においても、体験の有無による言葉の温度差は如何ともし難く、温度の低い側はひたすら謙虚になるしかないと感じます。

 他方、上記の問題のもう1つの場合、すなわち言葉の不正確性が問題となる1パーセント未満の場面とは、本当に自身に起きた出来事であるがゆえに正確に書き残すことができず、本当のところは言葉にならないという状況です。人は自分の心の中を言葉にしなければ自分の心の中はわかりませんが、その自分の心の中を正確に言葉にしようとすればするほど嘘を語ってしまうという逆説があります。そして、この沈黙に苦しむ者は、安い言葉の嘘を必ず見抜くはずだと思います。

 人間がこの沈黙の言葉を語ろうとするときには、「詩」「物語」「絵画」といった高度に抽象的な伝達手段を選択せざるを得ないものと思います。言語の限界を知り抜いた者は、広い意味での論理を適切に用いて、正確な嘘を語らなければならないからです。もっとも、これはもとより言葉の不正確性が問題となる1パーセント未満の場合であり、実際に世の中で交わされている膨大な言葉の中で、絶句の深さを伴った言葉はごく僅かだと思います。容易に見つからないと思います。

 以下は、大川小学校の裁判の部外者である私の勝手な願望ですが、原告側の弁護士も被告側も弁護士も、この絵本の言葉を念頭に置きつつ話を進めてほしいと感じます。法律家にとって、絵本など六法全書よりもかなり下に位置づけられ、感傷的な空想と決め込むのが通常のことと思います。しかしながら、この裁判が「安全確保義務」「危険調査義務」といった抽象概念の切り回しの頭脳労働で終わるのであれば、法律というものはあまりに惨めで虚しい言葉の羅列だと思います。

「3・11」 その2

2014-03-13 00:04:17 | 時間・生死・人生

(その1からの続きです。)

 「3・11」を巡る主張の中で、私が特に違和感を有しているのが、「福島の子ども達を放射能から守れ」というフレーズです。福島を初めとして多くの子ども達の命が失われ、この日から時間が動かない現状を前に、自責の念、祈り、切なさといった繊細な部分が踏み潰されるような気がするからです。

 震災関連死は福島県が最も多く、避難指示区域の住民の関連死が県内の8割を超え、さらにその8割以上が70歳以上の高齢者です。帰還の見通しが立たない絶望感や、環境の変化による疲労感は、それまで積み上げてきた長い人生の軌跡を正面から否定し、人生の意義を奪うものと思います。

 ところが、「3・11」は人類史上最悪の放射能汚染の日であるという視点からは、「福島のお年寄り」は切り捨てられ、「福島の子ども」ばかりが叫ばれているというのが私の印象です。個人の心の奥底の悲しみや絶望などは、極めて内向的であり、政治的主張との相性が悪いことの表れだと思います。

 穿った見方をすれば、福島原発事故が地震と津波によらない単独事故であったならば、脱原発の世論の盛り上がりは比較にならなかったと思います。私は少なくとも、原発の議論の中身ではなく、論点自体の設定として、「3・11」を脱原発の政治的主張の日だとする思想は支持したくありません。

「3・11」 その1

2014-03-12 23:46:03 | 時間・生死・人生

3月11日 NEWSポストセブン
「ビートたけしが震災直後に語った『悲しみの本質と被害の重み』」より

 常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。

 じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

 本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

 そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。だから、日本中が重苦しい雰囲気になってしまうのも仕方がないよな。その地震の揺れの大きさと被害も相まって、日本の多くの人たちが現在進行形で身の危険を感じているわけでね。その悲しみと恐怖の「実感」が全国を覆っているんだからさ。


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 「3・11」という象徴的な文字列には、2種類の意味が託されていると感じます。その1つは「悲しみと鎮魂、追悼の日」であり、もう1つは「歴史的事故の反省、脱原発活動の象徴の日」です。これらは本来、理屈として相反するものではなく、実際に両立して語られてきているとも思います。

 しかしながら、前者からは「がれきは思い出の詰まった被災財」であり、後者からは「がれきは放射能で汚染された忌むべきもの」であり、相互理解の不能が顕在化していることもまた事実だと思います。ここでは、同じ「3・11」という象徴の奪い合いが生じているとの印象を受けます。

 私は仕事上、「3・11」は原発ゼロを目指す日であり、再稼動反対アピールの日であるという環境の中におります。しかしながら、私は上記のビートたけしさんの意見、「1人が死んだ事件が2万件あった」という指摘が深く腑に落ちる者ですので、率直に言えば、この環境の居心地はあまり良くありません。

 脱原発活動の空気の中では、地震や津波そのものはあくまで天災にすぎず、人災である原発事故よりも一段低く置かれます。人間が危機感を持つべき最重要課題は、人類史上最悪の放射能汚染の話に決まっているではないかということです。天災ほうの話は、最後は諦めがつくはずだという結論です。

(続きます。)

大川小遺族が宮城県と石巻市を提訴

2014-03-10 23:05:21 | 時間・生死・人生

 3月10日、石巻市立大川小学校の児童の家族が仙台地方裁判所に提起せざるを得なかった裁判は、東日本大震災という出来事そのものだと思います。この誠実な論理こそが、あの日の大震災というものなのだと、改めて慄然とさせられます。この論点の中心を射抜く現実の直視に比すれば、「絆」「前進」「未来」「笑顔」などは明らかな論点ずらしであり、現実逃避の論理であると感じます。また、「復興」ですらも、震災そのものを正視する論理ではないと思います。

 周囲からどんなに「過去は変えられない」「未来は変えられる」と言われたところで、人の人生の形式というものは、「どうしてもこの問題に向き合って苦しまなければ人生が成立しない」という論理であらざるを得ないと思います。片が付かないかも知れないことを前提として、そのことに抗い続けなければ心の区切りをつけられるか否かすらもわからず、そのわからないことに集中しなければ前に進めるか進めないかもわからない、このような限界的な論理です。

 裁判を起こすより他に方法がなくなったという震災そのもの論点の前には、「未来」「前進」など生温い気休めですし、何をすっきり終わらせようと急かしているのか、論点ずらし以上のものではないと感じます。また、終わらせたいのではなく始まってしまった人生の形式にとっては、「復興が進む」「笑顔が戻る」という価値の押し付けは暴力的だと思います。誰に何を言われようが、他人ではなく自分の人生であり、世間的価値で誤魔化せる話ではないからです。

 このような訴訟に対しては、「不満の矛先をどこかにぶつけたいのはわかるが、学校を悪者にするのは筋違いである」との意見を多く耳にします。これは、当事者ではない人間の感想として自然でしょうし、私も心のどこかでそう思っています。この心情は、筋が通らない気持ち悪さから逃れたい無意識だと思いますが、なぜ天災によって人間同士が争うのか、それが紛れもない現実であり、この裁判こそが震災そのものであると、自戒を込めて確認したいと思います。

三重県朝日町 強盗殺人事件 その2

2014-03-09 22:24:27 | 国家・政治・刑罰

3月8日 時事通信ニュースより

 三重県朝日町で中学3年の女子生徒(当時15)が殺害された事件で、強盗殺人などの容疑で逮捕された少年(18)が調べに対し、殺意については否認していることが8日、捜査関係者への取材で分かった。少年は「金目当てだった」と事件への関与は認めており、県警四日市北署捜査本部は女子生徒が死亡した状況などを詳しく調べる。

 捜査本部によると、少年は取り調べに素直に応じているが、反省の言葉は口にしていないという。捜査本部は、家族や友人らの証言などから、事件当日の少年の行動について確認を行っている。


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(「その1」からの続きです。)

 この報道番組のコメンテーターの意見の中で、私が特に違和感を覚えたのが、15歳の子どもが命を奪われた事件の文脈において、「子どもは国の宝である」という絶対的正義が提示されたことでした。両親にとって宝である我が子の命が奪われ、そして何よりも本人にとって宝である自分の命が奪われたという場面で、なぜ「国の宝」という話が出てくるのかということです。私は、進歩派の死生観の残酷さに心が痛くなるとともに、全体主義的なイデオロギーへの恐怖感を覚えました。

 もちろん、少年法の精神に代表される人権論は、全体主義とは正反対の地位にあるはずだと思います。ゆえに、国家権力を監視して縛りをかけるという思想が、個人の集まりにすぎない国家を実体化させ、別の全体主義を生んでいるというのが私の実感です。ここの部分は、国内の個人間の議論では加害者が善=弱者であるのに対し、国家間の議論では加害者が悪=強者である(自国の加害の歴史を直視し続けなければならない)という思想のつながりにも表れていると思います。

 「罪を犯した未成年者は弱者である」「自分は弱者の味方である」という簡単な論理で話が済ませられるのであれば、「人権」を論じることは楽な作業だと思います。同じように、「法制度は被害者の復讐心を満足させるものではない」「被害者には心のケアこそが求められる」との論理で綺麗に話を終わらせ、被害者側の苦悩に共感する国民の無理解を嘆き、これ改めようとすることが正義の実現であるというならば、やはり「人権」を論じることは非常に楽な作業だとの感を持ちます。

 私は個人的に、「人権」という概念を語る資格がある者は、その人権の正論が耳に入ってしまったときに苦しむ人への想像力を失わない者だけだと思っています。正義の人権論を叫ぶ者は頭がスッキリし、夜も気持ちよく寝られるでしょうが、その言葉が耳に入ってしまったことによって心の中がグチャグチャになり、精神をズタズタにされ、胸が張り裂ける思いで夜も寝られずに泣き続けることになる者が必ず存在し、そして、この現実は容易に世の中の表には出てこないと思うからです。

三重県朝日町 強盗殺人事件 その1

2014-03-08 23:27:04 | 国家・政治・刑罰

3月3日 スポーツ報知ニュースより

 三重県朝日町で昨年8月、同県四日市市の中学3年の女子生徒、寺輪博美さん(当時15歳)が殺害、遺棄された事件で、県警四日市北署捜査本部は2日、強盗殺人の疑いで、遺棄現場近くに住む県立高校3年の男子生徒(18)を逮捕した。夏休み中の中学生が殺害された凶悪事件は、発生から半年余りで捜査が急展開した。

 逮捕されたのは、高校の卒業式を終えたばかりの18歳だった。四日市北署捜査本部は男子生徒が1日に高校を卒業するのを待って、事情聴取。自宅を家宅捜索し容疑の裏付けを進め、男子生徒を逮捕した。逮捕容疑は昨年8月25日ごろ、朝日町の県道脇にある空き地で女子生徒を殺害し、現金約6000円を強奪するなどした疑い。

 女子生徒の家族は2日、自宅前に「私たち家族は、今回の思いがけない出来事で大変心を痛めています。犯人の行為は決して許すことができず厳罰を望んでいますが、今は捜査の状況を静かに見守りたいと思います」などと記された貼り紙を掲示した。


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 この事件を論じる報道番組で、あるコメンテーターが少年法の精神を理路整然と力説しているところを見ました。「子どもは国の宝であり、少年法はこのような精神に基づいて定められている以上、厳罰ではなく教育による更生が必要である」というものです。私は仕事柄、進歩派の法律家が「無知な大衆の厳罰感情」に苛立ちを見せる場面に連日のように接していますが、このコメンテーターの言葉も私の心に響くことはなく、逆に胸が苦しくなる感覚を生じました。

 私がこのような言明に全く心を揺さぶられないのは、目の前の個別の現実や個々の人生が直視されておらず、人間に対する温かい視線が感じられないからです。そして、どのような事件を前にしてもドライに徹し、原理原則や理念を理路整然と語ることが「人権」であるとは思えないからです。また、識者が語る少年法の歴史や沿革からは、人が実際に肌で感じる繊細な感覚が押し潰され、識者の脳内にある人権論が唯一の正解とされるような強制力を感じます。

 私は以前、ある未解決の殺人事件の家族の話を聞き、激しい衝撃を受けたことがあります。これは、「一刻も早く犯人が逮捕されることだけが希望であるが、犯人が未成年であったときのことを考えると希望は絶望になる」といった内容でした。この悲痛な屈折した論理を生み出しているのは、紛れもなく人為的な法制度の側です。そして、法制度を運営する者の多くはこの言葉を聞いても愕然としないだろうという想像が、また私の心を愕然とさせました。

 自分の娘の命をこのような事件で突然奪われた者が、その事件に関して「少年の更生・未来・社会復帰」という正論を耳にしたときにどのような気持ちになるのか、そこに目を配れるかどうかは、「人権」を論じる者にとって非常に重要なところだと思います。人権が万人に対する普遍性を持つ概念である以上、正論の絶対性に胸をかきむしられる者に思いを馳せて、人の心をもって本気で苦しむことができなければ、その正義は本来の「人権」ではないと思います。

(続きます。)